卑しんぼ
その晩、隼太が来た。今、余り見たい顔ではない。特にチェシャ猫のようなにやにや笑いをしているときては。お帰りください、と言おうとして機先を制せられる。
「提携が失敗したようだな? 菅谷桜との」
「……」
どこから漏れた。喫茶店内は密閉空間で風の入る余地はなかった筈。
「菅谷昴に追求されているのを見た。昴は妹の背信行為だと騒いでいたが。早合点だろうな」
「お入りください」
玄関で済む話でもなさそうだ。隼太の来訪をいち早く察知した聖が私の後ろに立って警戒している。後方の楓をこそ守って欲しいのだが。隼太は台所に上がると、手に持っていた袋から鯵を取り出し、包丁ですいすいと切り始めた。裾をめくった腕に妙な色香がある。
「手ぶらでは何かと思ってな」
鯵のたたきの出来上がりである。
「仕方ありませんね貴方がどうしてもうちの晩餐の仲間に加わりたいと言うなら仲間にしてあげます純米吟醸があれば申し分ないのですが」
「……」
隼太がコートの前を開けるとそこには純米吟醸が。
「仕方ありませんね別に酒と肴に釣られた訳ではありませんよお座りください」
「……」
何だろう。客間の楓と聖から、何とも言えない視線を感じる。だって仕方ないではないか。美酒美食は私の生きる友なのだから。今日の夕食は座卓で食べる。楓にはぴったりもーちゃんが張り付き、きょろりとした目で隼太を警戒するように見ている。
「音ノ瀬の当主は卑しんぼだな」
くくっと笑いながら隼太が自らも酒を呷る。
「いえ、違います」
「こと様、苦しいです」
何を言うか、聖。私は決して卑しんぼではないぞ。
「人に関しても卑しんぼだ」
「――――……桜さんのことですか」
「ああ。あの女は菅谷から離れんよ。……心をな。囚われている者を動かすのは骨が折れる。お前がその労苦を惜しむとは思えんが、無駄だから止めておけ、と俺は忠告する。昔の自分を思い出せ。まだ音ノ瀬を継ぐ決意の出来ていなかった頃の。心は鉛を抱いたように重く呼吸は苦しく身動きとれなかっただろう」
なぜそこまで正鵠を射たことが言えるのか。
ああ。
ああ、そうか。
「貴方も囚われていたのでしたね……」
音ノ瀬隼人に。
隼太の眉がピクリと動く。彼は人を読むのは好むがその逆を好まない。自ら拵えた鯵のたたきを生姜醤油で二、三切れ食べてまた酒を呷る。
「結局、隼太さんは何をしにいらしたんですか?」
「思い通りにならない現世に、足掻く音ノ瀬当主の顔を見に来た。だが、余り面白い流れではなかったな」
言うだけ言うと立ち上がり、隼太は帰って行った。
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少し寒さの緩んだ一日でした。
皆さまの明日に幸いのコトノハが咲きますよう。




