体感温度
ことの就寝を確認してから、聖はあてがわれた客室の窓を開け、白髪を風に揺らしながら庭ではなく何も無い宙を見ていた。
スクリーンに映し出された光景を見るに似た視線で。
表情に変化は無く、ひたりひたりと一定速で瞬きをし、やがて映画を観終えた客のように両開きの窓硝子を閉じる。反転して出窓に腰掛け、木の天井から下がる美装のランプを眺めた。
六畳の部屋に、硝子に切り込まれた水玉の陰影が広がる。
それは暖色に降る雪を想わせた。
「妄言一服、か」
雪景色に白兎の独白が冷える。
「それで、何を買うんでしたっけ?」
こいつ、何度目の質問だ。
私は呆れながらも俊介の問いに答える。
「茄子、胡瓜、茗荷、獅子唐、生姜です」
「あたし、全部覚えたー」
「楓さんは物覚えが良いですね」
繋いだ手を軽く揺らして、俊介への当てこすりを込めて言う。
昼前にスーパーが混雑するよりも早い時間帯を狙い、照る日の下を俊介にガードされながら買い物に行く途中である。
だが俊介は犬で言うならシェパードよりラブラドールか柴犬。私の気分は買い物ついでの犬の散歩。
聖は留守番だ。
行ってらっしゃいと呑気に手を振っていた。
「柴漬けって家でも作れるんですね」
それも何度目の台詞だ、俊介。
「作れますよ。赤梅酢と、塩と焼酎があれば」
ちょっと細かく答えてやる。
「焼酎を入れるんですか!」
「……保存容器を消毒するだけです。焼酎なんか入れたら楓さんが食べられないでしょう」
非常時とは思えぬ長閑さだ。
朝晩は寒いくらいに涼しいのに、日中の太陽は夏に劣らぬ威勢を見せる。
楓には帽子を被せ、私は日傘を差し、買い物袋だけ持つ俊介は日光にされるがまま。
どうして世の男性は雨傘は持つのに日傘は持たないのだろう。謎である。
小規模ながら趣向を凝らした和風の家々の並ぶ一画で、私は足を止めた。
椿の生け垣の無残を見たからだ。
生け垣の主である家には好事家の物書きが住んでおり、椿を愛で、題材にした作品も書いていた。冬になれば美しく咲く椿を見るのが、この道を通る楽しみでもあったのに。
「酷いな……」
俊介の声を聴き流し、散り落ちた赤と緑の一片一片を注視する。
鋭利な刃物で裂いたような。
ここまでの惨状を生むには狂気じみた執念と時間が要るだろう。
普通であれば。
――――――――では、普通でなければ。
なぜ椿はもう咲いた?
怯えるように身を寄せた楓の肩を抱く。
「山田さん、携帯を貸していただけませんか」
「え? はい」
「先に楓さんと行ってください。追いつきますから」
「……ことさんお一人で?」
「大丈夫です。楓さんを頼みます」
「……解りました」
不安そうな楓の頬を撫でて促す。
二人の後ろ姿が自分の握り拳大ぐらいになってから、私は携帯の画面と向き合う。
私が風の報せを聴き逃していたのだとすれば。
聖か秀一郎に至急、問い質さねばならないことがある。
互いを結び付けていたことという存在が離れ、俊介と楓は軽い緊張状態にあった。
珍しくことが見せた差し迫った様子も気に掛かる。
俊介は大人の自覚を以て楓の気を軽くしようとあれこれ話しかけて努めたが、楓の心身は強張っていた。初めて逢った時から、ことがいなければ途端に楓の言動がぎこちなくなるのが常だった。彼女の事情をことから聴いた俊介は、まだ楓が人馴れしていないのだと同情した。それでも懸命に受け答えしようと、幼いなりに勇気を出しているのは解る。
スーパーの中の冷房は消極的で、強い陽射しを受けて歩いて来た身には暑かった。
俊介はことから引き受けた楓の手をずっと握っている。信頼を裏切る訳にはいかない。
店内の照明は無粋に白々と明るく、煩雑な音に満ちている。
趣がしろしめす、ことの家に比べると別世界だ。
野菜売り場に向かう俊介と楓の前に、レトルトカレーの箱がぽとりと落ちた。
「すみません」
俊介が屈んで拾い上げると、そう言って若い男が掌を出した。彼が落としたのだろう。
「いえ」
手渡すとにこやかに会釈される。
「今日は涼しいですね」
「え、そうですか? 僕が暑がりなのかな……、」
世間話の口上に、俊介は素直に頷けなかった。
するとなぜか相手の瞳孔が開いた気がした。
「……可愛いお子さんだ」
「あ、いえ、僕の子じゃなくて」
楓を目線で指した男に俊介が慌てて否定すると、彼は考え込むように口元に手を遣り、次いで俊介を怪訝そうに見た。
(もしかして俺、誘拐犯とか疑われてる?)
嘘でも話を合わせるべきだったかと俊介は思う。
しかし相手はあっさり退いた。
「どうもありがとうございました」
「いいえ」
体感温度には個人差がある。
涼しいと感じたから、彼も紫陽花を思わせるような色合いのコートを着ていたのだ。




