人の心という生き物
ことの家に行く途中、秀一郎は和装の若い女性とすれ違った。印象的な栗色の髪。儚げな顔立ち、佇まい。彼女の身元を秀一郎は知っていたが、その場では何も気づかない風を装った。すれ違う一瞬、風が吹き、彼女の長い髪が秀一郎の白いスーツの背を撫でた。
ミンミンと、鳴く蝉が相変わらず姦しい時節のことである。
青い切子硝子のタンブラーに、グレープサイダーを入れて出す。青と紫が混じり合い、美しい色合いになる。秀一郎はこの暑い中、汗一つ掻かずに涼しい顔でサイダーを飲んでいる。その間に私は前川親子の一件を伝えた。二、三口サイダーを飲んだ秀一郎は軽く頷いた。
「ことさんらしい裁量です。僕もその判断で正しいかと。宝珠はまだ少なからずある」
「隼太さんが無理をしていないかが心配です。彼は人の心を持ちますが、相手のそれを慮ることはしません」
「恭司君が離れましたからね。大海さんではストッパーにはなりますまい」
私の懸念を、秀一郎は暗に肯定する。私は庭に目を移す。小まめに手入れをしている為、雑草もそれ程生い茂らず、良い案配の緑が和みとなる。桜の樹の緑も若々しい様相を見せている。緑は生命の色なのだ。年波を遠ざけ活力をもたらす。
「菅谷桜嬢に会いました」
「どこで?」
「先程、この家の近くで。僕に気づいたかどうかは定かではありませんが」
秀一郎は知らぬ振りをしたのだろう。向こうもそうだとすればいずれが狐か狸かだ。
「綺麗な人ですよね」
「そうですね。お代わりいただけますか」
軽く流して催促した秀一郎に応えたのは聖だった。さっきから私の隣に無言で控えていた。副つ家だなあと思うのはこんな時である。
「ことさん。いくら容貌が秀でていようが手弱女に見えようが、手心を加えることは禁物ですよ。特に女性はしたたかですしね……。おっと、失礼」
お前の失礼は今に始まったことではないだろうが。
私は軽く秀一郎を睨みながら、自らもグレープサイダーを飲んだ。濃厚な葡萄の風味が何とも快い。
「菅谷祐善も昔は中々辛酸を舐めたようですね。どの家も父親が専制君主となれば子供が苦労する」
聖が語る私の顔をちらりと見る。
「曲がるか、曲がらぬかの違いですよ、ことさん。どんな親を持とうと、真っ直ぐ育つ人もいる。ご自身がそうでしょう」
「どうでしょうね……」
秀一郎の鼈甲ぶち眼鏡がきらりと光った。
「僕が最も危惧しているのはそこです。ことさんが菅谷桜、昴、祐善に同情してコトノハが鈍らないか。下手をすれば命取りになりかねません」
解っている。
蝉よ、鳴くな。解っているから泣くな。
この世の遍く全ての嘆きを、掬い取れはしないことなど、もう私にも解っているのだから。
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今日は氷雨降る一日でした。
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