雨音
雨が降る庭の、濡れた下草の露と露の間をもがくように黒い蟻がゆく。私は縁側からそれを見下ろしていた。すると横にコトリと置かれる桜の紅茶。アイスティーだ。切子のグラスに時節にそぐわぬ花が咲いている。聖の心遣いだ。今日は玉虫色の単衣を着た聖と、明るい檸檬イエローの生地の訪問着を着た私は、似合いの一対に見えるだろうか。天つ水に濡れる諸々の命から。
「沈んでおられますか?」
「少し言い過ぎたかと思いまして」
「仕方ありますまい。恭司君の居場所は危うい。こと様が宝と思う楓さんを寄せるのに、危惧、懸念されるお気持ちは痛い程解ります」
「……貴方は私を解り過ぎですよーだ、あっち行ってください」
「おや、嫌われた」
二人して、心にもないことを言って笑う。こんな時間が幸せだ。楓にもあげたい。紅茶は過ぎた時に匂い立ち咽喉の奥へ消えた。
「菅谷が黙ってはいまいな」
「でしょうな」
楓と恭司の話と微妙に切り離した言葉に聖は難なくついてきた。菅谷祐善。麒麟の父であり陰陽の大家の現当主。政財界とも繋がりがあるのは、陰陽師の昔と変わらぬところか。祐善は麒麟に対して親の情念を持たないが、陰陽師としての素質は認めている。その麒麟にわざわざ捜させるくらいだ。宝珠への執着ぶりが窺い知れる。
「祐善の人を人とも思わぬ気質は外にも知られているらしいが、その抜きん出た実力ゆえに正面から盾突く者がいないと秀一郎が言っていた。……うちも財界や警察や法曹界とは縁がある。政界とも皆無とは言えない」
結局、そういうことなのだ。
如何に一族の掟で縛ろうと、清い水だけでは生きられない。必ず交わる接点がある。雨にけぶる気色は情趣あり綺麗だ。さらりさらりと音が鳴る。
「隼太は祐善と組むかもしれぬ……」
私の言葉に、聖は穏やかに笑むだけで何も答えなかった。彼はもうずっと、そのようにしてあるのだと決めているようだ。
菅谷祐善の屋敷には結界が十重二十重に張ってある。日本でも屈指の陰陽道の大家であることがそうした点からも垣間見える。しかしその十重二十重の結界を平然と掻い潜り、漆黒の雨に濡れた羽根を羽ばたかせて舞い込む烏がいた。バッサバッサと庭の松の枝に留まる。菅谷祐善は私室にいながらそれを感知した。彼は烏が隼太の使う隼太であること、隼太が通常の烏とは違うことを既に看破していた。す、と障子が左右に開く。無人の部屋に隼太が舞い込む。かあ、と一声鳴くと、祐善の座る前、文机に居所を据えた。隼太の黒く太い脚には手紙が結びつけてあった。不思議なことにこの雨にも濡れていない。祐善はしかしそれを不思議とも思わず紙を開き、中身を一瞥した。
想像していたより流麗な筆文字だ。読み終えると祐善は隼太を眺めて声を上げた。
「昴! 桜! 」
華やかな花鳥の描かれた襖が開き、黒く真っ直ぐな髪を後ろで一本に結んだ青年と、淡い色の髪がふんわりと背まで伸びた着物姿の女性とが姿を現した。
「麒麟はあてにならん。お前たちで宝珠を捜して来い。音ノ瀬に先を越されるな」
差し出された手紙を読んだ桜がじっと父親を見据える。
「お父様はお出になられぬのですか?」
「雑務は雑魚の仕事だ。文句があるならいつでも出て行け」
くっくっく、と昴が笑う。笑うと陽光の似合いそうな明るく整った顔に八重歯が覗き、屈託ない性格を思わせる。事実そうであるかどうかは別として。
雨音を聴きながら廊下を歩く昴と桜は、麒麟の母違いの兄、姉だ。昴は二十九、桜は二十六。
「音ノ瀬。聴いたことはある。言葉を使い諸物を操る不思議な一族。昔は神祇官にいたとか」
「どうでも良いよ、そんなこと。麒麟を出し抜けるチャンスだろ?」
桜が呆れた顔で兄を見る。
「昴。これを菅谷の主になる足掛かりとは思わないほうが良いわ。どこまで言ってもお父様は実力主義。口ではあのように仰せでも、まだ麒麟を見限ってはいない」
「見限るようにさせてやれば良いのさ。あの弟はおいたが過ぎる」
桜は静かに歩きながら昴を哀れに思った。まだ父の情に期待する兄。いっそ力が皆無であれば思い切りもついたものを。なまじ麒麟と比肩するとまで言われるだけに。桜は自分が投げつけられた酷い言葉についても考えた。そう。出て行こうと何度思ったか。けれどそのたびに外界を知らない臆病な小鳥が胸の内で鳴いて、桜を挫けさせた。
縁側の向こうの曇天を見る。
雨はいつまで降るのだろう。
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