若者たちよ
朝、門前に打ち水をしていると、スニーカーの爪先が目に入った。
顔を上げると恭司だ。相変わらず、和製天使のような面立ちをしている。出逢った当初は手負いの獣のように険しかった表情も、今では随分、柔らかくなった。楓のみに起因することだろうか。
「恭司さん、おはようございます」
私は空になった手桶と柄杓を左手に、彼を中へ導いた。恭司は答えず、只、顎を浅く引いた。蝉の声が背中を打つ。連日、休むことを知らないのだろうか。今日は人間社会は休みだと言うのに。訊かずとも恭司が誰に逢いに来たかは判っている。私は玄関の脇に桶と柄杓を置いて、スリッパを出した。
「楓さん、恭司さんが――――」
「あー待って、ことさん、もーちゃん捕まえて!」
ドタドタと楓が廊下を走って来た。私ではなく、恭司がもーちゃんの首(?)をひょいと摘まむ。
「何だ、離せ、離せ」
「ほら」
「ありがとう、恭司君」
哀れもーちゃんは恋人たちを結ぶ虜囚となった。もーちゃんが逃げていた理由は一目瞭然だ。彼の青い体毛には色とりどりのリボンが結びつけられていた。
「楓さん。もーちゃんはお人形ではないのですよ」
「ことさん、これ、外して、俺、やだ」
「ほら」
「……はい。ごめんなさい、もーちゃん。恭司君、飲み物用意するから、客間で待ってて。ひーくんもいるよ」
鬼兎は余計だと恭司の顔に書いてある。それはうちがうちである以上、私と聖が夫婦である以上、仕方ない。しかしこれは良い機会だ。
「楓さん。部屋にいてください。私と聖さんは恭司さんに大事な話があります」
「解った」
話の後は二人をちゃんと逢わせる積りだ。
氷の入った檸檬ジュースの硝子コップを三人分、用意する。檸檬の酸味のある香気が周囲に漂っている気がする。空は今日は薄曇り。うちから見える山の峰を雲が覆っている。あれが流れてこちらに来れば雨になる。
恭司は話の内容をあらかた予想しているようだった。静かな眼差しで、私と聖の前に座る。座卓の上の浅い緑の裂き織コースターには檸檬ジュース。よく冷えて美味しい。蜂蜜をたっぷり入れてあるので、且つ甘い。
「話って、俺と楓のことか?」
「はい。確認しますが、恭司さんは楓さんのことを好いていますよね」
「ああ」
何かを手放すような調子で恭司が答える。聖がそんな恭司を凝視している。至高の紅玉はどんな虚偽も見逃さない。釣忍が鳴った。やはり降るらしい。
「添い遂げる覚悟がおありですか」
そこで恭司が黙った。私も聖も一言も発さず彼を見ている。
「俺はあいつを守る。けど、俺じゃあいつに相応しくない」
「逃げは許さぬ」
私は冷厳として恭司に言い放った。音ノ瀬家当主として。楓の母として。あの子の将来を胸を張って語れる男以外に、誰が託すものか。
「音ノ瀬隼太と縁を切れ。でなくば楓と。隼太か楓を取れ。巷間に申すであろう、人生は選択の連続であると」
「……隼太とは切れねえ」
「では楓は諦めよ。守るというコトノハも所詮は浮雲よ」
「こと様」
「聖。黙っていろ。恭司。そなたからは血の臭いがする。未だ隼太の凶行の片棒を担いでいるのであろう。そんな男に楓はやれぬ」
「…………あいつは俺がいないと駄目だ」
「成程、共依存か」
容赦をしていない自覚はあった。けれどなまなかな受け答えで、ゆるがせに出来る問題ではないのだ。恭司は追い詰められていた。他でもない私によって。けれどまだだ。まだ、極限状態にまでいかないと、この頑なな青年の心は定まらない。
「楓には他に好いた男が出来るだろう。そなたと違い、血臭のしない穏やかな男が。添い遂げて、子供を生み、この家で幸せに暮らすのだ。恭司。そなたはそれを見届ける気概があるのか。ある種、地獄ぞ」
恭司が膝に置いた指がズボンの布地に食い込んでいる。
「それであいつが幸せなら」
「甘い。そして情けない。そのような心持ちで楓と逢っていたのか」
「ことさん、もう止めて」
楓が聞き耳を立てていることには気づいていた。
「楓さん。これは私たちの話合いです」
「私にも関係あるでしょう。私の話でもあるでしょう。ことさん、恭司君と私を添わせて。どういった形でも良い。添わせてください、お願いします……」
楓が畳に額を擦り付けんばかりの勢いで頭を下げた。恭司は呆然としている。
「…………」
私はしばらく、愛娘の姿を目に焼き付けていた。
大きくなったね。いずれは巣立つのだ、こうして、子供は皆。
「恭司さん、空いた時間に秀一郎さんのカウンセリング事務所を訪ねなさい。仕事を習い覚えながら資格を取るのです。今は通信で勉強が出来ます。隼太さんの傍には……そう、確かに貴方は必要でしょう。血を流さずにいられるようになれば、楓さんを迎えに来なさい。その時、音ノ瀬がどうなっているか解らない。貴方には入り婿になってもらうかもしれない。諸々の覚悟をしなさい。それが楓さんとこれからも逢い続ける条件です」
黒い座卓に置いた秀一郎の名刺は、黒の中、白く凛々しく四角に存在していた。
恭司はその名刺を黙視した。楓も覗き込んだ。
その時私の脳裏に、同じ舟に乗る一対の男女のイメージが浮かんだ。
花びらが降って、花筏を割りながら舟は進む。
彼らは祝福を受け、幸せになるのだろう。
きっと幸せになるのだろう。
私はそう願う。
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作中のコトノハが咲く花のひとひらとなれば幸いです。




