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コトノハ薬局  作者: 九藤 朋
風姿花伝編 第四章
245/817

苦笑

 常に涼やかに振る舞う音ノ瀬秀一郎は、その実、多忙である。彼が経営する企業は小規模ながら業界では知られた選りすぐりのカウンセラーがいる。そのトップが秀一郎であり、経営者と言えど自らカウンセラーとして依頼者に向き合うこともある。彼のカウンセリングの評判は上々で、指名での依頼が後を絶たない。それを知ることは、よくしょっちゅううちに来られると呆れも感心もしている。

 カウンセリングルームには穏やかな音楽が流れ、観葉植物がそこここに配置してある。窓からははるか下界を見下ろせる。ここは高層ビルの上方の階にあるのだ。

「事故で右足を骨折しまして」

「それは大変でしたね」

「それでも人への気遣いは忘れまいと必死だったのですが。何をやっても上手くいかなくなって。上司のパワハラは酷くなるし部下には莫迦にされるし、妻も理解がない」


 秀一郎の目の前にいる男性は、丁度、秀一郎と同い年である。だが、その外見のもたらす印象は大いに異なる。男性は田中(たなか)和彦(かずひこ)と言い、頬がいたましくこけ、髪は白髪が目立つ。目の下には隈が出来、まるで幽鬼のようだ。秀一郎は自分の感じた男性の印象をおくびにも出さず、話しかける。コトノハを処方しながら。

「田中さん。足の骨折はきっかけに過ぎません。貴方の誠実さや真摯なお人柄は、今の状況でも損なわれるものではない。もし、どうしても今の会社に居辛いなら、転職先をご紹介します」

 和彦の頬に赤みが差した。秀一郎のコトノハを服用したのだ。

 これまで自分独りで足掻いてもがいてどうにもならなかったものが、秀一郎の言葉一つでするすると解けていく。

「妻は……」

「初めて奥様とご一緒に行ったレストランはおありですか?」

 和彦が目を大きくする。

「……あります。この近くの、フレンチ。牛頬肉が絶品で。……そう言えば最近、行ってなかった」

「ご一緒に行ってごらんなさい。何か小さな、ジュエリーでも奮発して。貴方の年代なら花よりそちらのほうが効果が大きいでしょう」

「そんなことで、変わるでしょうか」

 

 秀一郎はそれまで座っていた椅子から立ち上がり、うーん、と大きく伸びをした。白髪の一本もない後頭部が見える。


「田中さん。女性とは、とても素直な愛すべき生き物です。そう、花にも似ている。水を与えよく目を配り、愛情をかければ応えてくれます。例外もありますが」

「先生なんかはそんな例外ないんでしょうね。お相手の人と、先生が羨ましいです」

 その言葉を聴いて初めて、秀一郎は苦笑した。

 和彦に新しい就職先を斡旋(あっせん)し、秀一郎は受付の女性に声を掛けてから昼食に出た。今日も太陽の威勢盛んだ。夜には音ノ瀬家を訪ねる積りである。カウンセリング事務所の営業時間が五時までなのは実はことの顔を見やすくする為でもある。



「また来たんですか、秀一郎さん」

「キャビアと白ワインです。どうぞ」

「ありがとうございます、お上がりください」


 私の頬の腫れが引いた頃、秀一郎が訪ねて来た。

 近頃、宝珠についての聖との打ち合わせにかこつけて、以前より足繫く通ってくる。白い三つ揃えの向こうに夕暮れ時の情景と蝉の鳴き声、ちらほら飛び交う蝙蝠(こうもり)の影を背負っている。……背負っている。

「秀一郎さん。私の他に好きな女性はいないのですか」

 一息に尋ねる。これは肝要だ。案の定、秀一郎は苦笑いした。

「いませんね。その内、聖君と決闘でもしますか」

「洒落にならないのでやめてください」

 私は秀一郎を客間に通し、キャビアと白ワインを冷蔵庫に仕舞った。客間には聖が胡坐を掻き新聞を読んでいる。やや親父臭い恰好も、聖がやれば不思議と様になる。うん、惚気だ。聖が読んでいた新聞から顔を上げる。

「いらっしゃい、秀一郎君」

「お邪魔するよ、聖君」

 私はお茶を淹れに台所に向かいながらあの二人は独りの(くぼ)みを互いに補っているようだと思った。少し湧いた、これは嫉妬だ。私だって独りだった、と叫び出したい子供の自分を心の中に見出し、私はくすりと苦笑した。



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