それだけしか
『俺は構わんがな』
その晩、黒電話の受話器から聴こえた隼太の言葉は呆気ない程あっさりしていた。少し物思う風でもあった。
『だが菅谷麒麟が協力するとはとても思えん。悲しみの淵に沈む者をな、引き上げるのは至難の業だぞ、音ノ瀬こと』
「……はい。努めてみます」
隼太の言葉、声からは、最愛の妻を亡くして狂気に陥った父・大海を持つ者ならではの深みが感じられた。また、私が聖を喪った時の悲嘆を鑑みても、隼太の言うコトノハは、尤もな説得力があったのだ。
受話器を置き、ふう、と息を吐く。
菅谷麒麟はこの近くに一人暮らしをしているらしいというのは秀一郎の言だ。相変わらず仕事が早い。私は今朝から一日かけて、麒麟にコトノハを飛ばしていた。夕方近くになって、縁側にちょこんと乗っていた赤い折り鶴には唯一言、『否』と毛筆で書かれていた。赤い夕焼けだった。赤い夕焼けに赤い折り鶴が迫力負けして寂しそうな印象を受けた。
「麒麟さん。それでも、明日の朝九時にお伺いいたします」
私は譲らぬコトノハを風に乗せた。釣忍が鳴り、月桃香の煙が細く揺らめく。
夏だな。
死者がこちらに来て、また帰ってゆく季節が巡って来る。勇魚の魂もきっとその中にあるのだろう。赤い空に優しい茜が入り混じり、やがて藍が支配した。
翌日は曇り空だった。秀一郎が空を見上げ、降りそうだと独りごちる。麒麟の住まいに向かう顔ぶれは、菅谷邸を訪問した顔ぶれと同じだ。但し今回は麒麟の住まいが徒歩圏内にある為、車は使わない。
最初、私一人で行くと言ったのだが、秀一郎と聖が揃って反対して今がある。まあ、気持ちは解らないでもない。私は不承不承、彼らの同行を許可した。アスファルトの道を右に曲がり緩い坂を下り小学校や行きつけの喫茶店の横を通り過ぎ、麒麟の住まいに着いた。
麒麟の住まいの近くには小さなお社があり、赤い鳥居の横に高砂百合がそよいでいた。台湾産の命が、異国でたくましく咲いている。
麒麟の家は小規模な和風住宅だった。小さいながらに小綺麗で、しかし門前に出された朝顔の花は萎んでいる。枯れたのだろうか。
呼び鈴を鳴らすと、水干を着て漆のように見事な黒髪を高くに結い上げた少女が出て来た。
「音ノ瀬様ですね。お入りください」
玄関に入ると、飴色の木材がふんだんに使われ、小たりと言えども贅を凝らした内装であることが窺える。奥の簾を少女が上げると、八畳間の隅に麒麟がぽつんと座っていた。彼は私たちを最初から見ようとはしなかった。只、少女に下がって良いぞとだけ覇気のない声で言った。
開け放した縁側から夏特有の濡れたような媚びるような風が吹いてくる。
麒麟の、以前より白くなったように思える白髪がそよと靡いた。
「宝珠の件か」
「そうです。貴方にもご助力いただきたくて」
くす、と麒麟は笑った。見ようによっては泣いたようにも見えた。
「好きにすれば良い。俺は関知しない」
「私を贄にしようとしたのは誰ですか。貴方には借りがある筈です」
「……」
「勇魚さんは、お気の毒でした。心よりそう思います」
「禁呪を教えない癖に」
「それは――――」
それまで黙っていた聖が口を開いた。
「禁呪を使うゆえの新たな嘆きを知るゆえだ。麒麟君。君に負わせたくはない」
その声は真摯で、聖が心からそう思っていることが窺えた。それは麒麟にも伝わったらしい。
「俺にはあの子だけだったんだ」
聖にではなく私に向けた麒麟の瞳は透明無垢だった。
「物心ついた頃から碌な愛情も受けず、ほぼ放置された。俺の中はいつもがらんどうで、陰陽の技を磨くことだけに腐心していた。勇魚が生まれた時、母親は疲れたと言って出て行った。俺はあの邸にいた女に助けを乞いながら勇魚を育てた。菅谷の家を継ぎたいと思ったのも、勇魚の為だった。俺が相応の地位に就けば、あの子が受ける待遇も良くなるかと。……でも、それももう」
私と聖と秀一郎は、それぞれ端座していたが、私は立ち上がり、麒麟に歩み寄った。彼はそこで怯えた目の色をした。私は、手負いの獣を前にした気持ちで、彼と顔を見合わせた。
「癒」
「音ノ瀬のコトノハか。そんなもの、俺には効かない。俺には……」
私は麒麟を抱き締めた。コトノハのみでは届かないのなら、コトノハと行動の合わせ技だ。麒麟が私を拳で振り払った。頬に鈍い痛み。これは青あざになるな。動きそうになった聖たちを私は目線で制した。着物でなくて良かった。
諦めず、私は再び麒麟を抱き締めた。
麒麟は今度は振り払わなかった。私の胸に顔を埋め、歯を食いしばる。
やがて、雨音と共に静かな嗚咽が聴こえて来た。
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