ピアニッシモ
翌日、菅谷家に予め連絡を取って、翌々日にあちらに訪問することとなった。菅谷家の連絡先は秀一郎が調べてくれた。こういう時は頼りになる男だ。楓が学校に行くのを見届けて、私と聖は秀一郎の運転する車に乗り込み菅谷家へと向かった。蝉が賑やかに鳴き始めた、如何にも真夏の兆しを思わせる朝だった。空にはもう入道雲が出ていて、湧き立つ雲が威勢盛んである。
菅谷家は豪壮な和風建築であった。
うちのような古く中規模の家と比べるのもおこがましいような。
あれだ、庭園内に池があって錦鯉が泳ぎ、鹿威しが鳴っていそうな感じだ。広い駐車場に停めた車から私たちは降りて、菅谷、と立派な黒塗りの文字で書かれた下のインターフォンのボタンを押す。応対したのは家政婦らしき人で、これだけで一戸建てが買えそうな門が自動で開いた。
かあ、と鳴く烏が松の樹の枝に留まっている。
きっと隼太だ。ついてきたのか。
長い廊下を案内され、十畳程の座敷に通された。
当然のように上座に座っていたのは、厳めしい古木のような老人だった。もっと恰幅の良い男性かと思っていた私の想像は外れた。上等そうな霜降りの単衣に、薄手の黒い羽織りを纏っている。私たちもそれぞれ、恥じ入るところのない恰好で来たのが幸いした。私は薄紫の訪問着で、帯留めはカッティングが巧みに施されたアメジストだ。聖も淡いヒヤシンスブルーの三つ揃えを着て、秀一郎とは対になるような装いである。
「よくお出でなされた。私が菅谷家当主にして菅谷麒麟の父・菅谷祐善だ」
端正で彫りの深い面立ちは、やはり麒麟によく似ている。
「音ノ瀬の名はこちらにも聴こえている。コトノハという妙な術を使うそうだな。女性が現当主と聴いたが……」
「申し遅れました。私が音ノ瀬現当主・音ノ瀬ことです」
祐善の目に一瞬、浮かんだ嘲りの色を私は見逃さなかった。若い(多分)女当主と軽んじているのだろう。しかしそれを包み隠すあたりは賢明である。
「麒麟さんとは宝珠に関わる件で知り合いまして……。勇魚さんのことは、お気の毒でした」
次に私を襲った衝撃を、一体誰が想像出来ただろうか。
「いさな?……勇魚。ああ、あれか。葬式やら何やらの手配も他に任せていたので忘れていたが、私の息子だったな」
私は供された翡翠色の緑茶の入った湯呑みを持った。持つ手は震えた。白地に青の牡丹が描かれた華やかな湯呑みだ。落ち着け。麒麟にたくさんの母の異なる兄弟姉妹がいたことから、祐善が自らの子供たちに愛情を持っていないことは予測出来たことではないか。
「……勇魚さんは雪原に埋葬されました。私が訪れた時には福寿草が供えられていました」
「だから何だ。子供の戯れに相応の結末が待っていただけのこと。音ノ瀬の当主よ。我らが生きるのは実力の世界。弱きは消え、強き者のみが生き残る。麒麟も下賤の女に産ませた子だが実力ゆえに後継候補となった。世界は弱さと強さに囀り始終揺らいでいる。一々、泡のように消えた弱者にかかずらうは愚かなことよ」
私の左右に座す聖と秀一郎からは何の感情も発せられない。そうだろう。彼らは、抑える術に長けている。だが内心、何も思わない訳ではあるまい。私の心中で生じた強い怒りが、次第にしぼみ、悲しみが残った。
「麒麟さんは大層、勇魚さんを可愛がっていました」
「それで。申し訳ないがこれでも忙しい身でね。感情論の世迷言はそのくらいにしておいて欲しいものだが」
「麒麟さんの悲しみを思い遣ってください」
私はコトノハを処方した。
祐善は顔を奇妙に歪めただけだった。
駄目だ、届かない。服用されない。陰陽に生きるゆえの、耐性が恐らくはあるのだ。加えてコトノハを使う私たちの来訪への警戒心。
コトノハは、肝心な時に、かくも無力だ。
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