テディベア
夕食を終え、縁側で眠ってしまった楓に私はそっとタオルケットを掛けた。
子供相手だと、色んな動作を「そっと」するようになる、と短時間で学んだ。
しかも相手は心に傷を負った女の子だ。
細心の注意を払わなければならない。
月桃香の匂いがきつ過ぎはしないだろうかと、香炉をあっちに置いたりこっちに置いたりする自分が我ながら可笑しい。
風向きにも注意する。
南部鉄器の香炉は、透かし模様のある蓋を被せると毬に近い形になる。
天辺に結わえた濃い紫の紐と合わせて私の気に入りの品なのだが、子供には渋過ぎるのか、これを見た楓の顔は微妙だった。そこで「変なの」とかずけずけあげつらわないのは幼いなりに私に気を遣っているからだろう。いじましい。
私は物を率直に言う子供だった。
強いコトノハを使うぶん、親たちには心配されたものだ。
さて、これからが大変だ。
一族の中で彼女の受け入れ先を検討するとしても、事は慎重を期さねばならない。
一定期間は私が楓を預かるとなると最寄の小学校への転入手続などをしなくては。
いや、その前にコトノハを最低限、制御する術を身に着けさせるのが先だ。
衣類は今日の帰りにデパートで買った物だけで足りるだろうか。
楓がこれまで着ていた服は近衛夫人(楓の伯父の奥さん。楓には義理の伯母になる)が近く他の荷物とまとめて送ってくれると言ったが、女の子の服がどのくらいあれば十分と言えるのか、私には解らない。
私が女の子であったのは遠い昔なのだ。
子育ての経験も無いし。
今更ながら世の母親である人たちに尊敬の念を覚える。
しかも多くの人が赤ん坊から育て上げるのだ。
信じられない、と、そのようにして育てられた一人でありながら私は思う。
寝る時は一緒が良いと楓が言ったので、急拵えの小さな寝床は私の布団の隣にある。
気持ち良さそうに寝ているのを起こすのも忍びなく、私は縁側にある楓の身体を抱き上げると、寝室まで運んだ。
――――ぎっくり腰になるかと思った。
白蛇も風も、このように様々なハードルが待ち受けているとまでは教えてくれなかった。
それでも一週間経つ頃には、楓との生活にも何とか慣れた。
「肌の色艶はよろしいようですが、少しやつれましたね、ことさん」
玄関で開口一番、鼈甲ぶち眼鏡男が言ってのけた。
当主への敬意も省略しやがって。
確かに、率直さは美点と欠点が裏表だ。
両親には悪いことしたなあ、と幼き日の自分を私は省みた。
「子育てはダイエットにもなるようですよ、秀一郎さん」
楓のことは彼女を保護した日に伝えてある。
「それは御一緒に、というお誘いでしょうか」
「は、は、は!」
は、と一音吐くごとに、棘のコトノハを処方してやった。
「それより……。その、手にある物は何ですか」
秀一郎が今日、持参したのは食糧でも酒でもなかった。
「これは楓さんへのプレゼントです」
鼈甲ぶち眼鏡男がにっこり笑う。
ああ、そうかい。
秀一郎が運んだ、大きなテディベアを見た楓は目を輝かせた。
本当に、目がぱあ、と輝いたのだ。子供の目の輝きようは大人のそれより顕著だ。
所謂「もふもふ」に対する普通の反応なのだろう。
やっぱり女の子だなあ。
生活する上での必需品は揃えたが、そこまでは気が回らなかった。
私は余りぬいぐるみに執着する子供ではなかったからだ。
ロボットやピストルの玩具なんかに喜んでいた憶えがある。
そしてそれを知る秀一郎の、楓への贈り物はベストチョイスなのだが。
私は一人で暮らすようになってから、自分の美意識に沿って家の中を整えて来た。
調度品の一つから器から湯呑みまで、吟味して。
南部鉄器の香炉も拘りの品。
よもやテディベアがその中に介入することになるとは。
私の抱く内装の理想図が音を立てて崩れて行くが、楓の喜びようを見ると何も言えない。
研ぎ澄まされた美学と子供を安らがせる物は、相反することが多いと思い知らされる。
子供と暮らすとは実に、私生活が子供の色に染め上げられてゆくことなのだ。
幼い命のエネルギーの、何と言う浸食の強さだろうか。
硬く冷たい美しさに熱波がぶつかる。
受け手のこちらはあたふたする一方。
今や私の生活の中心が楓になっている。
しかし驚くことに、それが不快ではないのも事実だ。
彼女が私に充足を見出してくれたように、私の心に空いた穴に、いつの間にか楓がすっぽりと納まっていた。
助けられている。過去の悲しみや罪の意識や、時に空虚の陥穽に落ちることから。
私が女の身であるからこそ、このように感じるのだろうか。
深酒も控えるようになったというおまけまでついている。
酔いどれの姿を楓に見せては教育上に悪いだろうと配慮したのだ。
「穏やかなお顔ですね、ことさん」
テディベアへのお礼も兼ねて出した上等な玉露のお茶を飲みながら、秀一郎が冷静に感想を述べる。
楓は縁側でテディベアにじゃれついている。
心和む光景だ。
「そうですか?子供には勝てない、という言葉が今なら理解出来ますよ」
「ことさんが弱音とは、珍しきコトノハですね」
「私はそう強くはありません」
「存じております。……音ノ瀬隼太に、彼女が連れ去られる前で良かったです」
「……ええ」
そして次に訪れた久し振りの客人は、客間の光景に目を丸くしていた。
大きな紙袋(恐らく山海の美味)を提げた俊介は、テディベアの背中に隠れて顔だけを出した楓、にやりと笑う秀一郎、そして私を順々に見た。
どんな想像をしたのかは容易に察しがつく。
俊介が茫然と口を開いた。
「お二人には、お子さんまでいらしたんですか……――――」
ほらね。




