秘すれば花
風邪が治った私は、青緑の大島紬を着て、庭に立っていた。
桜が最も見頃な時期である。
花びらが一つ散り二つ散り――――――――。
蒼穹にあえかな点描。
「こと様」
振り向くと聖が空色のショールを手に立っていた。確か洗い物していた筈だったが。
「まだ本調子でないのですから、ご無理なさらないでください」
「大丈夫ですよ」
「今日は風が冷たいです」
そう言って聖は有無を言わさず私の首から肩にかけてショールをぐるぐると巻き付けた。何だか私は上半身だけミイラになった心地がした。そんな聖も桜を見上げた。数年前に比べて明らかに幹が太くなった。毎日処方しているコトノハの効果だろう。
「そろそろ見納めですね」
「ええ」
赤い目を細くして言った聖に私も同意した。
その翌日、私は仕事に復帰して、依頼客から話を聴いていた。
客はまだ若い女性だ。朱色のスーツも鮮やかに、カールした髪も華やかだ。私はどうぞと言ってインク色の硝子の茶器に桜茶を入れたものを勧めた。女性はお茶を一口飲んで咽喉を湿してから、勢いよく語り出した。
「意中の彼が中々、振り向いてくれないんです。私は美容にも着る物にも気を付けているし彼の望みは何でも先回りして叶えてるのに。……なぜかそうすればする程、距離を置かれているようで」
成程。大層、情熱的な女性らしい。だが押しの一手だけが恋愛ではないだろう。
「秘すれば花なり。秘せずば花なるべからず」
私はコトノハを処方した。彼女はきょとんとしている。
「何ですか? それ」
「能学者の世阿弥がまとめた『風姿花伝』という書物の一文です。只、珍しさが花なのであって、全ての人が知れば花ではなくなってしまう。そんな意味です」
彼女は考えるように黙り込んだ。
「岡本さん。貴方の想いはとても尊く貴重です。ゆえにこそ、軽々と表に出すものではないのではないでしょうか」
ゆっくり。じんわり。処方されたコトノハが服用されるように。私は見えない力を行使した。
「……私、急ぎ過ぎたかしら」
「ほんの少し」
「まだ間に合うかしら」
「ええ、きっと」
彼女は泣き笑いのような心許ない表情になった。
その日は岡本さんだけが客であったので、私は昼、縁側に座り月桃香を焚いて釣忍の音色を聴いていた。
風姿花伝の例の一説を思い出す。中々に、手厳しい。
だが芸の世界とは元来そうしたものだろう。その道で食べ、生きていく為にはどうしても忍従や苦労はつき纏う。買い物から帰って来た聖が昼食の支度をしてくれている。依頼を受ける許可は出たが、日常の家事はまだするなと言われて私は首を竦め声を小さくしてはいと言った。出逢った時に私が子供だったからか、聖は過保護なのだ。
私は着物の胸元にそっと手を置く。陽光が真ん丸の輪になって空気を覆っているようだ。その、陽光に溶けるような溜息を零す。
聖。
貴方もずっと秘していた。思いがけない再会がなければ、今も結婚など有り得ず互いの想いは秘された花のままだっただろう。そして俊介、秀一郎に思いを馳せる。彼らは秘せずして真正面から花を見せてくるが、あれでもまだ加減しているほうだろう……多分。秘された想いはあちらにもこちらにもある。隼太。あの孤独な男にもあるだろうか。
「こと様。オムライスが出来ましたよ」
「はい」
とりあえず今の私は秘した花ではなくオムライスのほうに関心が移った。




