ひとひらの楓
早朝。
寝床から畳に投げ出していた右手の平に、何かひとひらの物が置かれる感触がした。
目を開けて視線を巡らせると白蛇がつぶらな紅玉で私を見ていた。
掌にあったのはまだ染まらぬ青い楓の葉。
彼(若しくは彼女)がうちの中まで上がり込むのは珍しい。
ちろちろ、ちろちろ、と赤い舌が出ている。
ここできゃあ、と悲鳴を上げるような可愛さは私には無い。逆さに振っても無い。
「珍しいな。……楓が、どうかしたか?」
起き上がり、改めて白蛇に尋ねると、釣忍が風のいらえを寄越した。
黒電話で依頼を受けて赴いたのは、よくある新興住宅地の中の一軒家だった。
しかしその内情と内状は、よくあるものではなかった。
通されたリビングの壁紙は無残に大きく剥がれ、ソファーからは綿がはみ出している。
家庭内暴力の現場か、野生動物を飼い馴らそうとして失敗したあとの惨状のようだ。
「あの子を残して妹夫婦が蒸発しましてね。施設に預けるのも気が咎めるから引き取ったっていうのに、この有様ですよ」
まだ若く見える家の主人は苦り切った顔を私に隠そうともしない。
家のローンも残っているのだろう。苦渋は察するが。
「ご近所からも、悪魔憑きの子がいる家、なんて噂されて、主婦のお友達にも避けられるようになるし……、本当にもう、どうして良いのか。主人と一緒に困り果てていたところに、コトノハ薬局さんを勧められまして。こういったことに慣れてらっしゃる、カウンセラーさんだとか」
私より若いであろう奥さんは縋るように私を見た。
私は彼らを安心させるように一つ頷く。
「楓さんとお話をさせていただけますか?」
五畳程のフローリングにある押入れから、彼女は警戒心を漲らせた顔つきで私を覗き見た。
室内は派手には荒れていない。自分の過ごす部屋に手心を加えるのは自然な感情だ。
「……誰?」
誰何する声は高くてあどけない。
「私は音ノ瀬ことと言います。楓さん。貴方と〝同じ〟です」
同じ、というコトノハを処方する。
彼女には届く筈。
案の定、押入れから少し大きくなった瞳が、それまでとは違う色合いを見せた。
「……同じ?」
「はい。貴方は私の大切な同胞です」
「どうほう?」
あ、解りにくいか。まだ八歳だものな。
「仲間という意味ですよ」
開いた窓からカーテンを揺らし、風が入って来る。
それは楓の頭をなぜるように柔らかく一周した。
楓の表情が少しずつ緩んでいく。
これまでずっと気を張って生きていたのだろう。こんな小さな子が。
傷ましい話だ。
楓は押入れの戸を開けて出て来た。
私の元まで歩み寄ると、それからどうして良いのか解らないように困惑した顔を見せる。
小柄で痩せているがふっくらした彼女の頬の右側は腫れていた。
彼女の能力の発現に我慢出来なかった家の主人に、手を上げられたのかもしれない。家庭内暴力も皆無ではなかった。
ふつ、と込み上げそうになった自分の怒りを抑える。
残忍な人の弱さに晒されたのは楓であって、私ではない。私が憤るのは傲慢に思えた。
私は眉をひそめて身を屈め、楓の頬をそう、と両手で挟んだ。
「見つけるのが遅れて辛い思いをさせましたね。すみません、楓さん」
両手を離すと腫れも鬱血の跡も、少女の顔からは綺麗に消えている。
音ノ瀬の一族とは関わりないところで、稀にコトノハを操る素質を持つ人間が生まれる。
力についての知識と理解を得られない彼らの末路は、大抵が悲惨だ。
コトノハを暴走させ、物を破壊し、時には人をも傷つける。
彼女、水木楓は辛くも間に合ったというところだ。
しかし楓の両親は娘の異能を持て余し、捨てた。
親戚の若い夫婦にもこの少女を育むには荷が勝ち過ぎた。
それらの過程で楓の心が負った傷を鑑みれば、一言で間に合ったと言い切るのは早計だろう。
音ノ瀬隼太の手に先んじることが出来たのは不幸中の幸いだった。
びっくりした顔で自分の頬をぺたぺたと触っている楓の前に跪いて、私は彼女の両目を見上げた。コトノハが視線に乗るように。
優しい優しいコトノハを、彼女の為に心がけた。
「私と、うちに来てくださいませんか、楓さん。温かいご飯を一緒に食べましょう」
楓は二度、びっくりした顔だった。
「……こと、さん。の、おうち?」
「はい」
――――しばらく白蛇には姿を見せないように言っておかねば。
「……良いの? あたし、悪魔の子なのに?」
「貴方に教えることがたくさんあります。楓さんは悪魔の子ではありません。まずはそれを、忘れないで」
数十秒後、見開いたままの楓の瞳に涙が満ちては落ち、しゃくり上げる声は天井に昇った。
私は小さな身体を抱いて、その背中をずっと撫でていた。
小さくて熱くて、ずっと独りぼっちだった背中を。
まるで湯たんぽをくるんでいるように、その温もりは私自身にも沁みた。
夫婦はあからさまに安堵した顔で私に楓を託した。
養育費などは払うという申し出を断り、依頼料だけを頂戴した。
日曜日の午後の住宅街は閑散としている。
私に子供の手を引いて帰る時が来ようとは思ってもいなかった。
楓の手は名前のように楓の葉のようで細くて小さくて頼りない。
その頼りなきものが私の手を懸命に掴んでいる。
そんな些細なことがコトノハよりも雄弁に私の心をも掴み、軋ませた。
幼い楓の葉の、ひとひらの愛しさよ。




