誓約の盃
季節はすっかり初秋だ。秋の始まりは他の季節と比べ、殊に密やかに忍び入るようだ。朝晩が冷涼となり、日中の太陽のこれでもかという威勢、穏やかになる。
私は食器棚から、パート・ド・ヴェールの盃を取り出した。
桔梗色と、白の盃。
古代の技法で作られた硝子は現代の硝子の絢爛な輝きとは異なり、淡く鈍く光るようで。
目に柔らかく映る。
諸々の件が落着した暁には、これで聖と酌み交わそうと考えていた。
虫のすだく音が聴こえる秋の夜。楓はもう寝ている。
縁側には私の兎の後ろ姿。玉虫色めいた光沢の、青緑の着流し。
私は聖と結婚する。かための盃とまでは言わないが、この盃で酌み交わすことは、一種の前段階であり、神聖な儀式のように思えた。
澄んだ日本酒を、それぞれの盃に注ぐ。
桔梗と白に育まれる湖。
聖。
聖。私は。貴方に告げねばならないことがある。
私は盆に載せた二つの盃を持って縁側に行った。
聖が穏やかな顔でそれらの盃と私の顔を交互に見る。何も言わない。
私も、今は言わない。飲み干してから告げると決めた。
風が吹く。釣忍が鳴る。
風が吹く。優しい風が。
「どうぞ」
私が勧めた白の盃を、聖は手にした。私も桔梗色の盃を持つ。
二人同時に、唇を湿す程度に飲む。
空には星。隣には聖。身に過ぎた夜だ。
私たちは特に何を喋るでもなく、虫の音を聞きながら酒を少しずつ飲んだ。
とうとう、盃が空になり、私は唇を複雑に歪ませた。
「聖さん」
「はい」
「私はしてはならぬことをしました。人として、音ノ瀬当主として」
「……はい」
言え。私は怖じる私の心に命じる。
「貴方の来世に私はいません。次の来世にも、恐らく次の来世にも」
カタン、と白い盃が盆に置かれた。
衝撃に微動して揺れる赤い双眸。
「こと様は……どうされるのですか」
「恐らく、宇宙の果てで一人。世の行く末を見守ることとなりましょう」
「お独りで」
「はい」
「僕の来世に貴方はいない?」
聖の声の、語尾は赤い双眸と同様、微かに揺れた。
「はい。それが私の払う対価です。ですがどうか、蘇らなければ良かったなどとは思わないでください。今、貴方が私の隣にいてくれる。貴方と、楓さんとに囲まれて生きてゆく。私の幸福はそこにあります。そこにしかありません」
私は息を吸い込む。声よ、震えるな。
「そして、私は恐らく貴方より先に逝くでしょう」
最大の禁忌に触れた身はその罪により蝕まれる。
私は聖より先立ち、彼の来世には現れない。
聖の沈黙は長かった。虫にその間を譲るような、長い長い沈黙のあと、聖は言った。
「楓さんにはいつお話しされるお積りですか」
「彼女の成人の暁には」
聖が横を向く。
「僕は恨まれそうだ」
「それはないでしょう」
その後しばらく、聖は再び沈黙した。深い思案に囚われているのだろう。秋は物思いを許す季節だ。
「待ちます」
虫の音と、釣忍の音に溶けるように、聖のコトノハが響く。
「どれだけ先の世になろうとも、僕はこと様を待ち続けます。ですがまずは」
聖は自らの胸に手を当て、目を閉じた。白い廂は降る雪みたいで。
しんしんとして。
「今ある生を全うします。こと様と共に」
悠久の、遠い先の邂逅は叶うだろうか。
雪が上がり、赤い目が再び私を見る。
信じている、と告げている。




