山吹の
風が吹いた。
柔らかな風が、もう動かない聖の白髪を揺らして他人事のように通り過ぎて行った。
私は聖の髪を撫でた。
頭の中は嘘だというコトノハで充満している一方、妙に冷静にこの事態を受け留めている。それは私の自己防衛であったろう。
レイニーが夜叉衆の手を掻い潜り、自由になった口で叫ぶ。
「解ったか、音ノ瀬こと! 私の嘆きが! マリアの無念が!?」
それから彼は悲しみと愉悦の二つの表情を浮かべてそのコトノハを処方した。
「滅呪慟哭」
境内が静寂に満ちた。小鳥の囀りのみが聴こえ。
何も起こらない。
もしかしたらという、私の予測が当たったようだ。
「滅呪慟哭……。なぜだ、なぜ何も起こらない!」
「レイニー。幾ら処方しても無駄です。そのコトノハを真に処方出来た人物は、音ノ瀬隼人ただ一人。戦争の悲惨を目にし、屈辱を味わい、それらを胸に焼きつけた彼だからこそ処方出来る、今では失われたコトノハなのです」
私は悲しみの中でそう言った。
レイニーは茫然としている。
そして先程、聖を撃った拳銃を自分の頭に当てた。
「縛!」
裂帛の気合の入った私のコトノハに、レイニーが凝固する。
今度こそ彼を夜半の夜叉衆が囲み、捕縛の後、意識を失わせた。
……彼にとっては死んだほうが幸せだったのかもしれない。
〝あいつはな、レイニーは、亡霊に囚われているんだ。もうどうしたって、取り戻しの利かない過去に〟
過去にしか生きられない人は哀しい。寂しい。
その哀しみと寂しさが、今の私には痛い程によく解る。
私は聖の身体に縋りついた。
本家当主が夜半の夜叉衆に晒して良い姿ではない。
けれどそんなことはどうでも良かった。
耳を胸に当てたが聖の鼓動は僅かも聴こえず、ただ失われていく体温の冷たさを衣服越しに感じるばかり。頬に手を当てても。唇に唇を当てても。返る反応はない。
玲一が、藤一郎が、晃一郎が、秀一郎が、千秋が、私を見ている。
私と、躯と化した聖を。
聖に縋る私に、コトノハを掛ける者はいない。
〝磨理がいなくなってから、僕は長く生き過ぎた。もうあっちに行きたいんだ〟
大海の言葉が聴こえる。
〝彼が死んでから世界が消えたの。世界中のどこにも彼がいないの。その時、あたしの世界も終わったの〟
いつかの依頼主の女性の声が聴こえる。
私は彼らの絶望を、何一つ解っていなかった。
何一つ、解っていなかった。
〝そんな涼しい顔したって。貴方だって自分の身になれば摂理だなんて言ってられないわ〟
その通りだ。彼女は正しかった。
死んだ人間は蘇らない。蘇らない。
けれど私には祖母から授けられた禁呪があった。
決して許されない処方だけれど、口伝で伝えられてきたその処方。
私は草履を脱ぎ、舞楽殿にひらりと上がった。
営々と奉仕されてきたのだろう、木の香りのする建物は、正方形を成している。上方には白い紙垂を垂らした、細い注連縄が張り巡らされている。
〝良いかい、こと。この舞いとコトノハは、決して使ってはいけないよ。当主となるのであれば猶更だ〟
〝それならどうして教えるの、おばあちゃん〟
〝……それが人の業だからだ。人の業を背負うのが当主だからだ。嘗てこの処方を成功させたのは、一人しか例がない。それも大昔の話だ。だからこれは、言わば蜃気楼のような、夢物語の処方なんだよ。けれども……〟
私は大きく羽織の袖を広げ、右に二歩、左に二歩進んだ。
進んだところで大きく頭を下げ、また上げる。
揺蕩うように羽織の袖を緩やかに羽ばたかせ、単調な足拍子を踏みながら私は詠った。
山吹の
立ちよそいたる山清水
汲みに行かめど
道の知らなく
万葉集。十市皇女が亡くなったことを悲しんで、高市皇子が詠んだ歌だ。
山吹の泉、は黄色い泉、つまり黄泉を指す。今は亡き皇女に逢いたいけれど、その方法が解らない、と嘆いているのだ。
これは死者を蘇らせる禁呪。
決して行ってはならない非道の処方。
繰り返し、そう言って聴かされた禁呪を今、音ノ瀬家当主である私自らが行っている。
〝けれども、お前なら為し得るのかもしれない〟
詠う声は、僅かに震えた。
畏れからか、悲しみからか。
「――――こと様、聖君が!」
忘我の境地で舞っていた私の耳に、秀一郎の声が聴こえる。
ああ……。禁呪が成ったのだろうか。
滅呪慟哭も何程のことがあろう。
私こそが大罪人。
半身を起して驚きの表情で私を見る聖が視界に入る。
――――私の愛する紅玉の双眸が溶けた。
それを見て取った私は意識を手放した。
〝この処方を成功させた者は、煙のように消え、戻らなかった。宇宙に喰われたのだろうというのが今では大方の見方だ〟
宇宙が私を呼んでいる。




