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コトノハ薬局  作者: 九藤 朋
音ノ瀬異国血族編 第三章
171/817

叶わない

 しとしとと甘やかな雨の音がまだ続いている。

 濡れて帰った聖は報告があると言ったが、私はまず沸かしておいた風呂に入るよう勧めた。聴かぬ顔をしたので、命じなければならなかった。やれやれだ。

 但し、いつもであれば聖が帰ると同時にうちを退去する藤一郎に、聖は残るよう望んだ。その報告とやらの関係だろう。

 恭司も気になるようで、千秋の家に帰る素振りを見せない。

 お蔭で私は六人分の夕食を用意せねばならなかった。こんなこともあろうかと、夜半の夜叉衆を結成して以来、多めに備蓄してある食材が役に立つ。

 風呂上りの聖が玉虫色の光沢を持つ青緑の着流し姿となって台所に現れ、料理の手伝いをしてくれる。藤一郎が料理において戦力にならないということはとうの昔に判明したことだ。

 冷奴に茗荷(みょうが)を刻んだもの、豚肉の生姜焼き、胡瓜とトマトの野菜サラダ、じゃがいもと玉葱の味噌汁が卓上に並ぶ。

 豚肉の生姜焼きは濃く塩辛い味付けで、酒の肴にもご飯のおかずにも最適だ。肉を噛み切る歯応え、口内に広がる肉汁、生姜の風味。思い描くだけでも生唾が出る。

 

 聖の報告は差し迫ったものであるのだろう。

 で、あるからこそ、普段通りの食事を皆に供することが大事なのだ。

 美味しいご飯は思考の正常化に何より役立つ。


「レイニー・ダーク、及び水島黄竜の潜伏先を突き止めたのですが、肝心の彼らに逃走を許しました」


 聖の隣に座る藤一郎が箸を止め、聖を凝視する。

 恭司、ジョージの表情も改まったものになる。

 不安そうな楓の様子だけが、見ていていたたまれない。


「彼らはどこに潜伏していたのですか?」

 私は音ノ瀬一族当主として尋ねる。

「町外れの廃工場です」

「戦闘に――――なったのですね」

「はい。僕はレイニーと。千秋さんは黄竜と」

「その結果、逃げられたと」

「はい。日記帳も回収出来ませんでした。……千載一遇の機会を棒に振りました」

 聖はどこまでも殊勝に報告を終えた。

「良かった……」

 これは、音ノ瀬こと一個人としての言葉である。

 聖を始めとした一同が目を見張る。

「聖さんと千秋さんが無事で良かったです。失地回復の機会など、また幾らでもあります。レイニーが、例のコトノハを処方する時節を見計らっているのであれば、尚のこと。損失は取り戻せますが、命は喪ったらもう取戻しが利きません」


 それぞれに思うところがあるようで、食卓に静寂が満ちる。

 命は。

 命だけは喪われてはならない。

 尊い生命は消えたが最後、永劫、戻ることはないのだ。

 あるべき自然の摂理の中では。


 だから私は言う。


「食べましょう」


 皆、我に帰ったように箸を動かし始める。

 命の為に命を喰らう。

 そうして日々を生きるのだ。

 何より私は安堵していた。

 レイニーと遭った聖が無傷で生還したことに。

 自分でも驚く程の喜びを感じていたのだ。




 恭司は暗闇の中にいた。

 いや、正確には真の暗闇ではない。

 なぜなら闇には無限彩色が蠢いてもいたからだ。

 それらはうねるように、雄叫びを上げるように恭司に纏わりつく。

 恭司はそれらを振り払う。いつの間にか手にはナイフが握られていた。

 そして落ちている中折れ帽に気付く。よく見れば中折れ帽の先には点々と血痕が続いていた。何かの模様じみている。

 それはまるでヘンゼルとグレーテルが落とした道標のように恭司をある場所に導いた。

 恭司は目の前に広がる光景が信じられず、ナイフを取り落した。


 そこには胸を赤く染めた聖が倒れていた。

 見開かれた赤い双眸は虚ろな硝子玉のようで、もう息をしていないことは明らかだった。


 恭司はひゅっ、と息を呑み、言葉にならない叫びを上げた。




 そして目を覚ました恭司は、びっしょりと背中に汗を掻いていた。

 のろのろと起き出し、障子を開けると朝の光が凶暴なまでに飛び込んできた。

 (にび)(いろ)めいた雲が棚引き、光の塊とのコントラストを演出している。

 まるで生と死の対比だ。


 ――――まだ心臓が早鐘のようだ。


 体術、コトノハの処方を含め、音ノ瀬一族最強の戦士と言える聖が、そう易々と死ぬ筈がない。自分は時に予知夢めいたものを見るが、これはその限りではないだろう。

 恭司は自分にそう言い聞かせ、暁光を睨むように見据えた。

 



挿絵(By みてみん)





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