比較対照
梅雨の晴れ間。湿り気を帯びた空気がわだかまっている。
今日も今日とて出かける聖に、私は透明のペットボトルを手渡した。中身はポカリスエットだ。
「そろそろ暑くなってきましたから。水分補給を忘れないようにしてください」
聖は滲むような微笑と共にそれを受け取る。
「はい。ありがとうございます。それでは行って参ります」
「行ってらっしゃい」
そして遠くなる、白い背中。ジーンズの尻ポケットから携帯が見える。凡そ何でもこなす聖の一番の泣き所が機械で、彼はシニア携帯を使っている。スマホとは相性が悪いとのことだ。白髪と似合う代物に、私は密かに笑いを禁じ得ない。尤もかく言う私も、携帯を持ってすらいないのだが。
私が笑いを噛み殺していると、横からひょいと悟が顔を出した。今日は土曜日で小学校も休み。例によってうちに遊びに来ているのだ。
「白い兄ちゃん、出かけんの?」
「ええ、大事なお仕事があるんです」
「ぷーかと思った。違うんだ」
「違いますよ」
全く子供というのは容赦ない。その上邪気もないのだから困りものだ。
何を思いついたのか、客間に戻った悟は楓と恭司に声を掛けた。
「なあ、俺、良いこと思いついた」
「なあに、悟君」
「どうせ碌でもないことだろ」
「白い兄ちゃんの跡、つけてみようぜ」
この発言には私もちょっと固まった。遊びではないのだ。聖は危険を伴う行動をしている。そして単独行動が厳禁の今、千秋と落ち合う筈だから、揃った二人に子供たちの尾行が気付かれない筈もなく、また、邪魔になることも請け合いだった。
ところが事情を知る恭司がにやりと笑う。
「悪くないな」
どこがだ。全く、この堕天使は。
「ひーくんの邪魔しちゃ駄目だよ、二人共」
楓、よくぞ言った。それでこそ私の愛し子。
だが結託した悪童二人(内一人の中身は三十路)は顔を見合わせてにやにやしている。恭司は、本当は自分も夜半の夜叉衆に加わりたいのだ。けれど楓がいるから離れることも出来ず身動き出来ないでいる。そこに、悟の誘惑だ。流されるのは、自然の理だった。
私は大きな溜息を吐く。ふと庭を見ると、私の溜息に合わせるように、先頃開いた桔梗の花が風に揺れている。儚く揺れる青紫と白。
「良いところに連れて行ってあげますから、聖さんの邪魔はしないでください」
「どこだよ?」
悟が怪訝な顔で訊く。
「美味しい物を出してくれる、素敵な喫茶店です。その代わり、大人のお店ですから、きちんとお行儀よくするんですよ」
聖が出るより前にうちに来ていた藤一郎の不服そうな顔は、この際無視することにした。
必然的に留守番はまだ朝寝を決め込んでいるジョージに任せることになるだろう。
「まだ退院には早いんじゃないのか」
次兄の晃一郎が、病衣から普段着に着替える弟を眺めながら諫言する。
「時間がない。風によるとレイニー・ダークは滅呪慟哭の読みを知ってしまった。ネイティブの日本人ではない彼に、どれ程正確なコトノハが処方出来るかは解らないが、早く身柄を押さえるに越したことはない」
レイニーが滅呪慟哭の読みを知ったことは一族中に知れ渡り、彼らを震撼させた。そもそも音ノ瀬隼人の日記帳の存在だけでも不安材料であったのだ。だからことは当初、徒な動揺を招かぬべく、その存在を秘していた。それもレイニーの存在が明らかになり、情報開示の方向に向かわざるを得なくなったのだが。
長兄よりは柔軟な、だがより怜悧な性分である晃一郎は、双眼を細めて弟の表情を注視した。
「夜半の夜叉衆に足手纏いは要らない」
ボタンを留める秀一郎の手が止まる。その彼の腕を撫でるように、カーテンがふわりと舞った。秀一郎は今日も窓を開けているのだ。
「――――僕はもう戦えるよ、兄さん」
「解っている。覚悟の程を試しただけだ。これでまた負傷でもしてみろ。御当主に今度こそ合わせる顔を失くすぞ」
「そんな無様はしない」
白い麻のシャツ、ズボンに着替え終わり、最後に鼈甲ぶちの眼鏡を掛ける。
晃一郎が一つ、吐息を吐く。
(哀れな奴め)
秀一郎の、ことに対する恋慕の情は一族皆の知るところである。それが実らないであろう事実も。
(相手が悪い)
音ノ瀬聖は副つ家の主にして、ことの幼少より近侍していたのだ。同性から見ても魅力ある人物である。弟である秀一郎も、評価されて然るべきものを持っているが、音ノ瀬一族という囲いの中において、聖には一歩も二歩も及ばない。
あの紅玉のような瞳。白雪のような髪。澄明なる空気。
存在するだけで人を魅惑するのが聖だ。
それでも秀一郎はことに―――――ひいては音ノ瀬一族に尽くそうとする。
鼈甲ぶち眼鏡を掛けた秀一郎は手櫛で髪を整えると、晃一郎に笑顔を向けた。
「さあ、兄さん。行こう」
「……哀れな奴め」
晃一郎は二度目は、口に出して言った。




