天使の生涯
あんな女だとは思わなかったな、とジョージは思った。
音ノ瀬ことだ。
音ノ瀬一族の頂点に立つのだからもっと居丈高で、威厳がある高飛車な女を連想していた。
威厳はあった。
が、実際は想像したより女性らしく家庭的で儚げですらあった。
清かな気配が匂うようだった。
ジョージの心に迷いが生じた。
〝今の音ノ瀬は過去からの悪習を絶とうとしている〟
風に乗って聴こえた隼太のコトノハは、今のジョージに真実味を帯びて胸に響く。
けれど、レイニー。
お前は止まらないよな、と心中で語りかける。
あの男を止める術はもう、一切ない。
彼は一人ではないが独りだ。独りぼっちだ。
マリアを喪ってからレイニーの未来は絶たれた。
大切な者の死を経ても乗り越えて生きていく者も多い。
そう出来ない者もいる。その違いは何なのか。
「ジョージ」
潜めた声で呼びかける方向を見ると、部屋の隅に少年が立っている。
丁度、光と影のあわい。
こういうのを昔の日本では忍者とか言うんだっけと思いながらその名を呼ぶ。
「黄竜」
「早いとこずらかるぞ。鬼兎も音ノ瀬ことも注意があんたから逸れている。今ならあんたを逃してやれる」
黄色いふわふわした髪の少年は天使像のようだ。
教会で見かけるような真正の天使像。
瞳の緑は色濃くきらきらとして、エメラルドのよう。
「……悪いな。俺はもう少しここにいるよ」
「はあ!? 何言ってんだよ。自分の立場が解ってんのか?」
「見極めたいんだ。音ノ瀬ことたちを。近くで。中々、興味深いぜ?」
に、と笑いかけると、黄竜は呆れたように黄色い頭を一振りし、その場を速やかに去った。
庭に人の気配がしたかと思ったが気のせいだったようだ。
庭には紫陽花と、私の愛する桔梗が咲いている。
燦々と陽を受けて生を謳歌している。
私は剪定鋏を手に庭に降り、紫陽花と桔梗の何本かを伐った。紫陽花は大振りの花器に活けて床の間に、桔梗は卓上に飾ろうと思う。生を摘む。それもまた生の活動の一つなのだ。私は今も蟻を踏み潰している。
縁側に戻ると聖が端座していた。青緑に、玉虫色の光沢を放つ着流しを着ている。
「もう、桔梗の季節ですね」
「ええ。楓さんを迎えて四度目の桔梗です」
「ジョージはあれから何か話しましたか」
「いいえ。――――けれど気になることがあります」
私は声を潜めた。
「気になることとは?」
私は伐った紫陽花と桔梗を縁側に置き、メモ帳とペンを持ってくるとそこにさらさらとコトノハを記した。
〝滅呪慟哭〟と。
聖にはコトノハとして処方しないよう、私は人差し指を自分の唇に当てた。
見るからに禍々しいこのコトノハに、聖もただならぬものを感じ取ったのだろう、頬のあたりが引き締まる。
「日記帳に記されていたコトノハです。処方すればおよそ十キロ四方の生き物は死に絶えるとありました。金釘で書いたように癖のある難字でしたので、レイニーたちに解読はまだ出来ていないでしょう」
「……音ノ瀬隼人はそれを中国で使ったことがあるのでしょうか」
「恐らくは」
隼人が隼太に語った法螺と思われる英雄譚は、全てが偽りではなかった。
私は聖の問いを、意識的に目を開けたままにして聴いた。目を閉じると眼裏に、阿鼻叫喚の地獄絵図が浮かびそうだったからだ。
「解読される前に、何としても日記帳を取り戻す必要がありますね」
「はい」
「ジョージの身柄と交換にと言っても恐らく応じないでしょう」
「そうでしょうね」
桔梗の、淡い青紫色が目に沁みる。
本当はこんな殺伐とした会話ではなく、もっと優しい、美しいコトノハばかりを処方していたいのだ。けれど生きる上でそれは至難である。
もうそろそろ楓が帰ってくる頃だ。
あの子の存在は聖とはまた異なる意味で私に生の喜びを教えてくれる。生きる幸いを。
吊忍が美しい音を奏でた。
それはまるで伐られた花々への鎮魂歌とも思え、私はマリアと、そして磨理にも思いを馳せた。
マリアと磨理。不思議と音が通じる、花を愛し、二人の男を泣かせた女たち――――。
罪なことだと一体誰に言えるだろう。
まだ空は明るく、仄かに茜の気配が感じられる程度で、蒼穹は高い。
殺気を感じた恭司はすぐさま楓を自分の背後に押し遣った。
「恭司君?」
「黙ってろ」
ことの家に向かう坂道の途中。
上段には腕組みした黄竜が仁王立ちしていた。髪は黄色くふわふわして、顔立ちは愛くるしい。恭司が和製天使なら、こちらは本家本元の天使といったところだ。だが表情はやたら勝気で、愛くるしさが半減している。
「Hurt(傷)」
「ああ?」
黄竜の思わぬ英語によるコトノハに、恭司が無防備に傷を受ける。
「あはは、面白いや。やっぱり意味の解らないコトノハだと、対応出来ないみたいだね。そのぶん、威力も弱まっちゃうけど」
「てめえ、郷に入っては郷に従えだろ。日本語を喋りやがれ」
もちろん、黄竜が唯々諾々と恭司の言い分に従う訳もない。
「Sacrifice(犠牲)」
「がっ」
恭司が吐血する。
「恭司君っ」
「ねえ、ma’am楓。彼を助けたい?助けたい?」
どこか児戯に誘うかのように、黄竜が歌う調子で重ねて尋ねる。
「聴くんじゃねえぞ。どうせ俺を助けたいならお前について来いって言う腹積もりだ」
「……Hurt」
「Put out(消)」
コトノハが相殺される。
黄竜の、緑の目が丸くなった。
恭司が口の端から血を垂らしながら凄絶に笑う。
「しょうがないからお前の流儀に合わせてやったぜ。密貿易もしてみるもんだな。多少は外国の言葉を学べる」
「そう言えばあんたは元・ギャングなんだっけ?」
「現・テロリストに言われたくないな」
黄竜が不服そうに唇を尖らせる。
「ハードボイルドに生きる筈のあんたがどうして子守りなんかに甘んじてるの?」
「こいつは俺が生涯守ると決めた女だからだ」




