非道の二輪
恭司の手には何もなかった。
ただ血だけがべとりと両掌についている。
空を見ずとも雨を感じる。
雨は上から下へ止めどなく降りしきる。
暗い闇の中、彼は独りきりだった。
真実、独り。
いつしか雨は血の色となり、闇は蒼みを帯びた。
赤と蒼の世界がぐるぐると恭司の周りを回転した。
目覚めたあとも、恭司の胸には寂寞と痛恨、悲しみと憎しみの残滓があった。
この夢は何を暗示しているのだろう、と彼はしばらく考えに耽った。
「婆さんは、紫陽花が好きだった」
客である老人はこめかみを掻きながら言った。こめかみのあたりには薄く染みが浮いている。顔から予想される年齢の割に白髪が少ない。
「水はけの良い土を好むとか言って、うちの庭に根付いた奴の赤紫の花を見て、アルカリ性が強い土なのねとか、知ったことを言ってたなあ」
彼はうちの庭の紫陽花を眺める。
うちに来てからずっとだ。
聖と私がいないかのように、紫陽花に語りかけるように話すのだ。
彼は私にコトノハを処方してもらいに来たのではない。
自らのコトノハを聴いてもらいに来たのだ。
ただただ、独りごちる。
そういう客も、稀にいる。
音ノ瀬一族はコトノハの処方も得手だが、服用も同じくらい巧みなのだ。
相手が望むように、耳を傾けて服用する。
雨上がりの庭に艶やかに濡れた紫陽花。
彼の語りは続く。
「塩気と脂には気をつけろって医者に言われてるでしょうってしつこく俺に言ってさ。……自分はあっさり逝っちまいやがった」
そこまで言ってから彼の語りは止まった。
何色ともつかない空白の時間が生まれる。
この老人の語りは最初から哀の色だった。移り変わる紫陽花の色とは異なり。
そうして話している内にどんどん、透明に、或いは無限の色になっていった。
「余命一年って言われてから、俺に家事を仕込み始めたけど、俺は出来の悪い生徒でな。婆さんを手こずらせた。それでも婆さんが寝たきりになる頃には、ある程度の家事はこなせるようになった。食材の選び方、料理、掃除の仕方、俺一人分の衣類を洗濯するにはどのくらいの時間、洗濯機を回せば良いのか、洗剤の量はどのくらいか。魚を焼く時にはグリルに前以て油を塗っておけば汚れがつきにくいだとか細々したことまで……」
そこで、声が震えた。
「おまけに婆さんが逝ってから、紫陽花が図ったように二輪だけ寄り添って咲きやがる。家事してるだけでも婆さんを思い出すのに、これでもかって見せつけるみたいにな。……俺が死ぬまで、婆さんにはもう逢えないんだって思い知らされる。あれは、いけないよ。あの二輪は遺された人間に容赦ない。非道だよ」
老人は泣き濡れたりはしなかった。
ただ、我が家の紫陽花を敵を見るように凝視していた。




