情と煙幕
烏がかあと一鳴きして、もう動かない犬の死骸の横に舞い降りた。
隼太が躾けている訳でもなかろうが、死骸を突くような真似はせず、ただつぶらな眼で哀れな末路を辿った犬を眺めている。椿の濃緑と紅、烏の漆黒の色の対比が明瞭で美しくはある。風が吹いて、血臭を私の鼻腔に運んだ。殺伐とした美だ、と血臭を嗅いで感じる。穏やかさや柔らかさとは無縁の。
「隼太さん。携帯はお持ちですか」
「持っているが」
「区の動物管理センターに連絡してください。…遺体を、引き取ってもらわなくては」
隼太はなぜ自分がそんな些末事に関わらねばならないのだと言いたげな顔をしたが、私の要望を聴いてくれた。
「襲われた?」
「はい。今日の夜は鰤大根です」
「それは良いのですが」
大根が頭を覗かせる買い物袋を聖に持ち上げて見せる。
「襲撃してきたのは日記帳に記されていた外法により生み出された獣です。私と隼太さんで始末をつけました。……犠牲になった犬が哀れです」
「こと様にお怪我は」
「ありません。隼太さんも一緒でしたし」
私は答えながら鰤の切り身を冷蔵庫に入れる。
「日記帳を持ち去ったのは、音ノ瀬の日系アメリカ人の可能性が高い、ということですか……」
「そうですね」
中東テロ組織でなかったらしいところに安堵すべきかどうか。今はまだ解らない。
聖は思案顔で口元に拳を当て、睫の庇を伏せた。
「彼らの父祖たちが何を思い、音ノ瀬と日本を離れようとしたのか、そこまでは日記には書いてありませんでした。ただ隼人は、アメリカに渡るくらいなら自分と共に来ないかと彼らを誘ったそうです。受け容れられなかったようですが」
私は話しながらもてきぱきとお茶を淹れ、客間の卓の上に湯呑を置く。
インクブルーの切子硝子の茶器を選んだのは、聖の穏やかならぬ胸の内を少しでも平らかにしようという思いからだ。
小さな心遣いが人の心の強張りを解くことはある。果たして聖はインクブルーを見て、目を和ませた。
「肝要なのは、彼らが今、何を思っているかです。外法を使い、獣をけしかけたところを見ると、良い感情は抱かれていないのでしょう。では、具体的に何を思考しているのか。それが解れば互いに和解する道もあるかもしれません。元は同じ音ノ瀬なのです」
元は同じ音ノ瀬なのです――――。
これも選民思想と言えるだろうか。
一族を大事と思う気持ちと、差別的観念を区別するのは難しい。
ビクターは煙草を切らしていることに気付き、苛立った。
彼は今、ことの家の三軒隣にある空き地の隅に身を寄せている。
苛立つと言えばキャロラインからことの家を監視するよう言われた時から、それは始終、ビクターにつきまとう感情だった。本当なら車中から監視したいところだが、ことの家の周辺道路は隘路で、長時間車を停めるスペースが確保出来ないのだ。空き地に停めれば目立ち過ぎる。せめて駐車場にでもしておけよと思う。
音ノ瀬隼人の日記帳の存在の重要性は解っている。
だがビクターにはキャロラインがことに肩入れし過ぎているようにも見える。自分たちに情は禁物だと言うのに。けれどそんなビクターも、同郷のキャロラインに対して情がないかと言えばそんなこともない。
どこまで行っても人は人だ。機械ではない。諜報機関に属していようと、情を完全に切り捨てることは不可能なのだ。
「へい、お兄さん。仏頂面してどうしたの」
その日本語はビクターの死角から発せられた。
はっとして振り向くとビクターが潜む空き地の入り口に派手な柄シャツを着て、色の薄いサングラスを掛けた男が立っていた。ざっくりとした大らかな東洋系の顔立ちで、少し伸びた無精髭が似合っている。
一見してチンピラ風だが、ビクターの本能がレッドシグナルを発していた。
男はビクターが身構えるのを待つかのように下を向き、ちょっと地面を蹴って見せた。まるでわざと隙を作るかのように。
かと思うと次には瞬息でビクターに下段から上段へと変化する回し蹴りを放った。
ビクターは両腕でガードしてこれを防ぐが、勢いは殺し切れず、ざざ、と後ろに下がる。
下がりながらビクターは相手の右腕に自らの両腕を絡め、背負い投げようとした。
しかし。
「縛」
男の処方したコトノハにより、それは叶わなかった。
「うん。お兄さん、強そうだからね。ちょっと処方させてもらったよ」
動けないビクターに、男がほんの少しだけすまなそうに言う。
ビクターの頭の中には、この男が何者で、どこの組織に属する者なのか、超高速で脳が回転していた。
「手を挙げなさい」
凛として響いたのはキャロラインの声だった。
ビクターはほっとする反面、そんな自分を不甲斐なく思う。
キャロラインは銃を撃つ模範とも言える綺麗な姿勢で、男に向けて拳銃シグザウエルP226を構えていた。
カールした長い金髪が陽光を弾き、戦女神のようである。
男はキャロラインの声が聴こえた途端、ぴたりと静止し、ゆっくり両手を頭の上に上げながら彼女のいる方向を向いた。
「伏兵には気をつけなきゃだな。レイニーにも言われてたんだ」
「貴方、どこの組織の人間? コトノハが使えるということは、音ノ瀬に関わりがあるの?」
男の顔に笑みが広がる。立場の割にどこか鷹揚な笑みだ。父親のような。
「なあ、お嬢さん。こういう場合はね、どかんと一発ぶっ放して、俺が前後不覚に陥るようにするのが賢いよ。俺がコトノハを処方出来ると知ったなら猶更ね。――――春の野に霞たなびきうら悲し」
男がコトノハを告げた途端、煙幕が周囲を覆う。
ビクターは目を見張った。
聞き間違いでなければ今のは、恭司が以前、自分に対して処方したコトノハだ。
一体この男は音ノ瀬の何なのか――――――――。
煙幕が晴れた時、そこにはビクターとキャロライン以外の人間はいなかった。




