獣
恭司たちとふるさとに行った翌日。
楓が学校に行っている時間帯、我が家に秀一郎と隼太、大海と恭司が集った。
恭司と秀一郎には音ノ瀬隼人の日記の存在から説明した。大海は父親の日記の存在を知っていたようだ。彼はそれを告げたのみであとは沈黙を通した。なぜ隼人の日記を息子である大海ではなく孫である隼太が所持していたのか。私には何となく察せられるものがあった。恐らく隼人は大海より隼太に自分に通じるものを見出したのではないか。奇しくも父と息子より祖父と孫のほうに相似性があったのだ。だから自らの思考と研究の結晶を隼太に遺した。日記帳に、隼太が幼少時に訊かされた隼人の偽りの英雄譚(彼らにとっては)も入り混じっていたのは読む者への見栄だろう。
「まんまと盗まれただと? 事態の重大さがお前は解っているのか」
隼太の険しい顔も当然だ。
「申し訳ありません。それに関しては弁解の余地もありません」
私は隼太に頭を下げた。
「寝室の押入れに仕舞った物を盗られるほうが異常なんだ。こと様の落ち度ではない」
聖の弁護に隼太は鼻を鳴らしてせせら笑った。
「俺が持っていたほうがましだったな。あれには危険なコトノハの幾つかも書いてある。盗み出したのが外国の諜報機関であればまだしも。日本語を解する輩の手に渡ると厄介だぞ。いや、外国の諜報機関にもこの島国の言葉を学んだ人間がいてもおかしくはない」
私はキャロラインの顔を思い浮かべる。彼女は日本語に造詣が深い。そしてキャロラインばかりが例外という訳ではないのだ。
「……父と母が生前、音ノ瀬隼人に関わったであろう人と接触して話を聴いた覚え書があります。それには音ノ瀬隼人がコトノハの才ある若者に、実験的にコトノハにより生み出させた獣についての記述がありました。そして隼人の日記には獣を生み出す製法が……。隼人は禁忌を犯していました。あの日記帳はその禁忌の集大成とも呼べるものが記されています。悪用されたら取り返しのつかないことになるでしょう」
「相手の情報少なくしてディフェンス側に回るというのは嫌ですね。戦いはオフェンス側が主導権を握り、有利。それが定説です」
秀一郎がインクブルーの切子硝子にある緑の海を目前で揺らし、その揺れを眺めながら語る。
「敵の一人でも捕らえられれば、活路は開ける。そこから俺たちが主導権を握ることも可能だ」
「そう甘い相手であってくれれば良いが。隼太君。君には日記帳を盗んだ相手の心当たりはないのかい?」
聖の問い掛けに隼太が一瞬、黙した。
それから私をおもむろに眺める。
「数え上げればきりがないが絞り込むなら二つ。一つは戦前にアメリカに渡った音ノ瀬の末裔。もう一つは音ノ瀬先代当主夫妻を殺害した中東テロ組織。前者は未知数だが、後者の魔手がここまで及んだとすれば相応の覚悟が必要だろう。ただ、言ったように、日本語を解さない相手であればあの日記帳の解読は困難だ。そこが救いか」
どくん、と心臓が音を立てた。
両親を直接、死に至らしめた組織と相見えるかもしれない――――。
聖と秀一郎の視線を痛い程に感じる。
「各自、徹底した自衛を心掛けることは必要だろう」
「鬼兎の言う通りだ。恭司、お前は水木楓の守りに今まで以上に専念しろ。音ノ瀬ことの最大の泣き所だ。おまけにコトノハを処方出来る」
「解ってるよ」
私は日記帳が盗まれただけで済んで僥倖だったのだと気付かされた。
何の痕跡も残さずうちに忍び込める相手だ。
盗まれたのが楓の命であったとしてもおかしくはない。
今更ながらにそれはぞっとする想像なのだった。
話し合いが散会後、買い物に出る私に、隼太が同行を申し出た。
驚いたが何のことはない、彼の滞在するホテルと方角が同じなのだ。心配そうな聖に大丈夫だと声を掛けて私は家をあとにした。
相変わらず紫陽花色のコートを羽織る男と並んで歩くと衆目を集める。
整った容貌ではあるのだ。
坂を下り、幾つか道を曲がると、和風の家々が並ぶ一画に出る。
嘗て隼太が散らした好事家の家の椿は、今では濃緑の色艶も良く、すっかり回復したようである。中には一本だけ、京都からわざわざ取り寄せたという椿があり、それは不思議なことに年中、紅の花を咲かせるのだ。
隼太は感慨に耽るような可愛げも見せず、椿に見惚れるでもなくすたすたと先に進む。
閑静な住宅街で、それは待ち構えていた。
赤い異形の獣。
燃え立つ狼のようなそれは、牙を剥き出しにして私たちを爛々とした目で見据えている。
「早速、お出ましか。こいつが来たということは、日記帳を盗んだ一味に日本語を解し、コトノハを処方する奴がいるということだな」
獣は隼太の口上を意に介さず唸り続け、ついには私たちに飛び掛かった。
隼太にどん、と突き飛ばされる。
視界の端に一本だけ咲く椿を捉えながら体勢を整え、私はコトノハを処方した。
「霧雨」
赤い獣の総身に、淡い雨の線が無数に突き刺さったように見える。
一見すると針鼠のようだ。
痛みにもがく獣に、隼太がとどめのコトノハを処方する。
「斬」
赤い獣は血飛沫を上げて倒れた。
事切れたそれは見る間に形容を変え、道路に横たわるのは普通の雑種の犬の死骸だった。
よく晴れた日、太陽の光に晒されたそれは如何にも無残だ。
「……成る程。そこらで調達出来る犬猫に禁呪のコトノハを処方し、化け物に仕立て上げる。日記帳に書いてはあったが、実際に見るとまた違うものだな」
「惨いことを」
もう動かないそれの開いたままの眼球は綺麗な硝子玉のように澄んでいる。




