レジェンド
数ヶ月前。
アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタンのある横断歩道脇に白い薔薇の花束を手向ける男がいた。
降りしきる雨で街全体が蒼く煙っている。
その蒼い世界に佇むグレーのロングコートを着た男は、傘を差したまま跪いた。
それから雨の伝い落ちる空を見上げ、十字を切る。
「マリア。マイ・マリア…………待っていてくれ」
口から洩れる白い呼気がまるで幽鬼のようだと見ているジョージは思う。
やがて男は立ち上がり、ジョージに歩み寄るとぽんと肩を叩いた。
「行こう」
酒場にでも誘うかのような軽い仕草のそれはしかし、ある男たちの断末魔の前触れだった。
その日、マンハッタンを拠点にしていた一つの秘密結社が壊滅した。
久し振りにキャロラインがうちを訪ねてきた。ビクターを伴っている。
葉桜の緑が光を受け、葉脈まで透けて美しい。
そんな晴れた日だった。
キャロラインはいつもながら完璧に化粧を施し、カールした長い金髪も整い、乱れがない。一糸乱れず、という言葉を彼女を見ていると思う。いつでもぴしりとしている彼女は真葛とは違う風情で背筋が伸びている。インクブルーの茶器でお茶を出すと、キャロラインは礼を言ってから一口、お茶を飲んだ。
「話があるのよ、コトさん」
「はい」
うちに来てから真面目な表情を崩さないキャロラインの言葉に、私はさもありなんと頷いた。
「――――音ノ瀬隼人の日記」
カタン、と茶器が茶托に置かれる。
聖も同席している。彼の赤い瞳と私の瞳が黙したまま交錯した。
キャロラインはその間も私から視線を逸らさない。
「持っているでしょう?」
私はキャロラインの顔を見返し、一瞬の間に思考した。何と答えるべきか。知らないと白を切ることも可能だが、キャロラインの確信ありげな物言いに、それは得策ではないと思えた。
「貴方は知らないかもしれないけど」
そう言ってキャロラインはもう一口、お茶を飲む。
露に濡れた唇は、扇情的でさえある。
「私たちや他の諜報機関は貴方が思う以上に音ノ瀬隼太や貴方たちの行動を監視しているのよ」
「……日記の存在をどうやって知ったのですか?」
私は「是」と答えるに等しい問いをキャロラインに投げかけた。
キャロラインは肩を竦める。
「解ってないのね、コトさん。音ノ瀬隼人は自分自身で、日記の存在を吹聴していたのよ。自分を飼い殺しにした軍部へのあてつけだったのかもしれないわね。――――或いは、自分にも一矢報いることが出来るのだぞという、アピール」
「なぜあの日記を求めるのですか? 大したことは書いていませんよ」
真っ赤な嘘である。
しかしキャロラインは相手にしなかった。
「と、いうことは、やはり貴方が持ってるのね。大したことが書いてない? とんだ出まかせだわ。音ノ瀬一族でなくても判る嘘」
キャロラインの灰色の双眸が獣のように煌めく。
彼女は魔法をかける魔女のように、右手人差し指をくるりと回して私を指した。
爪に塗られたマニキュアは赤い。
先端の赤はまるで攻撃を誘発するようで。
「内容を貴方は既に読んでいるのでしょう。そうして、秘匿しておくべき物だと判断した。だから私にそんな嘘を言う。違う?」
「例え何が書いてあったにせよ、貴方たちには関係ないでしょう」
くるり、くるりと赤いマニキュアが踊る。
巡る赤が児戯の内は良いのだ。
赤色が流れ、痛覚に訴えるものと化す事態をこそ避けねばならない。
即ち血が。ゆえに日記帳は渡せない。
「――――本当に何も解ってないのね。各諜報機関がどれだけその日記を求めているか。垂涎もの……この使い方で合ってるかしら?軍部に恐れられた男の、コトノハが記された日記。今やその日記帳の存在は伝説とすらなっているのよ」
「それを貴方に渡せと? キャロライン」
「出来るならそうして欲しいわ。是非ともね」
「出来かねます。あれは私が隼太さんから託された大事な日記です。余人に譲る気はありません」
あの日記帳から得た教訓は平和の尊さだ。抗争の一手段として使われるべき物ではない。
キャロラインの赤いマニキュアが彼女の唇に添えられた。
今日の彼女は仕草の一つ一つが艶めかしい。
「…………また来るわ。それまでに貴方の考えが変わっているように」
キャロラインとビクターが帰ったあと、聖にあとの片付けを任せて、私は寝室に向かった。
押入れの戸を開け、布団の一番下を探る。
何の手応えもない。
そこに置いた日記帳は忽然と消えていた。




