表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
コトノハ薬局  作者: 九藤 朋
家督相続編 第三章
138/817

或る男の述懐

 ことあかねの色、と姉はそう申しておりました。

 陸軍参謀本部の威勢、いよいよ盛んになっていた折りにございます。

 ええ、海軍にも参謀部は置かれましたが、上に立つのは陸軍と、これは誰の目にも明らかでございましたよ。

 そうは申しましても東京音楽学校やら美術学校やらも設立され、ほら、時代は少し遡りますが、歌舞伎では九代目市川団十郎やら五代目尾上菊五郎やらがいっとう煌びやかに輝いておりましたっけねえ。


 ああ、ことあかねの色の話でしたね。

 漢字にすると異なる茜色、と書いて異茜、だそうでして。

 何ともこう、ちょっと背中を冷たい指でついとなぞられるようなコトノハじゃございませんか。

 コトノハ、というのも姉がよく口にした単語でしたね。女学校ででも流行っているのかと尋ねると、ある人に教わったのだと申します。

 その人に出逢ってから、私はことあかねの色を知ったのよなんぞと申しまして。

 私は正直、良い心地が致しませんでした。

 いえ、特に明瞭たる理由はないのですが、姉が常人ならざる世界に手招きされているような気がしましてね。


 ことあかねの色、というのは、それは大層、美しい色なのだと姉は主張するのですが、どだい無骨な男の私には、ちょっと不吉な印象の色しか想像出来やしませんでした。

 そうこうする内に月日は大正、昭和へと流れ、私にも赤紙(召集令状)が届くご時世となりました。

 私は日本共産党に、ええ、非合法に結成されたあれですよ、参加していた時期がありましてね。アカだとか、赤化(せきか)した奴だとか言われて特高……、所謂、特別高等警察にですね、目をつけられたりもしました。

 自分一人のことなら良いですよ、そりゃ。

 けどねえ、家族まで巻き込むとなるとねえ……。

 私の足は自然、党から遠のきました。朋輩には怯懦だの何だの、それは色々と言われましたねえ。


 ああ、それで。

 そんな私でありますから、目もつけられやすかったのかしれませんが、もうそう好い歳でもないのに、赤紙が早々に届いたんですよ。

 おめでとうと言う母の目は、言葉とは逆に悲しみに潤んでおりましたっけねえ。

 ご近所の皆様に、千人針をお願いしたりして。

 日本の敗色はまだ感じられない頃でしたが、母親の直感と言うのでしょうか、そりゃあ必死の形相でした。藁にも縋る思いだったんでしょう。

 当時、日本がいずれ戦争に負けると見越してる人間なんて、そう多くはなかったんですよ。

 少なくとも陸軍のお偉いさんあたりにはね。

 姉は。

 姉は私に赤紙が来た時、凍りついたように立っていました。

 何て言うんでしょう、ああいう表情。

 母のような悲嘆とか、そういう弱々しさじゃないんですよ。

 そう。

 外国に、或いは古代の日本に君臨した女帝の、逆鱗に触れたらこんな表情をするのではないか。

 そんなお顔でした……。

 その顔のまま、姉は申したのです。


 ことあかねの色が、きっと貴方を守るから、と。


 昭和十二(1937)年、中国で()(こう)(きょう)事件(北京郊外の盧溝橋で日中両軍が激突)の起きた年でした。……それと、南京大虐殺も。

 日本軍は優勢で、と言うのも侵略のようなものですからね、命の危険を感じることはそうなかったのです。

 けれど私のような下っ端の兵士はよく斥候なんかもさせられましてね。

 やっぱり戦争ですから。そこは命懸けですよ。

 何度か危ない、という目にも遭いました。

 タン、タタン、と乾いた鉄砲の音は今でも耳に残っています。

 そんな時です。

 必ずと言って良い程、大きな、紅蓮の狼のような獣がどこからともなく現れ、私を狙撃する敵兵を襲い、喰い千切ったんです。恐ろしい光景でした。今でも私にとって、戦争での恐怖の記憶と言えば敵の攻撃や飢えなんかより、その紅蓮の狼なんです。あれは異形です。この世に在ってはならないものです。

 その在ってはならないものが私を守っている。私は生を繋ぎながらも懊悩しました。


 そうして私はやっと思い出したのです。

 あれは中国の何という村だったか……。日本軍が来るということで村人が逃げ、廃村になったところで夜営していました。

 降るような星がもの凄かったのを今でも憶えています。

 そして姉の言葉が。

 姉のコトノハが。

 突如として私の脳裏に降ってきたのです。


 ことあかねの色が、きっと貴方を守るから。


 ああ……。姉さん。

 あの異形を生んだのは貴方でしたか。

 

 私の衝撃と言ったらとても言葉に尽くせません。

 思い起こせば私が特高に付け狙われていた頃にも、不可解な猟奇殺人は起こっていました。新聞を見れば殺されたのは、しつこく私を追っていた男だった。それも獣に屠られたかのような、無残な有り様で。そんなことがままありました。


 姉の言うことあかねの色とは、実にあの化け物のことなのでした。

 私はあえてその言葉を避けて紅蓮と申しておりましたが、成る程、あの狼にも似た化け物は、茜色に似て非なる、もっと禍々しい、けれど。けれど。認めたくはないけれど、確かに美しくもある色をその身に宿していたのでございます。


 私は無事に生きて日本に帰還を果たし、太平洋戦争をも生き延びました。

 ですが姉は、平和の世を見る前に亡くなりました。衰弱死でした。

 私が思いますに、姉は外法により命を縮めたのではありますまいか。


 ことあかねの色を見たことは、その後ございません。




挿絵(By みてみん)





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ