純正インクの男
最終的に、パウロは私の要請を受け容れた。年始の挨拶に来た一族たちは見慣れぬ外国人らが私の背後に控えているのを見て仰天していた。私は簡潔に彼らの素性を紹介し、これから一族に招き入れたい旨を言って聴かせた。心から納得した訳ではあるまいが、表立って私に不承知と言う者はいなかった。お盆同様、パウロたちより一歩前に聖と秀一郎が端座しているのも効果があったのだろう。
時が過ぎる。
古いものの殻を破り、新しいものが芽を出す。音ノ瀬は今、萌芽の状態なのだ。
変則的に過ぎる時もある。
恭司は十七の時に止めた肉体年齢を再び動かし始めたようだ。
それは楓の為だろうか。
菊の大輪、松に川の流れる意匠の振袖を着た楓は、康醍に連れられた恭司が来た時だけ、客間に姿を見せた。恭司は一瞬、楓の艶姿に眩しいものを見る目をしたが、すぐにその表情を覆い隠した。
楓には、その一瞬だけでも十分伝わっただろう。
聖はそもそもひどく緩やかに年を重ねる体質だったが、花屋敷で一気に青年となって以来、常人と同じ速度で加齢が進むようになったようだ。
私はこれを僥倖として密かに、そして大いに喜んだ。
聖と共に時を重ねることが出来るのだ。
大海の時間だけは、もう二度と動き出すことはないだろう。
彼はその道をずっと昔に選んでしまったから。
それもまた生き方である。
悲喜こもごもを抱えながら、私たちはまた、新しい年を歩み出す。
正月も松の内を過ぎて、俊介が干し鱈と唐墨、ドライフルーツの袋詰めと純米吟醸を持ってやってきた。酒の肴の逸品と美酒である。
私は心の中で快哉を叫びながら彼を歓迎した。客間にいそいそとしな織の座布団を敷く。海と山が深く混じった色合いの上に俊介が座る。
「明けましておめでとうございます」
そう言う私はにこにこと笑顔だったろう。
「明けましておめでとうございます」
俊介も純朴な笑顔を見せる。良い奴だなあ、こいつは。そう思わずにいられない。恐らく俊介を知る大抵の人間はそう思っているだろう。
「実は依頼の件でお願いがありまして」
そら来た。しかし気が大きくなっている私はにこやかに相槌を打つ。
「と、言いますと?」
「素行調査の結果、奥さんに浮気をされていることが判明した男性がいるんです」
「ふむふむ」
よくある話だが、そういう職務的機密事項を私に喋って良いのか。
「依頼主はとても真面目で繊細な方なようなので、ことさんにも調査結果報告に立ち会っていただき、コトノハで相手を宥め、励まして欲しいのです」
「そんなにナイーブな方なんですか」
「はい。結果を聴いたら万一の行為にも及び兼ねないくらい」
つまり自殺の危険性さえあると俊介は言っているのだ。
「……部外者の私がいても良いものでしょうか」
「俺の助手と言う積りです」
「解りました。お引き受けしましょう」
俊介が破顔する。
本当に懐っこい犬のような男だ。
出向いたのは大きな鉄筋コンクリートの、モダンな外観の建物だった。入り口には銀色のプレートに坂瀬建築事務所と銘打ってある。それで新進気鋭を思わせる造りなのか。
チャイムを鳴らすとインターフォンから誰何する声が発せられ、俊介が応答して門扉が右にスライドして開いた。
ここは事務所兼自宅らしく、所長は二階の自室においでです、と所員らしき若い女性に案内された。
部屋のデスクには線の細い四十代と思しき優男が座っていた。ブラインドシャッターの向こうから射す陽が縞模様となり部屋に落ちている。それを背負った優男は結婚指輪の嵌まった左手を神経質に擦っている。デスクの上には数枚の設計図やら模型に紛れてペーパーナイフがある。あれで手首を切ろうなどとしないでくれれば良いのだが。
俊介が入室すると立ち上がり、ソファに座るよう勧め、自らもソファに腰掛ける。初め彼は、私を異物のように見たが、打ち合わせ通り俊介が助手だと紹介すると不承不承、納得した。自分の恥部を知る人間は少なくあって欲しいという思うのが人の常なので、多少失礼な態度を取られても私は気にしない。
それから俊介が妻の不実の証拠写真を並べ、説明していく様子を食い入るように凝視する内、建築家・坂瀬登の顔色は青白くなっていった。今にも呼吸困難を起こしそうだ。
揚句、よろりと立ち上がり、部屋の中をふらふらと歩行し始める。桃子が云々、とぶつぶつ呟いているがよく聴き取れない。
ここは私の出番かと思っていると、先んじて俊介が言った。
「まずは奥様とよくお話しなさってみるべきでしょう」
するとそれまでの憔悴振りが嘘のように坂瀬が吼えた。
「これだけ浮気の証拠がある以上、何を話し合えって言うんですか!!」
「それを決めるのは貴方と、奥様です。僕は仕事を請け負っただけの部外者ですから」
俊介にしてはドライな口調に私は驚く。
「けれど……」
俊介が立ち上がり、デスクの上に置いてある写真立てを手に取る。
ドライな口調が一転して柔らかくなる。
「こんな良い笑顔をされていたご夫婦です。奥様の事情を考慮した上で、対話する余地はあると思うんです。貴方は僕に依頼される際も、随分、悩んでおられましたよね。奥様を信じたかったからでしょう? そうして、僕が見る限り、貴方はまだ、奥様を愛しておられる。……坂瀬さん。人の関係は断裂したかに思えても、春の陽だまりのような一言で、また繋ぎ直すことは出来るんですよ。少なくとも僕はそう思います。言葉って、そのくらい大きな力があるんです。僕はそれをよく知っています」
「……春の陽だまり」
「ええ。現在、貴方たちは季節と同じく冬にあるのでしょう。そこに温もりあるコトノハ……、言葉を投じれば」
「春は来る。再び。そう、思われますか」
「そう、望むことから始まるのではないでしょうか」
坂瀬は歩みを止め、沈黙した。
それから、僅かに涙ぐんだ目で俊介に小さくありがとう、と言った。
俊介のコトノハは、彼に届いたようだ。
「私の出る幕はありませんでしたね」
帰途、俊介を見直した私は言う。北風が冷たい。暮れの近づく空は雲のせいで夕景の美しさが遮られている。また雪が降るのだろうか。
俊介はさりげなく私の北側に立ち、風を阻んでくれた。
道の端にあった自動販売機でホットコーヒーのボタンを二度押し、出てきた二本の内、一本のプルトップを開けて渡してくれる。
「いいえ。ことさんならどう仰るだろう、と意識したからあんな風に言えたんですよ。俺一人なら絶対に無理でした」
笑いながら言う。
そうだろうか。私は缶コーヒーを見つめる。
俊介は自分を過小評価しているように思う。
「俊介さん。貴方ご自身がどう思ってらっしゃるか知りませんが、貴方は決して互換インクなどではありません。純正インクですよ」
思うままに告げたら、俊介がぽかんとした顔をした。




