空蝉の現人
水に浮く燈籠を見送った私は秀一郎と別れ家に帰り、桔梗色の透織を脱ぎ、衣桁には掛けず畳に放った。
半透明の桔梗色の向こうに渋い藺草の緑が見える。
別にそれを狙った訳ではなかったのだが、色重ねの妙に私の目はしばし留まった。
不思議なことに先程までは蜩の音が聴こえていたものを、今は蝉の音がそれに成り代わっている。
暮れてから鳴く蝉。
狂っている。
いや、狂わされたのだ、人によって。
人の世を見よ、遍く不夜城が占めている。
狂い鳴く虫の罪ではないのだ。
私は端座の姿勢を崩して単の襟元を少し緩めた。水垢離も今朝で終わりだ。
「如何にも」と言った風情の、白い綾織の単も。
帰ってすぐ、線香でなく月桃香を焚いた。
その、久し振りの芳香に酔ったように、私はしばらく動かなかった。
目は桔梗を通した緑に据え、耳には人に狂わされた声を聴き。
狂人の遺産は大きい。
或いは大伯父・音ノ瀬隼人も狂わされた夜の蝉であったろうか。
彼の血を引く者が、法を犯しているらしい。
それを知った両親は祖父母、音ノ瀬の一族、主だった者と諮り、私に本家の家督を継がせ、噂の真偽を確かめる為に旅立った。
そして消息が途絶えて、今年で五年になる。
思うところは多々ある。
しかし両親は家を出る際、万一の場合に備えて心構えはしておくように。
そう言い残した。
両親から処方された、最後のコトノハを私は服用した。
だから精霊流しの燈籠の中に父母の灯りが揺らめいても不思議はないと思ったのだ。
元気に帰って来てね。
最高峰のコトノハの使い手と呼ばれる私が両親に処方したコトノハは、報われなかったと考えるのがきっと正しい。
秀一郎などは私を大層な大人物のように買い被っているようだが、それは間違い。
浅葱色の組紐をするり、と解く。
髪がさらさらと私の背に放たれ、汗ばむ項も覆った。
私は無力だ。この世に生存する無力な現人だ。
桔梗色をそっと撫でる。
狂った蝉が鳴き続けている。
この世はたくさんの狂いに満ちている。
だから傷ましいなどと言ってくれるな。秀一郎。




