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コトノハ薬局  作者: 九藤 朋
家督相続編 第三章
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コト隠し

 そして冬が来た。

 宗吾が完全に失脚し、ことが行方不明であると告げると、恭司は以前のように、楓の学校への送り迎えをするようになった。彼なりの気遣いの末の結論だろう。

 聖は一人、縁側に座り、隣を見る。

 そこに在る筈の人はいない。

 玉虫色めいた光沢の、青緑色の着流しに朱色の羽織を肩に掛け、聖は端座してその事実を厳粛に受け止める。こうべを垂れるように。

 祈るように。

 これが神隠しならば、早くことを返してくれと。

 楓にはことが必要だ。無論、自分にも――――。

 

 なぜことは消えた?


 誰にともなく心中で問う聖の眼前には、古い石灯籠と桜の樹が、犬槇に取り囲まれた庭で、古色蒼然とした趣を持ってある。

 灰色に鈍色、緑に茶色、朽葉色と冬ならではの彩りがあるのに、現在の庭はどこか色がくすんで、灰色の領域が多いように聖の目には見える。ことがいた時はもっと明るくなかったか?色は朗らか、且つ明瞭ではなかったか?幾ら冬とは言え、この殺風景な庭の在り様と言ったらどうだろう。

 聖はそれが自分の心の反映だと気付いていた。

 息を吸って、吐く。その間に、白いひとひらが舞い降りてくる。

 雪ウサギみたいだと、今の自分をことが見たらまた言うのだろう。

 ひとひら、ひとひら。

 雪が降る。

 聖は耐え忍ぶようにじっと曇天を赤い目で見上げていた。

 それは泣き腫らした赤のようにも見える。


 正月の賑わいも去年とは格段の差があった。

 元旦には聖が、一族の者たちの年始の挨拶をことの代理として受けた。

 当主が行方不明であるという事実に、音ノ瀬の人間は皆、動揺していた。若いながらにことが、既に彼らの精神的支柱であった事実をそれは物語っている。

「聖様。御当主はいつ戻られるのでしょう」

「なぜ、行く方知れずに」

「まさかこのままお戻りになられない、ということは」

 聖は己が根底にある、耳を塞ぎたいという欲求をねじ伏せて彼らを宥めた。

 不測の事態ではあるが、ことは遠からずきっと戻るであろうから、信じて待つように、と。微笑の仮面を顔に貼りつけ、纏うのは右後ろに控える秀一郎と色違いの白い羽織袴だ。〝副つ家〟の威光を視覚的にここぞとばかり強調することで、一族の不安を和らげようという考えから選んだ色だ。去年の正月には秀一郎と同じ黒の紋付羽織袴姿だった。五つ紋入りの黒い羽織に袴は正絹馬乗り袴誂え。それと比較したら同じ羽二重(はぶたえ)(織物の一種・絹の場合は(こう)(きぬ)と言い、この場合はこれに当たる)でも羽織も袴も純白で揃えた聖は、髪の色と相まって常より気位高く尊く見えた。

 更に聖は自分のコトノハの作用を最大限にまで高めている。

 それでも一族の瞳に揺らぐ不安は払拭出来ない。

 ことの両親は失踪したまま、帰らぬ人となった。その事実と今回の一件を、彼らは重ねているのだ。無理もないと聖でさえ思う。

「いつになろうと御当主が安心して帰ってこられるように、我らが取り乱さず構えておることこそが肝要ではないか」

 音ノ瀬康醍の一喝が、一族の暗いコトノハを吹き飛ばすとまでは行かないまでも薄めた。


 ――――ことは遠からずきっと戻る?


 年始の挨拶を全て受け終えたあと、聖は自問した。

 なぜ、そんなコトノハが信じられる。握り締めた拳に力を籠める。爪が皮膚に喰い込む痛みも、どうと言うものではなかった。


 それでも聖は楓を必死に養育し、ことがいないからこそ猶更、いつも通りの日常を守ろうと腐心した。

 日々は過ぎた。単調に、物悲しく。

 楓はことがいなくて寂しいとは一度も口に出さない。言えば聖が困ると解っているからだ。聖が二人の暮らしを守ろうとしているように、楓もまたその仮初めの安寧を乱すまいとしたのだ。幼い頃の境遇ゆえに培われた現状維持を大事とする感覚が、楓にそうさせた。


 聖と楓の暮らしを、秀一郎や俊介、事情を聴いた真葛が遠巻きに見守っていた。

 俊介も秀一郎もそれまで通り、家を訪問する際には必ずと言って良い程、手土産を持参した。

 但し、その内容に酒が入る頻度が減った。代わりに女の子が喜ぶようなお菓子が増えた。

 一時はどうなることかと心配された隼太は、今では全快して、千秋の家を出たらしい。

 


 時は流れ、いつの間にやら季節は蝉時雨の降る夏となった。

 聖は長靴を履いて庭に降り、水色の如雨露(じょうろ)で草木に水を遣る。ことが戻った時、庭が荒れていたら嘆くだろう。季節には庭を彩る紫陽花や桔梗を守らねばならない。適当に雑草を抜き、害虫を駆除する。紫蘇はたくましく、多少、手を抜いても水遣りさえ怠らなければ繁茂する。ふと如雨露の中に浮かぶ蜜蜂の死骸に気付き、しばし考えた末、聖は水中に手を潜らせそれを掴み上げた。

 蝉の声が絶えない。陽が、容赦ない。

 ことはいないのに時だけが過ぎる。

 紫陽花も色鮮やかに咲いているのに。

 聖は蜜蜂の死骸を握り潰した。残る針が刺さろうと構わない勢いで。

 蜜蜂は聖を刺すことなく、ただ掌にぐちょりとした不快な感触を残すだけだった。


「……ことさん、まだ戻りませんね」

これで何回目になるか解らないコトノハを呟いたのは、涼しげな上生菓子とマフィンを持参した俊介だ。楓は小学校へ行っている。学年は一つ上がり、今では小学三年生だ。俊介の手土産は主に楓用だろう。マフィンはこの近所にある洋菓子店の、人気の品だった。出来れば焼き立てを食べさせてあげたかったんですけど、と俊介はマフィンが入った箱を取り出した時に言った。そう言う俊介のTシャツから出た腕は日に焼けて、聖は時の経過を感じた。上生菓子の意匠も透明なゼリー状の上に朝顔が乗っていたり、団扇の形の物であったりと、今が夏であることを声高に見た目で主張している。

 聖は透明に浮かぶ朝顔に、如雨露の中の蜜蜂を思い出した。

「そうだね」

 インクブルーの茶器を俊介に出しながら応じる。

 俊介の焼けた腕を見て、自分のTシャツの背中が汗ばんでいることにやっと気付く。

 どうにも最近、現実感が希薄だ。

 うっかりすると今が暑いことさえ忘れてしまいそうになる。

「俺のほうでも調べてはみてるんですが、何せ手掛かりが少な過ぎるもので……。面目ないです」

 俊介の面には自らの不甲斐なさに対する情けない思いが露わになっていた。

「いや、状況が状況だ。仕方ないよ。それに……こと様が消えたのは何等かの不思議な導きによるものではないかと、僕も秀一郎君も思っている。それでも現実的な路線を捨て切れず、俊介君を頼った。君は十分、よくやってくれている」

「……楓ちゃんの様子はどうですか」

 それこそが肝心だ、と言うように俊介が尋ねる。聖は睫の庇を伏せた。

「こと様がいなくなったショックを、必死に堪えようとしているよ。見ていて痛ましいくらいだ」

「そうですか」


 ことの消えた秋から、聖の内にずっと燻り続けるものがある。

 答えの出ない問いで身体中が熱く充満し、今にも溢れ出んばかりだ。

 凶暴に荒れ狂うように。

 ことはどこにいるのか。どうして自分の隣にいないのか。

 如雨露の中の蜜蜂。

 誰にも知られず死んでいた蜜蜂。

 ことがもう戻らなかったなら、自分はどうすれば良いのだろう。

 神仏というものがあるとしたら、聖は間違いなく今、それを恨んでいた。

 当初は祈るようだった思いの、時を経た負の変遷だった。

 

 夜中に目が覚めて、もしも最初からことという存在自体がいなかったのだとしたら、と考える。底なし沼のような恐怖。

 本当に音ノ瀬ことという人物は存在したのか。

 全てがふるさとに一人住まう自分の妄想でないと言い切れるのか。そこまで考え、天井から下がる美装のランプを見て正気に戻る。

 このままことが戻らなければ、そんな妄想に取り憑かれる余生を送るのかと思うとぞっとして夏だと言うのに冷や汗が出る。

 聖は怯え、自嘲し、再び目を閉じるが、熟睡は出来ないままに夜が明ける。

 そんな日々が続いた。


 じりじりとした夏が過ぎ、秋が来て、また冬になった。

 凍てつくような冬になった。

 しかし聖や楓にとって、ことの消えた秋から時間は止まったままだ。

 凍りついたままだ。

〝雪はいずれ融けます〟

〝春が来ます〟

〝否応なく季節は巡る――――〟


 春は来るだろう、いずれ。

 時計兎の時計は進む。

 聖自身が言ったように、否応なく季節は巡るだろう。

 けれどそれがことを置き去りにしたままだったら。


 そんな時間なら止まってしまえば良い、と聖は思う。

 ことと共に、希望のコトノハが聖から隠されてしまった。


 外ではまたしんしんと雪が降り始めていた。

 今外に出れば紺に白が落ちる様が見られるに違いない。

 白が落ちる様が。






挿絵(By みてみん)






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