甘いは苦い
その日の朝、恭司が部屋でごろ寝を決め込んでいると、呼び鈴の音が聴こえた。
千秋が応対に出たらしい。
「何よ、急にいなくなったと思ったらいきなり来て」
「入るぞ」
声は隼太のものだった。千秋の不興にも構わず、ずかずかと家に上り込んでいるようだ。
尤も隼太はどんな権威ある豪邸だろうが臆することなく入るだろう。
足音からして靴を脱いでいるらしいところだけは、さすがに遠慮があると言うべきか。
隼太は恭司のいる部屋の戸を開け放ち、揚句、猫の子を摘まみ上げるように恭司の首根っこを掴み持ち上げた。
「いきなり何するのさ、隼太」
恭司が隼太の腕を振り解いて逃れ、畳に着地する。
「水木楓のガードに戻れ。命令だ」
「お断り。例えお前の命令でもね。てか何焦ってんの、隼太。らしくないね」
恭司は舌を出した。
「音ノ瀬宗吾が昨日、娘を連れて本家を訪ねた」
「――――例の後継者候補って奴か」
「そうだ。話は聴いているようだな。音ノ瀬宗吾は副つ家とまでは行かないまでも、音ノ瀬一族の中でそれなりに権威ある家の当主だ。矢倉の御舘と呼ばれている。その当主の娘ともなれば、本家を相続する資格はある。コトノハも処方出来るらしいしな。お前は水木楓の傍にいて、水木楓に有利な状況を作れ」
「そんな話なら猶更、俺なんかがいないほうが良いだろ。脛に傷持つ身だし?」
「良いから命令を聴け」
「今回ばかりはパスだ。言っただろ」
「ちょっと、うちで喧嘩するのやめてくれる?」
それまで二人を傍観していた千秋が業を煮やしたように言った。
「隼太。あんたにも事情はあるのかもしれないけど、無理強いはやめなさいよ」
「…………」
隼太は興が失せたように恭司から身を離すと、来た時同様、荒々しく家から出て行った。
日に日に冷たくなる風が、秋の次、冬の気配を感じさせる。
空は今日も青く、大きな白い雲の縁が金色に光っている。
朝鮮朝顔だろうか、秋だというのに、青に芯のほうがピンク色の朝顔が咲き誇っている。
その青と青の連なりは民家の敷地を出てアスファルトの壁まで覆っている。
旺盛な繁殖力だ。そう――――繁殖。
滞在しているホテルへの帰路、隼太の前に立つ人影があった。
秀一郎だ。
似たようなことが前にもあったなと思う。
いずれ自分の本意を探る為、音ノ瀬から誰か派遣されるだろうとは思っていた。秀一郎か聖あたりだろうと考えていた推測は当たったようだ。相変わらず白い背広を着ている。それは紫陽花色のコートを未だ頻繁に羽織る自分を見るようで、隼太は少し可笑しかった。
「隼太君。君の存念を知りたい。どうして楓さんに恭司君をつけることに固執する?」
秀一郎は前置きのコトノハなく、話の核心を突いた。
「仲良きことは麗しきかなと言うじゃあないか」
隼太は嘯いて笑った。どこからともなく烏が飛んできて、隼太が伸ばした右腕に留まる。
秀一郎はその光景に、隼太を猛禽と思わせるものを感じた。彼らは同類なのだ。
「君の狙いは、恭司君が楓さんの伴侶となることで本家を意のままにすることだね? 無論、それには楓さんが次代の後継者となることが大前提だが」
パン、パン、パン、と隼太が手を叩く。
「さすがだな、秀一郎。優秀な狗だ」
隼太がいつかの夜と同じ揶揄を口にする。秀一郎は相手にせず続けた。
「恭司君は君が見つけ出した男だろう。君を慕ってもいる。彼を想うなら、権益ばかりでなく彼自身の意思も尊重すべきだ。その上で、楓さんと後顧の憂いなく一緒にいさせてやる道を探せば良い。……楓さんと恭司君はこの先、家督相続の渦中に身を置くことになるだろう。君にしか出来ない手助けがある筈だ」
「生憎、俺はそんなヒューマニストじゃないんでね。俺にはお前こそ不可解だ。それ程に優秀でありながら、音ノ瀬本家の簒奪を考えもしない。俺は鬼兎とのほうが話が合いそうだな。お前は、甘い男だ。俺は好かん」
腕に烏を留まらせたまま、隼太は歩み去っていく。
秀一郎は彼を黙って見送った。
秀一郎は自分が恵まれた境遇にいたと知っている。だからこそ他者から何かを奪おうとも考えずに生きてこられた。それを幸いと思う。だが今、音ノ瀬一族の膿が出つつある状況下で、甘いだけの男では対処に足りないのだ。
甘いと隼太に評された秀一郎の胸の内は、この上なく苦かった。




