硝子と鼈甲
ことの家を出た恭司の肩に、空から舞い降りてきた烏が留まった。
思わず歩みを止めた恭司に向けてがあ、と鳴く。
「何だ、お前。隼太かよ……」
「その呼び方をやめろ」
声に恭司が顔を向けると、坂道の下に隼太が立っていた。
「薬の後遺症は無さそうだな」
「ああ、ぴんぴんしてるよ。なあ、隼太。俺、あのガキのボディーガードやめるからな」
「それが薬の後遺症か? 冗談を言うな。脅威はまだ完全に消えた訳じゃない」
「冗談じゃねえよ」
暮れなずむ夕景のもと、隼太と恭司が睨み合う。
風が鳴る。
風がびうびうと鳴り、二人の間を行き過ぎる。
「音ノ瀬一族、総浚いすりゃ俺の代わりくらい見つかるだろ」
「だが、水木楓に信頼されているのはお前だ」
は、と恭司が笑う。
「信頼とか……。似合わないこと言ってんなあ? お前、本当は何を考えてやがんだ、隼太。お前はいつも、自分の思惑を最優先させる。情抜きで。俺はお前の言うことになら大概、従ってやるけど今回は別だ。悪いな」
そう告げると恭司は、隼太の横を通り過ぎて坂を下って行った。
一人残った隼太は残照を浴びながら肩を震わせ、くっく、と笑っていた。
翌日、学校帰りの楓に付き添う聖の他、悟も我が家の玄関に立っていた。
「あいつ、どうして急に来なくなったんだ?」
恭司のことだとすぐに判った。彼は恭司が楓を見放したと憤っているようだった。真相はそうしたものではない、と私と聖は察しているが、悟には割り切れないものがあるのだろう。恭司の居場所を尋ねられたが、悟には教えるな、と予め恭司から釘を刺されていたので、私は答えられない。悟は悔しそうに俯く。
「あいつは、こんな風に物事を投げ出す奴じゃないって思ってた」
「そういうのとは違うよ、悟君」
楓の恭司を擁護する言葉は、悟を苛立たせたようだ。
「何がだよ」
「よく解らないけど、恭司君は、ちゃんと考えただけなんだよ」
「…………意味解んねえ」
悟は楓をも不可解そうな目で見ると、そのまま立ち去った。
その晩、秀一郎が、ブルーチーズと赤ワインを手にうちに来た。
それに鰺の開きを焼いた物、人参と牛蒡の千切りのマヨネーズ和え、小松菜の煮浸しと里芋の煮っ転がしを加えて今夜の晩餐となった。
フルーティーな赤ワインが、ブルーチーズの強い塩味を円やかにしてくれる。
私たちはいつも程には味覚の妙に没頭出来ずそれらを味わいながら、恭司の一件を、楓を気遣いつつ秀一郎に伝えた。
秀一郎は、鼈甲ぶち眼鏡の向こうの目に思慮深い光を宿らせながら話を聴いている。
「実は僕が参上したのには、ことさんにご報告しなければならない用件がこちらにもあったからなのです。本来であれば御当主を尊重して初めに伝えなければならないところでしたが……」
私たちの深刻な顔つきに遠慮し、先を譲ったのだ。
「良い、許す。申せ」
「はい――――」
秀一郎はグラスを置いて、音ノ瀬家「当主」の前の顔を作り畏まった。
「矢倉の御舘の音ノ瀬宗吾が、アメリカより帰国しております」
この報せに私は眉を微かにひそめた。
矢倉の御舘とは音ノ瀬傍流で、古くより一族において、コトノハで補えない武力を司った家である。蔵には今でも当時よりの武器が収蔵され、一族内ではその働きに対する敬意も込めて矢倉の御舘と呼ばれている。その現当主である音ノ瀬宗吾は、アメリカでIT関連企業の社長を務めている。
副つ家には及ばないまでも一族内で発言力を持つ、多忙を極めている筈の矢倉の主がこのタイミングで帰国した理由は、一つしかないだろう。
「宗吾は一人か?」
「……いいえ。アメリカ人の妻との間に生まれた娘を伴っています」
「音ノ瀬カレン……だったか」
「はい」
ふう、と私は溜息を吐いてしまった。聖も思案する顔になる。
重なる時には諸事が重なるのが人の世の常だろうか。
楓は何か重要事項が話されているらしいが、それが何なのか解らない、という顔をしている。そんな彼女が実は取沙汰されている話の渦中にある。
これは音ノ瀬の家督相続問題だ。
恐らく私が楓を養女とする考えであることを、宗吾は知ったのだろう。彼は以前から自分の娘を次代音ノ瀬当主に、と望んでいた。そこに楓というダークホースが現れた。心中、穏やかでいられず帰国するに至ったのだろう。
宗吾の希望を却下するのは容易だが、それは楓が次代音ノ瀬当主であると知らしめることに繋がる。楓の未来は確定され、もっと言うならば束縛されることになる。それを今、してしまって良いものかどうか――――――――。
「僕はこのあと、千秋さんの家に行きましょう。恭司君にこれを伝え、彼の意向を聴いてみます」
「お願いします、秀一郎さん」
秀一郎は飲んだ気配も見せず軽やかに食卓を立ち、退去した。
秀一郎が千秋の家を訪ねると、恭司はいつもの居間の隣室に寝転んでいた。
この家でも、もう夕飯は終わったようで、千秋が食器を洗っている。完全に無視を決め込んでいる恭司の態度に構わず、秀一郎は話を切り出した。
「恭司君。アメリカから音ノ瀬一族の少女が来日した」
「……それが?」
「ことさんの後継者の一人として推薦される為に」
ここで恭司が跳ね起きた。
「楓は。あいつがいるだろ」
「一族内にも様々な思惑が渦巻いている。楓さんの存在を、邪魔に思う者もいるんだよ」
「――――だから俺にあいつの傍にいろって?」
「守りたいと思うならそうしろ。あとで悔やまないように」
秀一郎は本気でコトノハを処方した。同じ男として言わねばならないと思ったからだ。
しばらくの沈黙の後、恭司が世間話をするような口調で語り始めた。
「……俺は時々、予知夢めいたものを見る。コトノハを処方出来ることと関係してるのかは知らない。けどそれは具体性を欠いたひどく曖昧なもので。あんたと戦う前には、海をタイマイが泳ぐ夢を見た。知ってるだろ。甲羅が鼈甲の材料になる亀だ」
「…………」
突飛な話だったが秀一郎は笑わずに黙して聴いた。鼈甲ぶち眼鏡のフレームに触れる。
「この間は、水。と、割れる色んな色の硝子。…………それから楓の葉が出てきた。この夢の意味を読み解くことは俺には出来ないが、楓の傍にはいないほうが良い気がする」
それだけが理由ではないとは秀一郎にも察せられたが、そこは追及しなかった。
「そして隼太。あいつも何考えてるのか解らない。俺はあいつに利用されるのは構わない。けど、そこにあのガキを巻き込みたくはない」
人が視覚から受ける印象とは大きなもので、秀一郎でさえ未だに恭司を年下の少年のように思う時がある。だが彼は大人の男で、自分なりに物事を考えて生きている。
自分から恭司に訴えられることは、これ以上は無さそうだと秀一郎は思った。なので矢倉の御舘や音ノ瀬宗吾らに関する情報だけを伝えると、あとは恭司を説得することなく千秋の家をあとにした。
外はもう寒く、夜空には星が出ている。そろそろ背広も白いカシミアに変える頃かと思う。聖を羨んで始めた白い服装にも、今ではすっかり馴染んでしまった。
報われない恋心にも――――――――。
だから今、一人で秘めた想いの為に戦っているのであろう男に、秀一郎はそっと共鳴した。胸の内、この入り組んだ事態が楓や彼に優しく収束するようにと祈りながら。




