些事
翌朝、私はぐずぐずと寝床の中にいた。
もうそろそろ掛布団を追加しないと涼しい時期になってきた。
目を閉じると蘇る、血の赤がある。
楓が心配そうに私を見ているのが解る。
「ことさん? 朝だよ。どうしたの?」
「少し風邪気味なようです。楓さん。すみませんが、朝食は聖さんに作ってもらってください。聖さんにも、そう言って」
「……はい」
楓が寝室から出て行く。
私は再び目を閉じた。解っている。これは人をコトノハで傷つけた罪悪感の名残りだ。本当に微熱があるのも、精神的なものから来ているのだ。
隼太や恭司は今まで躊躇わず人を殺傷するコトノハを処方してきたのだろう。何も思うところは無かったのだろうか。彼らが男で、私が女だからだろうか。
聖も秀一郎も、昨晩、平然として見えた。
それに比べて私は我が身の無様を思わずにいられなかった。
私はうとうとと、微睡み始めた。
「こと様。入ります」
聖の声で目が覚める。
「楓さんは恭司君が迎えに来て、もう学校に行きましたよ」
「そうですか」
「風邪気味だそうですが、大丈夫ですか?お粥でも作りましょうか」
「いえ、普通の食事で大丈夫です。――――恭司さんはいつも通りでしたか?」
「はい」
強いな、と思う。私の精神が軟弱過ぎるだけだろうか。音ノ瀬の当主がこんな有り様で良いのだろうか。
「聖さん……」
「はい」
「私の手が血に染まっても、……離れずにいてくれますか」
「当然です。こと様の手は血に染まりません。染まったとしても、僕がこと様から離れるなど有り得ません」
聖が静かな中にも決然とした色を含む声で答える。
「こと様。やはり昨日はお越しにならないほうが良かったのではありませんか」
「いいえ。私一人が安穏としている訳には行きません」
少し間が開いた。
釣忍の音が微かに聴こえる。鼻腔を浴衣に沁みついた月桃香の匂いと、聖から香る油の匂いがくすぐる。朝食のおかずに炒め物でもしたのだろう。
「……こと様は人には柔軟なのに、御自分のこととなると一途で頑なに厳しくなられますね。僕はそれが、昔から傷ましかった……」
傷ましい。
秀一郎にも以前、そう言われたが私は別段、自分を悲劇のヒロインのようには思わない。
しかし彼らの目にはどうも、そのように映る向きがあるらしい。
私は寧ろ恵まれている人間だと思うのだが。
両親を不意に亡くしはしたが、楓がいて、聖がいる。秀一郎も俊介も千秋も重音嬢もいる。隼太や恭司との仲も最近では円滑だ。
喰うに困るでもなく、十二分な暮らしをしていると思う。
人をコトノハで傷つけたと、くよくよ落ち込む余裕まで与えられている。
こうして聖に心配され、思い遣られて。
「私は幸せ者ですよ、聖さん」
なのに、そう言うと聖は、困ったように微苦笑するのだ。
どうしてだろう。
楓は恭司と並んで歩きながら、ことを心配していた。
横を赤蜻蛉が飛んで行く。もう秋なのだ。空気の透明度が増している。
「ねえ、恭司君。昨日の夜、ことさんとどこに行ってたの?」
「隠れ山だ」
「何しに?」
「ガキは知らなくて良い」
いつもはここで引き下がるところだが、ことが悄然として見えた様子が、楓をむきにさせた。
「ガキじゃないもん! コトノハだって使えるもん! だってことさん、今朝、元気なかったの。昨日の夜、何かあったんでしょう? 何があったの? どうしてことさんは元気なかったの?」
楓の剣幕にも恭司は動じない。
「音ノ瀬ことが? ふうん、意外と軟な女だな。あの程度でへこむようじゃあ」
「どういう意味?」
「良いとこのお嬢様、って意味だよ。普段強がって見せてもな」
「それじゃ解らないよ……。それに、ことさんを悪く言わないで」
すると恭司が真顔で楓の言を否定した。
「悪く言ってない。恵まれて育ったんなら、そのほうが俺らの何倍も普通の感覚だって言ってるだけだ。音ノ瀬ことは、まともなだけだ」
「…………恭司君は違うの?」
「ああ、まともじゃない」
そう言って笑う恭司を、楓は不思議な思いで見つめた。
恭司との間に時々感じる距離を、今も楓は感じた。
楓を小学校に送り届けたあと、恭司は先程、楓と交わした会話を反芻しながら歩いていた。
(住む世界が違う)
恭司から見れば、楓もことも、明るい世界の住人だった。
彼は隼太や自分と楓たちとの差異を正しく認識していた。
(あいつらは、それで良い)
思って目を細め、街路樹の、紅葉し始めた欅の葉を見る。欅の幹には苔のような浅い緑。
恭司でさえ秋特有の風の匂いに郷愁めいたものを感じる。
だが恭司は、懐かしむ家を持たない。
その、僅かな感傷の空隙を突くように、車のブレーキ音が聴こえた。
咄嗟に振り返ろうとした恭司の首にスタンガンが当てられて、彼の崩れ落ちた身体は、黒光りする車に収容される。車は何事もなかったかのように発進した。
目撃する者の誰もいない、僅かな間の出来事だった。
俊介が久し振りにうちに訪ねてきた。
見事な柿、栗、葡萄の入った袋を小脇に抱えている。
私は浴衣の上に、紺にエメラルドグリーンが混じった羽織を纏って彼と客間で会った。
「風邪をひかれたんですか」
「ええ」
「最近は体温調節が難しい気候ですからね。お大事にしてください」
昨日の一件のことは、俊介には話していない。
彼を無用に巻き込まない為だ。聖もそれを承知していて、私の隣で黙っている。
「はい、ありがとうございます。俊介さんもお気をつけて」
「あはは。俺は、健康が取り柄なんで」
からっと笑い飛ばす俊介の笑顔が眩しい。
彼の手は生涯、流血沙汰とは無縁だろう。私の睫がそっと下を向く。
私は音ノ瀬家当主。
こんな些事で揺らぐようではいけない。




