花の名
音ノ瀬磨理視点の番外編です。
春の夕暮れ時、日下部磨理は水玉のワンピースの裾を翻して、趣味の押し花の材料になる花を野原で探していた。
豪華な花より楚々とした山野草を使うのが好きで、蒲公英や菜の花、白詰草などを見つけては摘んで、山葡萄の蔓で編まれた籠に入れる。
山の麓のその野原は、山野草の宝庫だった。
「……何をしているの?」
突然、男性の声がして、花を摘むのに夢中になっていた磨理は驚いた。
それと言うのも磨理がいたのは曰はくつきの山の麓で、周囲の住民は何となく遠巻きにして近寄らないのが暗黙の了解となっていたのだ。
磨理は自分以外にここに来る人間を知らない。
けれど同時に、妙な噂も聞いた。
あの山には年中、季節を問わず花が咲き乱れる花屋敷という家があり、そこに元・軍人だった男たちが密やかに訪れることがあるのだ、と。
磨理に声を掛けたのは、長身痩躯の男性だった。
白い開襟シャツにグレーのスラックス。
顔立ちは温和に整っている。
磨理は答えた。
「押し花にする花を探しているのよ」
青年は興味深そうな顔でふうん、と相槌を打った。
その日から二人はしばしば、その野原で逢った。
青年は音ノ瀬大海と名乗った。
「うちに来れば、薔薇も百合も、牡丹だって咲いているよ?」
「じゃあ貴方、あの花屋敷に住んでいるの?」
「うん。ねえ、うちに来てみたら? 好きな花を採って良いから」
「大輪は余り好きじゃないの」
そう言うと大海はつまらなさそうな顔になる。
その可愛いとも思える顔を見るのが、磨理は嫌いではなかった。
逢瀬を重ねる内、二人は惹かれ合うようになり、結婚を決めた。
磨理も大海も若く、情熱に突き動かされるようにして共に生きることを望んだ。
大海の母は既に亡く、大海の父・音ノ瀬隼人は息子と違い、切り立った崖のように鋭い風貌の持ち主だった。顔の作りは似ているかもしれないが、見る者に与える印象がまるで異なるのだ。
隼人と引合されると決まった時点で、磨理は初めてコトノハと音ノ瀬一族にまつわる説明を大海から受けた。そんな家だけど来てくれるかい? と大海に問われた磨理は、ええ、と頷いた。コトノハの力をよく理解していなかった為でもあるし、大海といられればどんな家でも良いと思った為でもある。
義父との仲は円滑とは行かなかったが、それでも磨理は花屋敷での生活に馴染んだ。
当初はこんな山中で食糧などの買い物はどうするのかと思ったが、生活に必要な品々の調達は屋敷の使用人が引き受けてくれる。
磨理はただ家事をこなし、時々、出稼ぎから帰る大海を出迎えればそれで良かった。
趣味の押し花も続けていた。
大輪は好まない磨理だが、その花びらを使うと美しい押し花の絵が出来上がる。
その点、花屋敷は恵まれた場所だった。
不自由の無い生活の中で、時折り、磨理の心に翳を落とすものもあった。
例えば、隼人を訪ねて来る元・軍人だったと思しき男たちの存在。
例えば、隼人と大海の言い争い。
言い争いの中では「コトノハ」、「本家」、「戦争」、という単語がよく出てきた。
父と争ったあとの大海は、いつもぐったりと消耗していた。
大海は人と諍いを起こすのに向かない気立てだと磨理は知っている。
繊細な気遣いが出来る男性だ。
それゆえに惹かれた。
だが、その大海の美点が、彼が生きる上で苦悩の種となるのではないか、と磨理は懸念していた。
自分がどれだけ大海の助けになれるだろうか――――。
考え込んでいると、それを察した大海が尋ねてくる。磨理の眉間に寄った皺に人差し指をちょん、と当てて。
「君がマリーなら?」
「……貴方はマルクス」
このコトノハ遊びで、磨理はいつも微苦笑して、そして夫の温厚さに和むのだ。
磨理が妊娠した、と判った時の大海の喜びようは大変なものだった。
笑顔で磨理を抱き上げてくるくると回る。
その報告を受けた時ばかりは、難しい顔つきの多い隼人も、相好を崩した。
良かった、と磨理は思う。
昔から、子は鎹と言う。
生まれてくる子はきっと、隼人と大海の架け橋になってくれる。
磨理は自分と大海、これから生まれてくる子の幸せを信じて疑わなかった。
「ねえ、大海。子供が生まれたら、家族皆で写真を撮りましょうね」
「うん。そうしよう、磨理。たくさん、写真を撮ろう。数え切れないくらいの枚数になるな」
どんな押し花より額に入れたいものが出来た、と磨理は思った。
それはささやかな幸福という名の花だった。




