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Chapter Twelve



 屋敷に帰ったあと、ネルは疲れを理由に自室へ引きこもった。

 部屋の扉まで案内してくれたローナンに礼を言ったあと、ネルは慎重に歩数を数えてベッドまでたどり着くと、そのまま緊張した身体をシーツの上に投げ出した。

(ああ……どうしよう……)

 目の辺りがチクチクした。

 気が付くとネルの頬には涙が流れていて、いくら指先でぬぐっても、次から次へと溢れてくる。

 ネルの心はぎゅっと締められたように痛み、息苦しくなった。


 喜んでもよかったはずだ──もし相手が、ローナンでなければ。

 もし自分が盲目でなければ。

 もし……。


 この四年間で、『もし』と、変えられない過去を振り返るのがどれだけ空しいことか、身をもってよく学んだはずだ。

 しかし今、ローナンの告白を前にして、ネルはこの無意味な後悔を止めることができなかった。そして、たった十日間という短い時間で、どれだけ彼のことを好きになりはじめていたのかを、身にしみて痛いほど実感した。





 ローナンが一階へのろのろと降りていくと、居間の暖炉の前に、ピートと、当て木をしたままの足を足置きに乗せたジョージがトランプをしながら歓談しているのが見えた。

 老人二人の姿にほっこりと緊張がほぐれるのを感じて、ローナンは微笑んだ。


 しかし、

「この畜生めが……」

 ピートは、不穏なだみ声を漏らしながらゲームの相手に冷たい視線を送っている。


「あーあ、執事さんよぉ、負け惜しみは良くないなぁ! 言ったじゃねえか、今出したら後悔するってさあ。人の忠告は聞くもんだよ」

 そう言ってガハハと笑ったジョージは、胸を反らした勢いで足を動かしてしまったらしく、「いてててて」と背を丸めて悪態をついた。

 その隙に、ピートが首をくゆらせるようにしてジョージのトランプを覗き見ようとしていた。

「おい! この卑怯もんが!」

 ジョージは急いで手元のトランプを隠そうとしたが、ピートの顔はすでににんまりと不敵に笑っている。

「うるさい、勝負とは非情なものだ。一瞬の隙が勝敗を分けるのだ」

「この老骨が……汚い手を使いやがってぇ……」

 怒りがほとばしるような低い声でうなったジョージは、ぶるぶるとトランプを持つ手を震わせたと思うと、いきなりバッとすべてのカードをピートの顔に向けて投げつけた。

 ピートが額に青筋を立て、椅子から勢いよく立ち上がる。

 とても彼のような年齢の老人の動きとは思えなかった。しかし、ジョージも負けておらず、足置きに立てかけてあった杖を手に取ると、それをピートに向けて構えた。

「「勝負だ!」」

 二人の男たちは同時に叫んだ。


 ローナンは最初、このままこの興味深い見せ物を楽しませてもらうべきか、老体をはばかって二人を止めに入るべきか、決めかねていた。

 しかしもしもの時のことを考えると、6ヶ月の赤ん坊と足を折った老従者と盲目を抱えたこの屋敷に、これ以上やっかいごとを増やすべきではないように思えた。

 ローナンは素早く行動に出て、二人の間に押し入ると、ジョージが構えた杖の先を片手で掴み、身を乗り出しているピートの胸を別の手でやんわりと押し返しながら、にこやかに告げた。

「老境に入ると、人は童心に帰るというのは本当らしいね」

 年輪を刻んだ二組の瞳が、ローナンをぎらりと睨み返している。「トランプの勝敗にそこまで熱くなれるのはご健在な証拠だけど、そんな理由で怪我人を増やされても困るんだよ」


 ジョージはぶつぶつと文句をこぼしながらも、比較的素直に杖を下ろした。

「すまねぇ、ローナンの旦那。しかしこの執事さんはよ、いちいち頭に来ることばっかり言いやがって……」

「それはよく分かるよ」

 ローナンがにこやかに同情すると、ジョージはまんざらでもないという顔をしたが、正面に立ったピートはまだ不機嫌な顔つきのままだ。

「わしの言葉がお前さんの小さな頭に来るのは、それが真実だからだろう。ふん」

「ピート」

 ローナンは老執事を厳しい視線で牽制し、床に膝を折るとバラバラに散らばったトランプを拾いはじめた。ジョージは恐れ多いと言わんばかりに恐縮し、すまねぇとまた何度か繰り返し呟いてから、手の届く範囲にあるカードを拾ってローナンに渡した。

 すっかり大人しくなったジョージを見下ろしたピートは、得意のせせら笑いを浮かべながら忠告する。

「お前さんはローナンをまるで国王かなにかのように思っとるらしいが、こいつは次男坊で、領地も爵位もないぞ。あの調子ならエドモンドもすぐに世継ぎを作るだろうしな」

 わざとローナンをおとしめるような老執事の言葉に、ジョージは厳しく、反抗的な視線を返した。

「あんたは本当に汚ねぇ性根の持ち主だな。サタンの息子かなにかだろう」

「ふん、こいつに媚を売っているのはお前だろうが」

「媚!」

 ついに堪忍しかねるといった勢いで、ジョージは声を上げた。「俺は旦那を尊敬してるだけだ! 言いがかりはよしてもらおうか!」

「はいはいはい、二人とも」

 ふたたび老人二人の間に立ったローナンは、両手を広げる格好をして仲介に入った。

 ジョージはまたローナンに従ったが、悔しげに歯ぎしりする音が聞こえてくるようだった。

 まるで水と油のような二人だが、ここ数日はいつも、顔を突き合わせてはトランプをしたりチェスをしたりして、その度に激しい喧嘩をして二度と相手の顔を見たくないと豪語した挙げ句、数時間後にはまた何事もなかったように同じテーブルでトランプを切っている……ということを繰り返している。

 マギーなどは、「まるで喧嘩ばっかりしてる老夫婦みたいだね」と、言っていた。

「喧嘩するほど仲がいいって、よく言うよね」

 ローナンが得意げに微笑んでそう指摘すると、ピートもジョージも示し合わせたように同時に身震いしてみせた。

「ありえん!」

「ありえねぇ!」

 ローナンはまた、はいはいと呟いてため息を吐くと、綺麗に整えたトランプをお茶用の机の上に積み上げた。

「悪いけど、ちょっとジョージ殿を借りていくよ、ピート。少し聞きたいことがあるんだ。いいかな、ジョージ殿?」

「もちろんですよ、旦那」

 ジョージは二つ返事でローナンの申し出を快諾した。

 そのときローナンは、ピートの年老いた鋭い眼差しが、ほんの少しだけ残念そうに陰ったのを見た気がした。なんだかんだ言っても、ピートは、そして他の全てのバレット家の人間は、ネルとジョージの存在に楽しみを見いだしている。

 その事実はいくぶんかローナンに勇気を与えていた。




「それで、俺に聞きたいことっていうのは、なんですかねぇ」

 あてがわれた二階の客室に入ったジョージは、扉を閉めるとローナンを振り返り、さっそく話を切り出した。

 少しずつ強くなりはじめた北風が、窓を軽く揺らし、灰色に陰ってきた空は部屋を薄暗くしか照らしていなかった。ジョージはもう慣れたような器用な動作で、杖を使って折れた足をかばいながら、ゆっくりベッドに腰掛けた。

 ローナンは、今は火のついていない暖炉のマントルピースに背を預けて、両手を胸の前で組んだ。

「まずは、礼を言わせてもらいたい」

「と、言いますと?」

「君がアドバイスしてくれた通り、ネルはスケートを楽しんでくれたよ。僕たちは本当に楽しい時間を過ごすことができた。ありがとう」

 ジョージは皺の刻まれた人好きのする顔を嬉しそうに崩した。

「礼を言うのは俺の方ですよ。ネリーお嬢さんは昔からスケートが好きだった。その事実を知っている男は何人もいたんですよ。でも、視力を失ったお嬢さんを誘ってくださったのは旦那だけだ。これは旦那の手柄です」

「そうかな」

 納得していいのか反論していいのか、すこし判断しかねながらも、ローナンはとりあえずうなづいてみせた。

「そうですとも」

 老従者は感慨深そうに微笑みながら答えた。


 ジョージもローナンも喋ることは得意だったが、しばらくの間、二人は次の言葉を見つけられずに無言でいた。

 かたかたと窓枠が鳴り、外に立つ冬枯れの木の枝が寒さに震えるように揺れている。

 ローナンは決心したように息を吸い込み、ゆっくり吐き出すと、まっすぐジョージを見据えながら告げた。

「ネルにプロポーズしたよ。まぁ、はっきり結婚の二文字を言ったわけじゃないけど、彼女ならその意味するところが分かったはずだ」

 ジョージはひくりと眉を動かして反応した。

 続きを待っているようだ。

 ローナンは続けた。

「……嫌がられたようには思えない。でも、かんばしい反応ももらえなかった。実を言うとすこし……泣きそうな顔をされた気がする」

 今度は、ローナンがジョージの言葉を待って、黙る番だった。

 老従者はしばらく考えるように顎の髭を片手でさすり、うむ、とか、うーん、と低い声でうなりながら、どこまで言うべきか考えているらしかった。


「ネリーお嬢さんについて、いくつか知っておいて欲しいことがあるんですがね」

 まだ考えがまとまる前から喋りだすクセがこの従者にはあるようで、また、うーんという思案の声を漏らしながら、とつとつと語りだした。

 ローナンは神経を研ぎすまして、静かにその説明を聞いた。


「お嬢さんはあの可愛らしい顔をお持ちですし、社交界に顔を出し始めた頃から、いつも数人の求婚者がいらっしゃいました。なかでも一人、真剣な紳士がいらっしゃいましてね、他の連中はお嬢さんが落馬の事故で失明なされたあと、散っていきましたが、この方だけはそれでもいいとネリーお嬢さんを見舞ってくれていました」


 ジョージの話を要約すると、こうだった。

 ネル自身は、その紳士に恋をしていたわけではなさそうだったが、特に毛嫌いしているというわけでもなく、親しい友人として交流を深めていた。

 多分、ネルは、恋ではなくとも、彼の存在と愛情に、安心を見いだしていたのだろう。

 そして、ネルの両親がほぼ同時に流行病で亡くなったあと、身寄りのなくなったネルに残された選択肢は、あまりに少なかった。

「従兄であるロチェスター卿に引き取られるか。誰かと結婚するか。それしかなかったんですよ」

 と言うと、ジョージは苦々しげに付け加えた。「ロチェスターの旦那は、昔っからネリーお嬢さんに横恋慕してらしてね、ずっとお嬢さんが相手にしないもんだから、ひねくれてました。それで、ここぞとばかりにネリーお嬢さんを引き取りたがったんです」


 もちろん、ネルは例の紳士と結婚する道を選んだ。

 いや、選ぼうとした。


「けど、直前になって、この紳士が尻込みしたんです。正確には、紳士の母親が猛反対しやがって……いや、されたんですよ。目が見えないんじゃ、どうやって子供を育てるんだ、どうやって客を家に迎えるんだ、なんだと、そりゃあ厳しい言葉でネリーお嬢さんを糾弾しましてね。お嬢さんと面と向かってですよ。お嬢さんはそりゃあ傷つきました。いままで、先代夫婦はネリーお嬢さんを大事に大事にしてましたし」


 そして、その後もしばらく紳士とネルは話し合ったが、結局、ネルの方が結婚を断ったという。

 体面上、その「紳士」とやらが、ネルの将来を慮ってそういう形にしたのかもしれないし、本当にそうだったのかもしれない。

 それはジョージにも分からない、と言う。


「ジェームスの坊ちゃんは、いい人で、家もそれなり裕福でしたが、気が弱くてね。おっと、失礼、舌が滑りました」


 ジェームス。

 ローナンはこの先、ジェームスと名の付いた男を前にしたとき、それが誰であろうと、その首を絞めずにはいられなくなるだろう。

「続けて」

 と、ローナンは先をうながした。


「そう怖い顔をしないでくだせえよ、旦那。大変なのはこの先なんですから」

 ジョージに言われて、ローナンは自分が眉間に深い皺を寄せているのに気が付いた。

 昔、義姉に言い寄る男たちを睨みながら渋面を浮かべていた兄の顔を思い出して、ローナンは自嘲した。きっと同じような顔をしていたのだろう。

 つまり、かなり恐ろしい図だということだ。


 ジョージはひとつ、咳払いをして、話を続けた。


「ネリーお嬢さんの婚約が破れたと知って、ロチェスターの旦那はいい気になったようです。お前なんかなんの役にも立たない、誰も欲しがらない女だと言って、お嬢さんを引き取り、そのまま愛人にすると豪語したのですよ。一応、表向きは結婚するつもりらしいですがね」


 ローナンは自分の耳を疑い、言葉を失った。

 なんだって……?


「でも、ネリーお嬢さんになにが出来るっていうんです? もう身寄りはないし、本当に求婚者もいません。修道院にでも入る以外、道はないんですから」



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