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異界剣勇伝‐鋼‐  作者: 天笠恭介
第一章
3/10

2.見知らぬ場所にて




 森の中の獣道を、その人物は走っていた。ぼろぼろの外套に身を包み、フードを被っているためその顔はうかがい知れないが、それはまるで何かから逃げているような必死さを伺わせる。

 いや、実際に逃げていたのだ。

 その証拠に、走る人物の背後から複数名の停止を要求する怒声が響いて来る。

 逃げつつもちらりと振り返った先には、簡素な皮鎧を見に付け赤黒い錆の浮いた剣を持った男が三人ばかり走っているのが見えただろう。

 追いかけられている当人には分かり難いが、徐々に彼らは外套の人物に追いついてきていた。


 外套の人物は小柄というほどでもないのだが、身長では明らかに追いかける三人の男の方が上回っており、そこで生じる歩幅の差が明確な速度の違いを生み出してしまっていた。

 何度もちらりちらりと振り返る事で、外套の人物もその事実に気がついたのだろう。振り返る事を止めたその人物は、今度はしきりに周囲を見回し始めた。その行為がどこか隠れる場所や逃げやすい場所はないだろうかと必死に探しているのだという事は、誰が見ても明らかだった。


 そうしてしばらく逃げ続けた時、外套の人物は突然今まで走っていた獣道を外れ、最早道ではないただの森を突き進んでいく。

 その目指す先に、ぽっかりと口を開いた洞窟が存在した。小高い丘の内部に続いているであろうその洞窟は、見る限り地下に向かって傾斜しているようだった。

 意外と深いのかもしれない。

 だが、外套の人物はそんな事はお構い無しに洞窟に飛び込み、その闇の中へ消えて行った。


 わずかに遅れて洞窟の前に到着した三人の男は、互いに顔を見合わせて中に入るか否かを決めかねていたが、突然その背後からやってきた鉄鎧を着込んだ何者かに指示され、しぶしぶながらも洞窟へと踏み入っていく。

 それを見届けた鉄鎧の人物は、近場の木に寄りかかり、じっと洞窟の入り口を見張り始めた。



    ◆



 そこはどこか見知らぬ場所だった。近くには澄み渡った泉があり、そのほとりには実に色とりどりの花が咲いている。

 浅黒い肌のとても幼い少年はその花畑の中を駆け回り、花のクッションに飛び込んだりしてケラケラととても楽しそうだった。


 不意に彼は笑うのを止めると、寝そべっていた身体をがばりと起こし、きょろきょろと周囲を見回す。すると、少し離れたところに日傘を差した女性がいる事に気が付いた。彼は彼女を見つけるや否や一目散にそちらへ走っていき、そのまま飛びついた。

 女性は飛びついてきた少年をやさしく受け止め、白魚のようにたおやかな手で少年の頭を撫でる。

 嬉しそうにはにかむ少年は女性の顔を見上げ――


    ◇


「う……」


 ピチョンという雫の跳ねる音を聞いた気がして、柊吾は目を開いた。昔の夢を見ていた気がするが、どうにも頭がぼんやりしていた。寝起きのように視界が滲んで上手く見えないが、柊吾は何とか周囲の状況を探ろうとする。


 ――何処だ……?


 霞んで見える景色は、一言で表すならば『青』であった。

 見渡す限りに『青』一色である。ただし、それは原色のようにきついものではなく、例えるならば淡くライトアップされたような目に優しい青色であった。


 ――水晶、か?


 青一色に霞んでいた視界が徐々に鮮明になってくると、柊吾は光を発する青色が無数の透き通った鉱石のようなものであるという事に気が付いた。それは今現在視界に捉えられる範囲全体に及んでおり、ときおり強くなったり弱くなったりと、まるで鼓動しているかのような印象を受ける。

 試しに近くにあるものを手に取ってみようとして、柊吾は強烈な違和感に襲われた。


「…………え?」


 思わず口から声が漏れる。何故なら、前に腕を伸ばした感覚はあるのに、視界の中に自分の腕が見えてこなかったためだ。

 当然、その手に青い水晶を取る事も出来ていない。


 ――も、もう一回……


 やや焦りながら、柊吾は再度、今度はより明確に自分の身体を意識して手を伸ばす。だが――


 ――動いて……ない?


 やはり身体を動かした感覚はあっても、実際に動いた形跡が現れない。

 言いようのない不安が一気に襲い掛かり、心臓が早鐘を打つ。呼吸が乱れ、柊吾は思わず自分自身を抱き締めた。


 確かに動かしているはずなのだ。腕を掴んだ手にも感覚もある。

 だが現実に何かが起こっている様子がない。なにしろ柊吾は今、感覚の上では俯いているはずなのだ。だというのに彼の視界は変化しない。一切のブレが生じていない。唯一目を閉じれば視界が暗転して何も見えなくなるが、それ以外ではその場に固定されたまま微塵の動きも見られなかった。


 ――なんだこれなんだこれなんだこれなんだこれ――


 柊吾の胸の内に恐怖と不安が爆発的に増大して行き、


「何なんだよこれはああっ!」


 とうとう大きな声で叫んび出す。そうしなければ何かに押し潰されそうな気がしたためだ。

 そして、何度か支離滅裂な言葉を叫び続けて、突然新たな違和感を覚えた柊吾は一転して口を噤んだ。

 辺りは静けさを取り戻し、ただどこかで()()()()()()()()()()()()()になった。


「おいおいおいおい……何だよこれ。僕の声まで出てないっていうのか……?」


 柊吾はわざとそう声に出し、その結果確信する。水の跳ねる音ですら反響する場所にあって、先ほどから自分の発しているはずの言葉には一切それが起こっていないという事に。

 つまるところ、今の柊吾の主観的にはどうであれ、実際には動く事もしゃべる事も出来ない状態にあるという事だ。

 幸いな事はどこかしらに痛みがあるわけでもなく、すでに意識は完全に覚醒しているという点だが、それは同時に不幸でもあった。

 どことも知れぬ場所で、理由不明のまま全ての自由が奪われている状態なのである。それがどれほど心に負荷を与えるかは明らかだ。


 自分の置かれている状態を完全に認識した瞬間、柊吾は猛烈な吐き気を覚え、次の瞬間には胃の中身をぶちまけた。


「おぅ……え……あ……」


 胃の内容物が食道を逆流して口から吐き出す感覚。だが口の中、吐き出される前のドロリとしたものが舌の上を滑る感触がない。そしてやはりというべきか、何かが吐き出されたという形跡も現れなかった。

 柊吾は思わず口元に手を持っていくが、何かが吐き出される感覚は継続してあるというのにその手には自分自身の体の感触しか伝わらない。液体も固体も、はては呼吸さえも感じる事が出来ない有様だ。

 それはさながら自分という物質以外に何もない世界にでもいるようだった。触れる事の出来るものは、ただ自分のみ。


「ぐっ……」


 衝動的に柊吾は自分の指に噛み付いた。ぷつりと皮膚が裂け、白い歯が肉に突き刺さる。

 当然のごとく激痛が走るが、今の柊吾にとってはむしろ安堵を与える痛みだった。それは確かに自分が存在する事を証明するものなのだから。

 だがそれも痛みを感じるだけで傷を付けた事によって生じるはずの出血は感じられない。またどれだけ強く噛み付いても、骨に当たったわけでもないというのに指を噛み千切る事はなかった。


「ふー……ふー……はあ……」

 しばらく己の指に噛み付き続け、転げ回りたいような痛みによってようやく落ち着きを取り戻した柊吾は、顎の力を抜いてその行為を止めた。指から歯を抜き去り、傷口を舌でなめようとして、


「……ちぇっ。ほんと何なんだよ……まったく」


 まるで最初から存在などしていなかったかのように傷が消滅している事に気が付いた。同時に、それまで感じていた痛みまでも瞬時に引いてしまっている。

 感覚の上では頭を振るも柊吾の視界には相変わらず変化はなく、また変化を起こす事も叶わない。

 どうにか自分の状況を知ろうにも近くに姿見などあろうはずもなく、自分自身がどうなっているのかを確認する事は出来ない状態だった。


 ――さーてどうしたもんだろうかな。


 完全に頭の冷えた柊吾は、再度視界の及ぶ範囲で何か分かるものはないかと観察し始めた。まるでテレビ画面に映る映像を眺めているように視界が固定されているが、それでも隅から隅まで舐める様に確認していく。

 だが、最初に見た通りそこら一面に青色水晶が落ちているのか生えているのかしているだけで、後は石だか土だかの壁や地面以外に何も見つける事が出来なかった。

 一通り観察して、柊吾はどうやら自分は洞窟かどこかにでもいるらしいという当たりだけは付ける事が出来た。


 また、よくよく見てみれば自分からほんの少しの範囲までちょうど日の光が細く薄く差し込んでいるらしく、確認出来る色合いに明確な差が生じている。おそらく天井が一部崩れているのか何かしているのだろう。もしかしたら洞窟というよりは洞穴か何かなのかもしれない。


 ――ってもそれ以外に収穫なし、か。


 柊吾は思わず大きなため息を吐き出してしまう。自分の状況もさる事ながら、この場所がどこなのかもまったく分からない状態だ。

 少なくとも廃ビルの一室ではない事は確かだが、さりとて目的地であった異世界なのかと言えば、それを確定させる事の出来る材料もない。

 有体に言って、手詰まりというやつだった。

 唯一の救いといえば、先ほど胃の中身を外に出してしまったはずなのにもかかわらず、その後まるで空腹も喉の渇きも覚えないという点だろうか。漠然と、柊吾は今の自分では疲労も眠気も感じないのではないだろうかとも感じていた。

 それはまるで、自分が生き物ではなく機械か何かにでもなったような気分である。


 しばらくの間、柊吾はそんな事をぼんやりと考えながらぼけーっとただ時間が流れていくままに過ごしていたのだが、


「……お?」


 不意に何か物音を聞いたような気がして、柊吾は全神経を耳に集中させた。

 すると、落ちる雫の音が周囲に響くのに混じって確かな人の声を捉える。それはまるで悲鳴のような叫び声で、物凄い勢いで近付いて来ているのか刻一刻と大きく明確なものへと変化して行き、


「――アアアアッ!!」


 そんな悲鳴が柊吾のいる空間に響き渡ったかと思うと、突然視界に映っていた正面の壁が反対側から爆破されたかのように崩壊した直後に何かが転がり込んできたのが見えた。

 壁に大穴を空けて突如進入してきたそれは、勢いのままに道中の青色水晶を蹴散らしながら転がり続け、ちょうど柊吾の目前に至ってようやく動きを止める。


「……………………は?」


 あまりの出来事に呆然となる柊吾だが、すぐそこに転がるものがぼろぼろの外套をまとった人間らしき生物である事に気が付き、


「お、おい! 大丈夫か!?」


 意味がないと分かっていながら思わず声をかけていた。だが当然音にならない柊吾の声が届く事はなく、


「………………」


 以前闖入者は地面に転がったままである。

 すわ死んでしまったかと焦った柊吾だが、よく見てみれば地面の水晶郡を蹴散らした割には目立った外傷も出血も見られない。あまつ、元々ぼろぼろだったにせよ外套にも真新しい穴などが開いている形跡は見られなかった。


 ――よっぽど丈夫なのか、あるいは水晶の方に何かあるのか……?


 砕かれて飛び散った青色水晶は、細かな破片となってもなお淡い光を発し続けている。状況が状況でなければ非常に幻想的な光景と言えた。


「……ウ」


 ふと、誰かのうめき声が聞こえたかと思うと、地面に伸びていた何者かが小さく身じろぎをしていた。どうやら気を失っていただけらしいと分かって、柊吾は安堵のため息を吐く。

 ぼろをまとう何者かは頭を振りながら身体を起こし、その過程で頭に被っていたフードが外れ、柊吾は相手の素顔を見る事が出来た。


 まず最初に目を引いたのは、煌く銀糸のような髪の毛だ。短く整えられているが、ちょうどもみあげに当たりそうな部分だけ肩にかかる以上に伸ばされた房があり、さらさらと流れる美しい髪の毛はそれそのものが高級な飾りに勝る輝きを持っている。

 そして整った顔立ちの中で抜群に印象的な、紫水晶のような瞳。釣り目気味なそれは、一種の高貴ささえ伺わせる天性の魅力を存分に発揮していた。


 年の頃は柊吾よりもやや下であろうか。身長はおそらくそこまで高くはない。柊吾はぺたりと座り込んだままややぼーっとしている銀髪紫瞳の人物を見て、おおよそ百六十の半ばくらいだろうと目算した。

 外套の下にはずいぶんとくたびれた布製と思われるボタンつきの上着と、これも同じ材質の長ズボンらしきものを身に着けている。一見してやたらと軽装だが、唯一足に履いているのだけはずいぶんとごつい皮製のブーツであった。


 その人物――おそらくは彼を端的に見てそれらしい分類をするのであれば、旅人であろうか。ただ、それにしては荷物らしいものを何も持っていないな、と言うのが柊吾の最終的な感想である。


「……ア」


 しばらくぼーっとしていた旅人だったが、突然その焦点を柊吾に合わせたかと思うと地を這う蛇の如き俊敏な勢いで彼に向かって這いよって来た。


「うわっ!?」


 驚いた柊吾は思わず逃げようとするが、やはりその身は一歩も動かず、次の瞬間には視界の全てを相手の掌で覆われていた。


「ちょ、ま、離してくれ!」

 視界を塞がれた柊吾はぎゃーぎゃーと非難の声を上げるが、それが聞こえない相手は容赦なく柊吾の頭を右へ左へと振り回し始める。


「やーめーろー」


 がくがくと頭を振られる感覚に、柊吾は軽い脳震盪のような状態になりかけていた。

 しかしそれでも謎の旅人は彼への仕打ちを止めず、


「あれ? 抜けないな……」


 変声期を迎えていないのか、今だ少年を思わせる高目の声でそんな感想を漏らしていた。


「や、べ、し……死ぬ……。目回って死ぬ……けど――」


 しつこく振り回されたせいですっかり目が回ってしまった柊吾だったが、そのあまりの理不尽さに胸の内にはふつふつとした怒りが涌き始めていた。そして――


「いい加減に――しろっ!!」

「わっ!」


 怒りを爆発させて力の限り叫んだ瞬間、謎の旅人が悲鳴を上げ、その途端に柊吾の視界を覆っていた暗闇が消え去った。

 戻ってきた視界に映るのは、最初の頃より左に傾いだ光景と、尻餅をついて目をぱちくりとさせている旅人である。その視線は柊吾に向けられており、なにやら非常に驚いているようだった。


「……え?」


 その状況が理解出来ず、柊吾は思わず声を漏らした――途端。


「っ!」


 すばやく立ち上がった旅人がバックステップで柊吾との距離をとったかと思うと、さっと右手を後ろに回し、隠し持っていたと見られるナイフを取り出して半身に構えて来た。

 自分の身体をナイフの後ろに隠したその構えは、とても素人のものとは思えない。刃物の扱いを心得ている柊吾をして、その身にまとった空気は実践を知っている者特有の鋭さが感じられた。


「くっ。まさかこのような場所に魔剣が封じられていようとは。少々焦っていたとはいえ、軽率過ぎたか」


 ナイフを構えた旅人は苦虫を噛み潰したような表情でそんな事を口走っている。

 何かを理解しているような言い方だったが、柊吾にしてみれば余計に意味不明な状況に発展している状態だ。何せ突然視界を塞がれて振り回されたと思ったら、今度はナイフを構えられているのである。脈絡がないにもほどがあった。


「え? 何? 何で?」


 何をどうして良いか分からず、柊吾は混乱のままにそんな言葉を発する。すると、


「……混乱している? 目覚めたばかりだからか?」


 柊吾の言葉に答えるような形で、再び旅人が言葉を発した。先ほど彼によって空けられた穴のせいかあまり音の反響がなくなっているが、旅人の呟きは確かに柊吾の耳に届く。

 それに驚いた柊吾は、


「な、なあ。僕の声、聞こえるのか?」


 声を上擦らせながら旅人に問いかけ、


「くっ」


 問われた旅人は表情と身を硬くして強くナイフの柄を握り込む。それは明らかに柊吾の言葉に反応している証左だ。

 未だ周囲にまったく反響を起こさない自分の声が何故相手に聞こえるのかは分からないが、柊吾はこれを千載一遇の機会だと見込んだ。


「お、落ち着いてくれ。何もしないよ。僕はただ知りたいだけなんだ。ここはどこで、僕は今どうなってしまっているのかを」


 出来得る限り簡潔に、状況を把握するための問いかけを行う。

 そうする理由は、今最も重要な事が相手の興味を引く事であるためだ。やけに警戒されているのが不安だが、とにもかくにも会話を成立させなければ柊吾の現状打破は不可能である。どこぞの物語よろしくのんきに自己紹介などしている場合ではない。


「何もしない、だって? ふん。そうだろうともさ。メルが言っていたぞ。お前たちは触れた相手の精神を乗っ取る事で災禍を撒き散らす存在だとな」


 柊吾の狙い通りに旅人はその場から逃げ去ることをせず、とりあえずは話に応じて来た。しかしその表情はより硬く、寸分の隙さえ見せないほどに集中した構えになってしまっている。


「自立行動が出来る個体もいると聞いていたが、どうやらお前は完全な受動型のようだな。つまり、最初の接触で私を取り込めなかったお前にはもう自分から為す術など無いのだろう?」


 油断の無い構えを維持しつつ、今度は旅人の方からの質問が来た。会話を続けるためには答えを返さなければならないのだが、柊吾は今の言葉にひどい違和感を覚えた。


「ちょっと待ってくれ。さっきから何を言っているんだ。見たところ、君は人間なんだろ? そりゃ、もしかしたら僕みたいな黒髪黒瞳はこっちじゃ珍しいのかもしれないけど、僕だって同じ人間だ。本当に何もしないから、話を聞いてくれ」


 そのため、柊吾はその違和感を言葉にして相手に伝えようとした。それは先の違和感と同時に漠然とした形で生じた嫌な考えを否定しようという気持ちもある。

 だが、そんな彼の言葉に込められた願いは実にあっさりと打ち砕かれる事になった。


「……人間? お前が、人間だと……?」


 柊吾の言葉によほど驚いたのか、旅人がやや構えを崩してしまうほどに訝しんだ表情を作る。そして――


「何を馬鹿な事を言っている。お前のどこが人間だと言うんだ」


 謎の旅人は、柊吾が最も言って欲しくない言葉を口にした。



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