1.異世界渡り
「おいすー柊吾」
背後から名前を呼ばれ、竹刀袋を片手に持つ柊吾は面倒臭そうに首だけで振り向いた。
そこにいるのは見慣れた顔。幼馴染にして腐れ縁の悪友――大崎煉(おおさきれん)が、今まさに頭上に広がる青空ような無駄に晴れ晴れとした顔で立っている。
ローテンションが大勢な朝の登校風景において、柊吾は彼以上にハイテンションな存在を他に知らない。
背の丈は柊吾よりもやや高く、肩幅の広さと制服では隠し切れない体の厚みと相まって、どこぞのプロレスラーか何かのようだった。ただ立っているだけでやたらと目立っている。
加えて、恐ろしくも地毛だという真っ赤な髪を坊主に刈り上げており、その緋色の瞳と組み合わせて一部からは赤い邪神とも呼ばれている人物だ。
「なんだなんだ。すっげ眠そうじゃね? 昨日の夜から今日の朝にかけて休み前に俺が貸してやった秘蔵のコレクションをオカズに、ライトハンドでホワイトリキッドを生産する非生産的なソロ活動でもしてたのか? あ、お前両利きだからダブルハンドか」
それともマルチハンドかと朝から周囲をはばからずハイテンションな下ネタを披露しまくる馬鹿に小さくため息を吐きつつ、
「んなわけあるか。煉、僕はお前じゃない」
柊吾は肩をすくめた。
すると煉は人差し指を立てて左右に振り、リズムよく三回舌打ちをした。
「いやいや俺って左利きだから。サウスポー、オーケー? つまりライトでもダブルでもマルチでもなくレフトハンドな。アンダスタン?」
「論点はそこじゃない」
言うや否や、柊吾は素早く煉の横をすり抜けるように移動し、すれ違い様に持っていた竹刀袋で相手の後頭部を容赦なく振り抜いた。
ポコンという中身が空洞になっているものを叩いたような音がして、糸の切れた人形の様に煉の体が崩れ落ち――るかに思えたのだが、
「おいおいマイデビルフレンド。覆われてるとはいえメタリックな物で人間の頭振り抜くなよ。俺じゃなければ死んでるかもだぜ?」
その途中でぐっと体勢を立て直し、すぐさま何事もなかったかのように煉が立ち上がる。彼の左の耳元で二つつけられた緋色のクリスタルピアスがかち合い、澄んだ音を立てた。
「おい、休みの間に何があったんだ人外」
柊吾はその回復振りに目を丸くし、次に訝しんだ表情で大柄な友人を見る。
「前は少なくとも五秒は伸びてたじゃないか」
さらに付け加えるのなら、柊吾は間違いなく急所を狙った。いくら頑丈であっても、一瞬で回復出来ようはずがない。
「ふふん。甘いぜマイダーティフレンド。俺ってやつぁよ、一分一秒ごとに進化してんのさ。男子三日会わざれば即ち括目して見よって言うが、三日といわずサーティーデイズも会ってねーんだぜ? そりゃ、括目して括目して括目して括目して括目して括目して括目して括目して括目して括目してくれってんだ」
煉がでんと胸を張る。普通にしてても威圧感のある彼がそういう格好をすると変に怖い。
柊吾はすでに慣れたものだったが、傍から見れば不良学生に絡まれているように見えるだろう。そこかしこで通りすがりの人々からヒソヒソ話も聞こえてくる。特に同じ制服を着た学生諸君の反応は顕著だった。
――まあ、理由はそれだけでもないだろうがな。
柊吾は自分と煉がいろんな意味で有名である事を自覚している。だから今更気にはしない。
「ってか、括目って意味なら柊吾もそうじゃね? この休み期間で重要な事やってきたんだろ? 去年からの集大成だっけな。よくもまあ一年ちょっとでねぇ。ま、結果は言ってもらわなくても分かってんだけどさ。見りゃあ分かるぜ」
すっと細められた煉の瞳。柊吾は、さながら肉食獣が獲物を見定める時のような威圧感を覚えた。
「……ついに会得しちまったんだろ? 戦国の世に生み出され、太平の世にあっても生き残ってた古の技をさ」
全てを見透かすようなその眼に、柊吾は不覚ながらも若干の恐怖を覚えた。
だが彼はそれを振り払うようにしてにやりとした獣の笑みを浮かべて見据え返す。
「まったく。特に言ってたわけじゃないってのに、相変わらず鋭いよね。ああ、そうだよ。僕は――」
「その名もヤギュウシンカゲスタイル! だろ? くー、かっちょいーねぇ。あれか、もうラストスキルも会得してんのか? なあなあちょっくら見せてくれよぅ」
一転、柊吾の言葉をガン無視した煉がテンションのギアを廃トップに切り替えた。ケチケチすんなよ減るもんじゃねーだろーカモーンと両手を広げてクイクイとアピールまでしてきている。
そんな悪友の姿を見て、柊吾は全ての感情が死んだような表情になった。ゆっくりと目を閉じ、そのまま一度天を仰ぐ。
数秒の後、未だ騒ぎ続ける煉に柊吾は盛大な溜息を吐くと同時に、
「……鋼一閃流――打の型」
かっと目を開いた。
どこまでも冷静に、鏡のように澄み渡った心で、柊吾は手にした竹刀袋を右脇に構えた。
――彼我の距離はわずか二歩。踏込による威力上昇は見込めない。
ならばと柊吾はきりきりと体をひねり始める。ギリギリまで伸ばされたゴムのように、その身にため込んだ力を――
「――はぁっ!」
一気に解放。放たれた一撃は風切り音をまとったまま煉の左脇腹に食い込み、
「げふぅ!」
野球ボールか何かのようにその巨体を打ち飛ばす。
突然の出来事に周囲にいた者全てが空を見上げてあんぐりと口を開けて固まる中、たっぷり数秒の滞空を経て煉の体は十数メートル先のゴミの山に頭から突き刺さった。
それは光景はまるで、どこかの映画のワンシーンのようだった。
「……成敗」
血糊を払うかのごとく、柊吾が竹刀袋を鋭く振る。なんとなくのクセのようなものだった。
「………………」
やや気分を落ち着けてから柊吾が周囲を見渡してみると、それまでちらりちらりと見物していた者たちが皆一様にして視線を逸らし、そそくさと足早に立ち去っていく。関わり合いになるべきではないと判断されたようだった。
同じ制服を着る者たちに至っては脱兎の如く逃げて行く。結果、道から人の気配が消え失せた。
「はっはは、やっぱ避けられてんだなマイフレンド」
背後からかけられた声に、柊吾はそれまでの人生で最も大きな溜息を吐き出した。嫌々振り返ると、全身ゴミ塗れになった煉がけろっとした表情で立っている。生ゴミも混じっているせいか酷く臭った。
「いや、しかし結構な技だな。手を抜いてくれたとはいえ、さすがに徹夜の身には響いた」
左脇腹を軽くさすりながら、煉はポリポリと頬をかく。
言葉の割にはまるで堪えていないその様を見て、柊吾はもはや呆れ返るより他にない。
「それでも常人だったら大怪我じゃすまないはずなんだけどね」
「そんな技を親友に放つかねフツー」
「お前じゃなきゃ誰がこんな技使うか。親友だからこその容赦無しだよ」
「あっそ。ま、いいや。ちょっと水浴びしてーし、今日は学校サボろうぜ」
言うなり、まるでそれが決定事項であるように煉がスタスタと学校とは違う方向へ歩き始める。
「おい、ちょっとま――」
「試作品が完成したって言えば、納得するか? マイフレンド」
肩越しに視線だけ向けて来た煉の言葉に、柊吾は息を呑んで押し黙った。
「ま、そういうこった」
満足そうに頷いて、煉は再び歩き出す。
数瞬の間を置いて、柊吾もその後に続いた。自然と、心臓の鼓動が早くなるのを実感しながら。
◆
近くの川に豪快に飛び込んで無理矢理汚れを落とした後、柊吾たちは幽霊ビルとして有名な廃ビルの一室に場所を移していた。
ほとんど全ての部屋がドアも窓ガラスもなく開けっ放しでぼろぼろの状況にあって、その一室だけが何故かきっちりドアも窓も残していたため、煉が勝手に鍵を付けて専用部屋にしているのだ。
今のところ所有者も警察も来た例はないので――柊吾としては高校生にもなってとは思うが――秘密基地のような場所だった。
ちなみに、こういう場所をたまり場にするような不良連中は煉に恐れをなして近寄って来ない。
「変な臭いが篭ってるね」
部屋に足を踏み入れた柊吾は、手で鼻と口元を覆いながら真っ先に窓に近寄り、ガタガタと音を立てながら曇りガラスを引き開けた。すぐそこには隣のビルの壁面が見えるが、不思議と風がよく通る。
部屋の中の空気はすぐに循環を終え、多少慣れた事もあって臭いは気にならなくなった。
「あー、悪い悪い。昨日から今日の朝まであれやこれやと薬品いじってたからな」
ビーカーやら試験管やらアルコールランプやらと、さながら学校の理科室のような物品の散らばる壁付けのテーブルに向かいながら、煉がなにやらガシャガシャと作業を行っている。
その大きな身体が遮蔽物となって、柊吾からは何の作業をしているのかは見えなかった。
つい、と柊吾は改めて部屋の中を見回してみる。ところどころ劣化してハゲかけたコンクリートの壁面には、怪しげな魔法陣やら普通の人には見慣れない文字がびっしりと書き込まれていた。
――休みの間にさらに増えたな。それに……
ふと視線を床に移す。そこには何かで抉ったような溝が縦横無尽に走り回り、何かしらの形を描いていた。
――『アレ』なのか……?
柊吾はその溝の描くものに対しての既視感があった。
「煉」
「んー?」
柊吾の呼びかけに、煉は振り返る事も作業の手を止める事も無く生返事をしてくる。ときおり近くの棚から原色、極彩色、形容し難い色と様々な色の何かが入った瓶を取り上げては中身を慎重に混ぜ合わせているようだった。
「床に彫ってあるのがアレなのか?」
「……ああ、マイフレンド。アレを参考にした結界式だ」
ドクン、と柊吾の胸が一際大きく脈打つ。自然と、口元には笑みが浮かんでいた。
「ま、来る時にも言ったが試作品だけどな」
うし出来たと言って、煉はありふれたバケツを手に柊吾へと振り返ってきた。
「柊吾のダディのヤツもこんな感じだったからな。真似出来るところは全体的に真似してみようって事で、カリカリと一人で彫ったんだぜ?」
言いながら煉がバケツを傾け、そのなんとも言えない色合いと臭いを放つ液体を床に刻まれた溝へと流し込んだ。
液体は溝を走り、見る見るうちに己が体積で埋めていく。
「うっし、ひとまずはこれでよしと。後は……」
ぽいとバケツを放り捨て、煉は制服のズボンのポケットをごそごそと漁り始める。
「ん~……あっちのアレは五つだったっけか?」
ぶつぶつと確かめるように口にしながら、煉はポケットからビー玉サイズの丸い物体を取り出した。見た目は無色透明な水晶のようなそれを、ピンピンと次々に指で弾く。
宙に舞ったそれらはまるで誘われるように液体で満たされた溝へと落下していき、ポチャポチャと音を立てて沈み込んだ。
「相変わらず無駄に上手いよねそういうの。けど、そんなやり方で正確に配置出来るのか?」
柊吾はこういった事に明るいわけではないが、それでも下準備が繊細さを要求されるものであろう事は容易に想像が付く。そこへ来ての煉の行為は、あまりに粗雑なものに映った。
しかし当の本人は何も問題を感じていないようで、あまつさえ、
「ん? ああ、もうツーウィークくらいぶっ続けで練習したからオッケーだろ」
などという始末だった。
「………………」
「さて仕上げだな」
呆れる柊吾を無視して、煉は再びポケットを漁って折りたたみ式のナイフを二本取り出すと、
「ほいよ」
そのうちの一本を柊吾に向かって放ってくる。
「っと」
反射的にそのナイフを受け取り、柊吾は訝しんだ表情を煉に向けた。
「溝の液体に自分の血を混ぜなきゃいけないんだよ。通行手形ってか、まあ事前登録みたいなもんだ。あ、量は二・三滴程度でいいぞ」
説明しつつ、煉はすでにナイフを開いて右の人差し指を浅く切り裂いていた。切り跡の上に筋状の血が滲み出している。
「……っ」
柊吾もそれにならって左の指を浅く切ると、血を絞り出して溝の液体に落とした。すると――
「む……」
溝に満たされた液体が淡い光を発し始め、薄暗かった室内が急に明るくなる。
「これで準備は万端だ。後は結界式内に踏み込めば『異世界渡り』が体験出来る、はずだ」
「自称魔術師様のわりにはなんとも頼りないな」
「仕方ないだろマイフレンド。もともとこの世界でこんなもんを再現する事自体が無謀なんだ。柊吾のダディが使ってるのだって、多分あっちで作ったのを無理矢理持って来てるんだろうぜ」
煉がガリガリと坊主頭をかく。
「ま、そのおかげで俺もこんなものを拵える事が出来たわけだがな。休みの間に何度か出張に行ってくれたのも幸いしたぜ。おかげでようやく何が必要なのか全部分ったしな」
「ああ。父さん休みの間も行ってたのか」
煉の言葉を聞いて、柊吾は脳裏に父親を思い浮かべる。
今年で四十五歳になる、何処にでもいる普通の会社員。少なくとも表向きは誰が見てもそうだし、実際ご近所さんにはそれで通っている。しかし――
「僕は、父さんに一度も勝った事が無いんだよな」
柊吾と彼の父親との思い出には、常に惨敗に二文字が付きまとう。
剣道でも、柔道でも、空手でも、合気道でも、八極拳でも。その他ありとあらゆる武芸において、柊吾はただの一度として父親に勝てた事が無い。いい勝負になった事すらない完全敗北を味わっている。
煉のように大柄というわけではない。衣服に隠れた肉体が鋼のようであるというわけでもない。むしろ単純な見た目を比べれば、現在の柊吾の方がはるかに勝っているはずだ。
それでも何故勝てないのかという理由に気がついたとき、柊吾はスポーツ競技を捨てた。
「あん? あー、まああの人はなぁ。たぶん元の俺でも負ける気がするんだよなぁ。いやほんと、ぜってーバトりたくねえ」
自分で自分の両腕を掴み、煉が大げさなくらいに震えている。
ふざけているように見えるが、彼は初めて柊吾の父親と相対した時に何の迷いも躊躇いもなく一目散に逃走している。当時はまだ知り合ったばかりで、幼かった柊吾にはその行動が理解出来なかった。
そんな煉に対して柊吾の父親は「ふうん……ずいぶんと面白いお友達だな。あの姿で窮屈じゃないのかな?」と言っていたのを覚えている。
その時は小さい頃から大柄だった煉のパツパツの服装の事を言っているのだと思ったが、後になってそうでは無かったと知ったときは戦慄を覚えた。
一体自分の父親は何者なのだろうか、と。
「父さんの強さの秘密は、この世界にはない」
言って、柊吾は光り輝く結界式の側面から回り込み、ちょうど煉と正面から向き合う位置に移動した。
「ああ。そして俺が知りたいものも、この世界にはない」
口元に笑みを浮かべながら、腕を組んだ煉は柊吾の言葉に呼応するように、立ち位置を変えないまま言葉を紡ぐ。
互いを見据えるその間に、揺らめく光の影が躍る。
「求めるものは、この世界には存在しない」
柊吾は静かに目を閉じた。瞼の向こうに床から発せられる淡い光が透過し、揺れ動く。
「ならばどうする? 小さき我が友人よ。それに気がついてしまった以上、この世界では絶対に手に入れる事は出来ない。座して死を待つか?」
突然人が変わったかのような煉の言葉。獰猛な獣のように荒々しく、しかし畏怖を抱くほどに厳かな声。脳裏に垣間見えるのは、人ならざる友人の本当の姿。
「否」
目を閉じたまま、それでも迷いのない柊吾の即答。
「それがどこにも無いと決まっているのなら潔く諦める。でも、そうじゃないなら諦めない」
「然り。我らはそれを知っている。我らという存在そのものが、その証明となる」
柊吾は目を開き、相対する緋色の瞳を覗き込んだ。爬虫類のそれのように縦に細くなった目は、妖しい光を放っている。
「歩いて行けない世界で」
柊吾は詠うように言葉を紡ぐ。
「認識出来ない世界だが」
それに合わせ、煉も言葉を続けていった。
「それは確かにそこにあり」
「そこへ行くための手段も、ある」
煉が軽く足を上げ、タンと音を立たせて床を踏み込む。
柊吾の目の前には変わらず光を発し続ける結界式があった。異世界へ赴くための手段があった。
「もう一度言おう。この世界に求めるものはない」
「ならば迷う事などあるまいよ。この世界にないのなら――」
煉が途中で言葉を切った。
お互いに分かっている。そこに続ける言葉はただ一つ。
「それがあるかもしれない世界へ行くだけの事」
「それがあるかもしれない世界へ行くだけの事」
柊吾と煉は同時に結界式の中へと足を踏み入れた。
「くっ――」
瞬間、柊吾は強烈な立ちくらみに似た感覚を覚え、視界が真っ黒に染まる。
――なん……だ、こ……
ぐらりと体が傾き、そのまま床に叩き付けられようかという一瞬の間に、柊吾は意識を手放した。




