3.悪友再会(二)
声の主を、柊吾は笑みを浮かべて振り返った男よりも先に確認する。それは明らかに人間ではない何者かだった。
だが、そんな怪しい者が出現した割には観客たちが大人しい。誰もが皆、好奇の視線を向けているだけだ。
「お? おお、ギニアンか。ちょうどいいところへ」
どうやらギニアンと言うらしい乱入者は、身の丈二メートルを優に超えるスキンヘッドの大男然としたやつで、身体の各部が尋常ではないほどに太かった。瞳が分からないほどに目が細く、表情はどこか柔和かつとぼけた様子で愛嬌すらあるのだが、その圧倒的な威圧感は以前の煉をもしのぐだろう。
それだけでも十分に人間離れしているが、それよりも何よりも柊吾がその大男を人間ではないと判断したのは肌の色だ。そこかしこにいる人々とは確実に異なる薄緑色の肌。いくらここが異世界とはいえ、緑色の肌をした怪物的な大男が人間とは思えなかった。
「ト、トロールだと……? 馬鹿な。なぜこれほどの妖魔が人間に付き従っている……」
「ははは。ギニアンは人間と妖魔の間に出来た子供だ。本物の妖魔にはいくらか劣るが、腕っぷしは並の人間では歯が立たんぞ」
先ほどまではややエルに押され気味だったというのに、ここへきて急激に座長が元気になる。
「助けてくれギニアン。あの客が俺のものを奪い取ろうとしているのだ」
「ん~? それは、いけない事なんだな。人の物を勝手に盗るのは、駄目なんだな。ギニアンは賢いから、よく知ってるんだな」
驚き顔で後ずさるエルに満面の笑みでギニアンに近寄る座長。そしてその座長に変わって前に出る緑の巨人。
ステージの上はいきなりきな臭さが漂う場へと変化してしまった。
「そうだギニアン。えらいぞ。お前は賢い」
誰がどう見ても茶番にしか見えない演技なのだが、ギニアンの方は座長と呼ばれた男の言う事を信じたようで、
「そこのお前~。人の物を盗ったらいけないんだな」
その大きな身体で座長を背中に庇うと、丸太の様な腕を伸ばして常人の手首くらいありそうな太さの指をエルに突きつけた。
柊吾はこの間に座長がステージ上から逃亡してくれる事を期待したのだが、生憎とこの人物は精神的な小物であるようだ。有力な味方の登場とともに気が大きくなったのか、ギニアンの背後に隠れてそうだそうだと自分の正当性を主張し始めてしまう。
「な、何を言うか! 私はただ私の連れであるその光蟲を取り返しに来ただけだ。他人のものを盗ったというのであれば、それはお前の後ろに隠れているその男の方だ!」
相手が半妖魔という事で若干腰が引けかけていたエルだったが、侮辱の言葉に奮起して負けじとギニアンの背後に隠れている座長を指さす。
するとギニアンはカクンと首を傾げ、ひょいと肩越しに座長の方へ振り返った。
「座長~。どういう事なんだな? 座長が物を盗ったってどういう事なんだな?」
「ええいなにを言うんだギニアン。そんなものあいつの嘘に決まっているだろうが。賢いお前なら私は常に正しい事を言ってきた事くらい分かっているだろう」
「あ、そうか。おいお前。嘘を吐くのもいけないんだな。駄目なんだな」
しかし簡単に言いくるめられたギニアンは再びエルを非難し始める。どうやら彼自身は相当に純粋な性格をしているらしい。それをいい事にこの座長が好き放題にこき使っているのだろう。
「ぐぐ。よくもまあそのような事が言えたものだ。おいギニアンとやら。なぜ貴様はその男の言う事を信じる」
「座長はいい人なんだな。死にかけのおでを拾ってくれて、ご飯をくれたんだな。だからおでは座長を守るんだな」
「くっ。たとえ半分が妖魔なのだとしても、お前のように純粋な者がロクでもない奴の食い物にされているのかと思うと、私は実に嘆かわしいぞ」
ギニアンの境遇に思わず口元を抑えたエルが天を仰ぐ。いったい彼女は何に感極まっているのだろうかと柊吾はため息を吐きたくなるが、今の状態ではそれもままならない。
「だが、すまぬギニアンよ。今の私ではお前を救えない。そして今救うべきはその光蟲なのだ。悪く思わないでくれ」
すっと、エルが背中に固定していた剣を外して構えた。丸腰とはいえエルにとっては圧倒的なまでの体格差のある相手だ。武器を使わないという選択肢はなかったのだろう。
「何を言ってるのかまるで分らないんだな。でも、どうしても座長から物を取り上げるんなら、相手になってやるんだな」
対してギニアンは武器を構えるエルにまるで恐れを抱く様子もなく、大きな拳を握りしめた。おそらくは何度となく出来ては潰れたであろう拳ダコが折り重なり、さながら岩石の如き様相を呈している。その肉体から繰り出される攻撃の威力は不明だが、体重差だけを考えても相当にエルに不利だろう。
いつの間にか周囲の観客たちも固唾を飲んで二人の対峙を見守っており、恐ろしいまでの緊張感が周囲に漂っていた。
何かのきっかけで一気に爆発するであろう張りつめた空気の中、真っ先に動いたのは――
「はいはいそこまでそこまで」
「む……?」
「ん~?」
対峙する二人の間に割って入った座長が大きな声でエルとギニアンに静止を訴えた。その瞬間に柊吾は座長の手から解放されたので、彼は素早くエルの元へと戻る。
しかしもはや柊吾の事など眼中にないと見える座長の男は、観客たちの注目が一気に自分に集まった事を確認すると、
「さあさあ皆様。謎の旅人と我が一座が誇る怪力のギニアン。両名の勝負の行く末に、皆様のお金を賭けてはみませんか? ただいまから半刻後に試合を執り行いますので、ご参加いただける方はその時までに私の方までお申し付けください」
突然そんな事を言い始めてしまった。どうやら彼の中でこの対決は柊吾よりも金になるという結論に至ってしまったらしい。
座長の発した言葉は観客中に広まり、場が一気にざわざわと騒がしくなる。
「じゃあ俺はギニアンにかけるぜ」
そして誰かが手を上げて賭けへの参加を宣言をしたかと思うと、
「な、なら俺はあの旅人だ」
「あたしゃギニアンの方だねぇ」
「俺もだ」
「わたしもよ」
次々に他の者たちも賭けに参加し始めた。
「皆様落ち着いてください。あちらへ記帳所を設けますので、そこでお名前と掛け金を承ります」
完全に周囲を自分のペースへ引き込んだ座長は、いつの間にか集まってきていた他の一座の仲間にも声をかけて瞬く間に準備を進めて行く。
そしてそそくさとステージから降りて行こうとした時、
「おいギニアン。そいつが逃げないように見張っておけ。少しでも逃げようとしたら少しくらいなら壊してもいいぞ。それと、余計な会話はするな。お前はただ見張っていればいい」
下卑た笑みを浮かべ、ギニアンにそんな命令を残していった。
「分かったんだな。おいお前。逃げたらだめなんだな」
受けたギニアンは再び太い指でエルを指さし、その後はじっとその開いているのかいないのか分からない細めで監視を始めてしまう。
「……なあシューゴ。これはどうすればいいのだ?」
「どうするって言われてもな」
ひそひそとしたエルの問いに、柊吾はどう答えていいものか悩むところだ。彼はすっと視線をエルからそばにある檻へと移した。そこには格子に頭を擦りつけている友人の変わり果てた姿がある。このまま置いていく事は出来ない相談だ。
「なあエル。実はそこにいる子竜って、僕と一緒にこの世界へ来たやつなんだよ」
「なに?」
柊吾の説明を受けて、エルが弾かれたように檻へと視線を向けた。
「む? なに用だ小娘」
すると、一発でエルが女だと見抜いた煉がフンと鼻を鳴らしながら睨み返している。どうも人型の時とは異なる性格を演じているようだ。いや、もしかしたらこちらが正真正銘本当の彼なのかもしれないが。
「この子竜がシューゴの友人なのか……?」
エルが檻に顔を寄せ、しげしげと煉の姿を観察し始めた。
それに反応してギニアンが何かしら口を開きかけたが、先ほど座長にただ見張っていろと言われたせいか、少し悩むそぶりを見せるだけで再び監視体制に戻る。
「な、なんなのだこの小娘は。――おいマイフレンド。いったい何なんだこいつは。さっきからわけの分からん言葉でぶつぶつ言っててこえーよ」
「え? なんでいきなりそっちの口調に戻るんだお前」
どことなく厳かな雰囲気を醸し出していたはずが、急にいつもの煉へと戻ったために柊吾は精神的な肩透かしを食った気分になった。しかし何とか気を取り直し、煉にエルを紹介してやる。
「彼女はエルだ。俺がこっちの世界に来て最初に知り合った人間だよ」
「む? なあシューゴ。お前は今、誰と話しておるのだ?」
「誰って、もちろん煉――ああ、その子竜で僕の友人の名前は煉って言うんだけど、彼に決まってるじゃないか」
言外に何を言っているんだという言葉を込めて説明してやると、エルはふむと腕を組み始めた。
「決まっていると言われてもな。……なるほど。先ほどから双方ともに鳴いているのではなくわけの分からない言葉でしゃべっているように聞こえるのはそういう理由か」
「え? もしかして、エルは煉の言葉が分からないのか?」
「もしかしなくても分からんな」
口を尖らせ、面白くなさそうにエルが言う。
「おい煉。お前も今までエルが話してた事は分からないのか?」
「さっぱり分からんぞマイフレンド。ってか、お前さんがそっちの嬢ちゃんに話しかけてる時はお前の言葉も分からなくなるんだがな」
フンと鼻から息を抜くような感じで煉が答えた。
今の話を総合すると、どうやら柊吾は自然と地球の言葉とアルマレウムの言葉を使い分けているようだ。自分では一切分からないのだが、二人が嘘を言う必要性はないのでそういう事なのだろう。
――うーん。そうなるとますますもって僕はどうなっているんだ?
感覚の上では腕を組んで首を傾げている柊吾だが、実際にはふよふよと浮かんでいるだけである。
「まあどうなってるのかなんて今はどうでもいいだろうさマイフレンド」
しかしそこは長年の付き合いなのか、雰囲気から柊吾の様子を察した煉が止め止めと言うように首を振る。
「それよりも、何か食い物を持ってないか? この身体って腹が減ってると全く力が出ないんだよな。おかげでこんなチャチな檻に閉じ込められてるわけだが」
「ああ。そういやさっきあの座長とか呼ばれてたやつがそんな事を言ってたな」
「そそ。んでまあ話を戻すんだが、何か食い物持ってねえか? ちょっとでもあればこの檻から出る事なんざ分けないと思うんだが」
「そう言われてもな……」
食べ物と言われても、そもそも柊吾は荷物の類を一切持っていない。仕方がないので彼はエルの方へ視線を向ける。
「む? なんだシューゴ。なにか用か?」
「えっと、煉が何か食べ物はないかって言ってるんだ。食べ物さえあればその檻を抜け出せるんだってさ」
「ふむ、食べ物か。それなら――」
ごそごそとエルが外套の中をまさぐり、腰からぶら下げていた小さな布袋を取り出した。それを見て、柊吾も一つ思い出した事がある。
「こんなものでよければあるぞ」
ひょいと彼女が取りだしたのは、洞窟で採取したクリスタルキノコだ。柊吾は直接食べてはいないが、確かに食料である。
「うおおおおっ!!」
ガッシャンと一際大きな音が鳴って、煉が閉じ込められている檻がやや移動した。
見ると、格子にぐりぐりと鼻っ面を押し付けた煉がフンフンと鼻息を極限まで荒くしてエルのつまみ上げたクリスタルキノコを凝視していた。
「ま、まさか。いやしかしこの匂いは間違いない」
「お、おい煉。どうしたんだ?」
鼻先に人参をぶら下げられた馬もかくやというほどギラリとした目をクリスタルキノコへ向けた煉は、半開きの口から大量の唾液を漏らし始める。そのあまりの豹変ぶりに、柊吾は思わず身を引いてしまった。
「ふむ。どうやらそこな子竜はずいぶんとこれを欲しがっているようだな」
言って、エルが指でつまんだクリスタルキノコをひょいひょいと左右に振った。それに連動して、檻の中の煉も右へ左へ首を振ってキラキラとした青い結晶体を追う。
「……これは、楽しいな」
「いやあの、お願いだから僕の友人で遊ばないでくれ」
にへらと口元をゆるませて猫じゃらしで猫と戯れるがごとく遊んでいたエルだったが、柊吾の苦言を受けてしぶしぶといった感じにひょいとキノコを放り投げた。
「はむっ!」
それを見事に格子の隙間から強引に突き出した煉の口がキャッチし、パキポキと軽快な音を立てて咀嚼していく。
「そら。もう一つだ」
「はむっ」
「ん。それ」
「はむっ。はむっ」
完全に池の鯉に餌をやるような感じだが、煉が一心不乱にキノコを食べる様が気に入ったのか、エルは次々に布袋に入れてあったクリスタルキノコを与えて行く。
「……む。もう空か」
「はっ。はっ。はっ」
布袋に手を入れたエルがつまらなさそうに口を尖らせ、檻の中の煉はもっともっとと言う犬のようにべろりと紫色の毒々しい舌を出している。
「……煉。前々からあれだとは思ってたけど、お前そこまで落ちたのか」
「何の事だマイフレンド。女の子に「はい。アーン」をしてもらってうれしくない男がいるわけがないだろう」
「いやいやいや。今のどう考えても餌付けだからね。池の鯉とか川のカルガモとかと同レベル」
「はっ。分かってねえなプアフレンド」
舌を口に戻した煉がかわいそうな奴めといった感じの視線を送ってくるが、柊吾は余裕でスルーした。
「まあしかし、今ので随分と腹が膨れたぜ。まさかこの世界に竜水晶があるとはな」
「竜水晶?」
「ああ。俺が最初に元いた世界で主食にしてたやつだ。こっちに来て人型よりは元の姿に近付いたとはいえ、エネルギー補給は懸念の一つだったからな。竜水晶が生息している世界なら、エネルギーにセーブをかける必要もない」
煉がにやりと笑い、次の瞬間にはその身にまとっていた緋紅の鱗が一斉に逆立った。
「うお」
「なんと」
全身を刃物の様に鋭い逆立つ鱗に覆われた煉の姿は、先ほどまでのどこか愛らしい姿とは一線を画すものになっている。
「さすがにこの身体じゃ逆鱗モードもここまでが限界だな。だがまあ、こんな檻程度をぶち破るには十分だ」
フンと荒く吐き出された鼻息とともに、半開きの口からボフンと火の粉が散った。気合十分の臨戦体勢といった感じである。
「お、おいシューゴ。なにやらお前の友人はずいぶんと気合を入れているようだが、今事を起こされても面倒な事になる気がするのだがな」
「うーん。でもこのままあのいけ好かない座長の予定通りに事を運ばせるのも面倒だし、ここは一つさっさと町を出るしかないだろうね。僕がギニアンの注意を引くから、エルはその隙に逃げてくれないか? 僕は君が離れてくれれば自動的に追いつけるわけだし」
「……ふむ。それが最善か。出来れば腹ごしらえがしたかったところだが、クリスタルキノコがなくなってしまった以上はこの街にも長居は無用だな」
少しだけ考えてからエルがコクリと頷いた。
それを確認して、柊吾は煉にも話を付ける。
「了解だマイフレンド。そんじゃあ俺はそっちの嬢ちゃんが逃げて、相手がそれに気が付いた頃に派手にぶちかませばいいな。こっちは空を飛べるからよ。すぐに追いつけるぜ」
「それで頼むよ。――エル。煉に話は付いた。それじゃあ僕がギニアンの注意を引きに行くから、上手くやってくれよ」
「うむ。期待しているぞ。シューゴ」
やや尊大なエルの頷きに後押しされ、シューゴはふよふよとギニアンへと近づいて行った。
「んあ?」
接近するシューゴに気が付いたギニアンは、ぽかんと口を開けてその様を眺めていた。先ほどエルが煉にキノコを与えていた時も何か言いたそうにしつつちゃんと座長の言いつけを守っていた彼だったが、さすがに目の前を珍しいという赤い光蟲が飛びかう様には興味が引かれてしまったようで、その視線をエルからシューゴへと移してしまっている。
――見た目は大きいけど、たぶん精神的に子供なんだろうな。もしくは本当に子供なのかもだけど。
せっかくだからと観察するギニアンを一言で表現するのなら、まさに幼子といった感じだ。どこまでも純粋で無邪気。だからこそ信用している座長の言葉に無条件で従うのだろう。
そんな彼を騙すのはやや気が引けるが、背に腹は代えられない。彼はともかくこちらまで座長のいい様に利用されるのは御免被るというものだ。
――よしよし。
チラリと振り返った先で、エルがひょいとステージから飛び降りたのが見えた。後は一気に走り抜ければ逃げ切れるはず――だったのだが。
「あ! あの旅人が逃げたぞ!」
直後に上がった大声に、柊吾は弾かれたようにその発生源へ視線を飛ばしていた。そこにいたのは観客の一人。おそらくは賭けに参加して戻ってきていたのだろう。
――しまった!
監視役として残されたギニアンに意識を集中させ過ぎて、柊吾は観客というその他大勢の敵の存在を完全に失念してしまっていた。
「んあ。お前、逃げたらだめなんだな」
当然にしてエルの逃亡に気が付いてしまったギニアンが声を上げ、その巨体からは想像も出来ないほどの速さで走り出す。
「エル逃げ――」
警戒の声を発しようとした柊吾は突如何かに引っ張られるような感覚を覚え、
「――ろ!」
気が付いた時にはがくがくと揺れる視界の中に地響きを立てながら迫ってくるギニアンの姿を確認していた。
「もう逃げておるわ!」
背後から聞こえてくる悲鳴に近いエルの声。どうやら制限範囲外になったために剣へと引き戻されてしまったらしい。
それを理解すると同時に、ギニアンの背後。先ほどまで自分がいたステージから火柱が上がった。おそらくは煉が檻を破壊したものと思われるが、追ってくるギニアンは背後の出来事に一切関知せず、ただ一心不乱にエルの事を追いかけて来ていた。
「ちっ。こういう時は一途で真っ直ぐな性格ってのは面倒だな」
それと定めたら一直線。完全に子供の思考と同じである。
それが本当にただの子供であればいいのだが、二メートルを超える巨漢となれば完全に話は別だ。エルとの歩幅の差も相まって、見る見るうちに差を詰められてきている。
「おいエル! もっと速く走れないのか!? 追いつかれるぞ!」
「無茶を言うな! これで精一杯だ!」
「待つんだな~。止まるんだな~」
気の抜けるような声でギニアンが静止を訴えてくるが、当然それに従ってやるわけにもいかない。状況は刻一刻と不味くなっており、このままでは本当に捕まってしまうと柊吾が歯噛みをした時だった。
「そのまま振り返らずに走り抜けるでござるよ!」
「っ!」
突然に空から降ってきた声に柊吾が身構え、
「この声……。いや、今は!」
エルが一瞬だけ呆けたような声を出し、直後に大地を蹴る足にさらなる力を込める。
そして、柊吾は視界に捉えた。自分たちと追いすがるギニアンとの間に降り立った一人の影。身の丈を遥かに超える細い棒――いや、長槍を手にした何者かの姿を。
「一気に抜けるぞシューゴ!」
「あ……わ、分かった」
足を速めたエルが角を曲がり、視界から謎の影がいなくなる瞬間、柊吾は確かに見た。行く手を阻むように現れた影をものともせずに蹂躙しようとしたギニアンが、謎の人影が振るう長槍の一撃を側頭部に受けて意識を刈り取られ、その巨体をどこかの商店に突っ込ませる様を。
ただの一撃でギニアンを撃退せしめたその人物は、陽光にを受けてもなお黒い髪をたなびかせていた。




