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継承の儀


 時は太陽が中天をやや過ぎた頃合い。人里離れた山間に建つ道場で、道着に袴姿の二人の男が互いに刀を構えて向かい合っていた。


 かなた年季を入った深いしわを巌のような顔に刻む長身で白髪の老人。高い位置で結った豊富な量を持つ白髪は窓口より流れるそよ風にわずかに揺らめき、鳶色の瞳に宿る闘志と相まって熟練の剣士たる姿を想像させてやまない。

 こなた身長こそ老人と同等なれど、その顔は未だ子供の域を脱し切れていない褐色の肌をした少年。短く切りそろえられた、やや青みを帯びているせいか黒というよりは闇色と形容した方がしっくりくる黒髪に同色の瞳。顔立ちは整ってはいるものの、街中であればそれほど目立つ風貌をしているわけではない。

 だが、その集中しきった表情は見る者を惹きつけてやまない、独特の魅力があった。


 そんな両者が今、相対している。誰が見ても互いが師弟の関係にあり、今まさに稽古の最中なのだとわかる状況。

 しかしながら、そのありふれた稽古の風景には確実な違和感が存在していた。

 それは互いに構える得物。木刀――ではない。明り取りより差し込む陽光にきらめくそれは、映画の撮影で使われるような作り物めいた照り返しではなく、重厚な金属の匂いを漂わせている。

 またその切っ先の鋭さは、見る者の恐怖をもって刃潰しが施されていない現実を突きつけていた。


「……一つ間違えば、死ぬぞ?」


 真剣を構え合いながら、しかしその切っ先を一ミリたりとも揺らさず、老人が眼前の少年へ言葉を投げる。

 木々のざわめきのみが支配する静寂にあって、ビリビリとした振動さえ伴いそうな低い声は非常によく通った。

 街中の道場とは違い、ここは人の足でようやく辿り着ける辺鄙な場所にある。仮に簡単な治療でどうにも出来ないような重傷を負ったとすれば、満足な治療が受けられるようになるまでに絶命してしまう可能性が高いだろう。

 怖いのならばやめておけ。言外にそう含ませた老人の言葉に、しかし少年は口の端を吊り上げ、獣じみた笑みでもって応えた。


「何の覚悟もなく、今この場にいるとお思いですか? 師匠。あなたの弟子は、その程度の覚悟も出来ない存在だと?」


 その言葉は虚勢ではない。その証拠に、少年の切っ先もまた毛筋ほどの揺らぎも見せてはいなかった。


「……いや、愚問であったな。ならばよし。ぬしの技量、確かめさせてもらおう」


 老人はやや目を見張ったのち、どこか嬉しそうな声でそう言った。

 言葉のやり取りの間も両者は微動だにせず、ただ相手の隙をうかがい続ける。

 どれだけの時間向かい合っているのだろうか。一分とも十分とも感じられる悠久の刹那が過ぎ、不意に明り取りから差し込んでいた陽光が陰った――瞬間。


「っ!」

「っ!」


 両者は何の前触れもなく、一息の内に互いに距離を詰めた。振るわれる真剣と真剣。一閃と一閃が交錯し、ただ一度だけ澄んだ鋼の音が道場の中に響き渡る。

 全ては一瞬。わずか一瞬だった。たったそれだけで、勝敗は決していた。


「……見事」


 感嘆の言葉とほぼ同時に、刃が床に突き刺さる音が鳴る。見れば、老人の刀はその刀身を半ばから失っており、床に突き刺さった刃がその失われた部分である事を明確に物語っていた。

 砕かれたわけではない。圧し折られたわけでもない。美しい断面を晒すその跡は、紛れも無く斬られた跡だ。

 陰っていた日の光が再び道場の中を明るく照らし、床につきっさった刃はその命の最後の輝きを見せるかのようにただ一度だけ光を反射し、沈黙した。


「よくぞ、よくぞこのわしを超えた。超えてくれた」


 死した刀の代わりに、老人の口から賞賛の言葉が漏れる。己が得物を断ち切ったその刃を首筋に突きつけられながら、老人は恐怖ではなく喜びの念から震えていた。


「師匠……」


 そんな様子を見て、少年は刀を引く。鋼の刃を切断したというのに、少年の刀は刃こぼれ一つなく、美しいまでの輝きを放っていた。


「明治期を迎え、大正、昭和の世を何とか生き抜いた。だが、この平成という時代にあってついに最後を迎えると思っていた。わしの代でついえるのだと」


 老人は床に坐し、膝を二度三度と打つ。


「だが今ここに、鋼一閃流(はがねいっせんりゅう)は継承された。この世に生まれた新しい者に、確かに伝えきった」


 かかかっ、と老人は満面の笑みを浮かべて少年を見上げた。


「鋼一閃流四十七代目師範、鋼道兵衛天山(こうどうひょうえてんざん)の名において、我が最後の弟子、浪江柊吾(なみえしゅうご)を鋼一閃流第四十八代目師範として任命する」


 強い気持ちのこもったその言葉を受け、少年――柊吾は、慌てて抜身のままだった刀身を納め、その場で正座をして頭を垂れた。


「謹んでお受け――」

「が、鋼道の名前まで継ぐかどうかは好きにせい。もとより、わしも師から後世に伝えるかどうかは死ぬまでに決めておけと言われた身よ」


 柊吾の言葉に被せ、老人――兵衛はそう付け加えた。

 それは太平の世にあって、芸能としての価値は残れど真なる意味での剣術はその力を振るうべき場所がない事を理解しているがゆえの言葉。

 日本としての最後の戦争時代を経験している兵衛はともかく、おそらく柊吾にはそんな機会は訪れないだろう。訪れて欲しくはない、というのも彼の本心であった。


 慣例としては流派の創始者である鋼道天山の名前を襲名していくべきだが、兵衛の中ではすでに名前に対するこだわりはない。

 ただ単純に、先人が磨き続けた技を自らが腐らせる事。それに対する無念があっただけだった。たとえそれが、自然の摂理だったのだとしても。


「老いぼれの夢は叶った。もう何も思い残す事はない。鋼道の剣を生かすも殺すも使うも使うまいも好きにせい」


 あっけらかんとした兵衛の物言いに、柊吾はぽかんとした表情を作っている。あまりにも予想外だったのか、師の言葉に少々困惑しているようだ。だが、それも束の間。


「兵衛師匠」


 柊吾は未だ嬉しそうに笑う師の名を呼ぶ。


「なんだ」


 兵衛がぴたりと笑うのを止める。柊吾の言葉に込められた真剣さにつられ、姿勢も正されていた。


「今日までのご指導、本当にありがとうございました!」


 柊吾は深々と、改めて頭を下げる。師に対する、心からの感謝の気持ちだった。


「いや、礼を言いたいのはこちらも同じよ。ぬしと出会わなければ、こんな達成感を得る事もなかった」


 感謝すると、兵衛も頭を下げる。そうして――


「……ところで、柊吾」


 ふと思い出したように、再び兵衛が口を開いた。


「ぬしはわしのところに初めて顔を見せた時、鋼一閃流が真の意味での剣術かどうかを確認しおったな」

「はい」


 もちろん柊吾は覚えている。そしてその技を見たからこそ、彼は兵衛に弟子入りをしたのだ。


「その後も何度か問うたが、結局、何故今の世にかような剣術を求めたのだ? 継承の儀を終えた今、わしはこの道場をたたみ剣を置くつもりだ。これ以後、もう会う事はなかろう。冥途の土産というわけでもないが、教えてくれんか?」


 真摯な態度で回答を求められ、柊吾はやや逡巡した後でおずおずと口を開いた。


「この世ではないどこかに呼ばれた時、あるいは赴いた時のための準備です」

「………………うん?」


 柊吾の言葉を聞いて、兵衛は意味を掴み損ねた。頭が理解を拒否したわけではない。純粋に、その言葉の意味が分からなかったのだ。

 そんな兵衛の状態も知らず、柊吾は最初の躊躇いをすっぱり捨て去り、


「この世には、今我々がいる世界とは違った世界が無数に存在します。そこは決して、通常の手段では行く事の叶わぬ世界。しかしそれはすぐ隣にある世界でもあります。何かの拍子に違う世界へ行ってしまう者も、違う世界からやって来てしまう者もいます」


 弁舌に語り始めていた。


「あー、んん、あーっと、うん?」


 ノッてきた柊吾の言葉に熱がこもればこもるほど、兵衛は理解に苦しんだ。彼にはまったく意味が分からなかったせいだ。


「違う世界へ行ってしまえば、そこはこの世の常識が一切通じない世界です。往々にして命が危険にさらされます。そんな時、力があれば生き残れるかもしれません。その力は、平和な世が生み出したスポーツでは足りません。戦乱の世に生まれた技術こそ、生きるための力になります。だから僕は――」

「あー、うむ。まあ、よう分からんが、本当の強さを求めたという事か?」


 いい加減理解出来ない事へのストレスがひどい事になりそうだったのか、兵衛は興奮して鼻息を荒くしていた柊吾を手で制しつつ、分かる範囲で要約する。

 言葉を遮られた柊吾は荒くなった息を整えながら、


「た、端的に言えばそうですね。競技としてではなく、生きるための力が必要だったんです。あと、やっぱり男といえば剣術です。刀です」


 最後にそう締め括った。

 兵衛としてはまた新たな疑問が生まれてしまったが、これ以上尋ねる気はとうに失せていた。彼はバリバリと頭をかきつつ、


「まあ、わしとしては技を伝えきった以上それをどう使おうが干渉せんが、まかり間違っても犯罪にだけは使用してくれるなよ。鋼一閃流の技には悪用しようと思えばいくらでも悪用出来るものがある。まあ、それを扱えるだけの技量がなければ話にならんが、ぬしはすべての技を納めよったからな」

「その事についてはご安心を。これはあくまでこの世界での準備であって、実際に力を振るうとなればこの世界ではありませんから」

「……まあ、いいだろう。どうも腑に落ちんが、これで継承の儀はしまいだ。この道場ももう使う事はないが、最後の掃除を手伝っていけ」


 弟子の変な一面を見てしまったことに軽い後悔の念を覚えながら、しかし兵衛は努めてそれらを忘れる事にした。せっかくの感動を台無しにしてしまうのが怖かったのである。


「はい。師匠」


 そんな師の葛藤に全く気が付かず、柊吾はいつものように元気良く返事をした。



 西暦二〇××年八月二八日。浪江柊吾、当年とって十七歳の夏。鋼一閃流第四十八代目師範として、決して語られぬ歴史の一幕にその名を刻んだ。



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