閑話 侍女は夜の酒場で謳う 【後編】
何か、不思議な雰囲気のある男だった。
旦那様に並ぶほどの長身、ゆったりとした衣服の下には鍛え上げられた肉体があるのが見て取れる。しかし妙に――”薄い”。これほど目立つ外見でありながら、私は彼を背景としか思っていなかったのだ。
こちらへの悪意は感じられない。それどころか気配すら無かった、この男は一体――。
私の警戒心を他所に、彼はへらへらと笑っていた。
「拙者、物心ついた頃から三十路を超えるまで東のとある島国育ちでござる。なにより無作法者ゆえ、音楽なんぞさっぱりわからん。わっはっはは」
天を仰いでカラカラと笑う……その言葉に嘘偽りは感じられない。
「なんだよ、役に立たねえ野郎だな。酒も付き合わねえしよぉ」
「ごめんでござる。拙者、下戸なのでござる。代わりにゲコゲコガエルの真似なら得意でござる」
「ゲコゲコ……? 聞いたことないカエルだな。いいぞやってみろ」
「げこげーこ」
「なんだこの野郎、ただ言っただけじゃねえかわはははは」
「ふざけんなおまえちゃんとやれ、わーはははは!」
どっと大笑い。
……どうやらこのゴザル男、見かけによらずふざけた性格で、現場のムードメーカーになっているらしい。彼らもただ面白いことが起きないかと期待して、呼んでみただけのようだった。
みな、笑いながらまた酒を煽り始める。私は静かにリュートを背に掛け直し、再び場を取り繕うように微笑んだ。
「スフェインは広い国ですからね。音楽に興味のないひともおられるでしょう……ははは」
心の中でため息をつきつつ、私は再び席に戻り、次の一手を考え始めた。
……この男、音楽云々の話題は躱したが、どうにも油断ならない気がする。明らかに異質な存在だが、何か情報を聞き出すのは藪蛇かもしれない。
私は隣の、単純脳筋男に話しかけた。
「皆さんの衣装、オラクルの文化っぽいですよね。お洒落で素敵です」
「お洒落? ただ派手なだけだろ。ディルツ人としては、こっ恥ずかしくて仕方ねえぜ」
男はかなり嫌そうな顔をした。
……ディルツ人としては、ね。
「街のほうはこっちとそんなに変わらねえんだがな。人種も、長身と赤毛が多い以外はそれほど違いが判らねえ。俺達の中に本物のオラクル人が居ても、俺はわからねえだろうな」
「へえ……そうなんですか。大将らがオラクルに行ったのは最近の話です?」
「そう、ついこの間、数日だけな。飯がイマイチだった」
「なるほど。ちなみにオラクルに滞在中は、どこで寝泊まりを――」
さらに聞き出そうとしたが、その時、例のござる言葉の男が口を挟んできた。
「さて! 皆の者、そろそろ夜も更けた。いい加減お開きにするでござる!」
「ええっ? なんだよ、これからってところ……あっこら、てめえっ」
抗議するも虚しく、男達のジョッキがゴザル男によって強制的に片付けられていく。大きな手で大量のジョッキを持ち上げて、店主の元へどんどん運んでいくゴザル男。
取り返そうとする酔っ払い――その手首を、ぎゅっと掴んだ。
「帰りましょう。余計な口を滑らせる前に」
その瞬間、酔っ払いの顔色が変わった。
それほど力を入れたわけではない。だが、何かを『発した』。
側にいただけの私、そして酔っ払いは感じ取ったのだ。戦士として――相手の強さを。
こいつ……!
酔っ払いの腕をパっと離し、ゴザル男は私を振り向いた。
「お嬢さん、あなたもそろそろ帰ったほうがよろしい。あんまり深入りすると、厄介事になるでござるよ」
「そう……ですねえ、いや残念ですが、時間切れとあっては致し方ありません」
私はへらへらと微笑んで頷き、名残惜しそうにリュートを抱えて立ち上がった。何もかもがまだ不明瞭だが、収穫はあった。少なくとも『あの御方』がグラナド家を狙っていること、そして彼らがディルツ兵であることは確実だ。
「ではまたいつかお会いしましょう」
私は軽く挨拶をして、酒場の扉を静かに閉めた。
……酒場を出て、冷たい夜風が頬を撫でる。
そうして初めて私は、自分がホッとしていることに気が付いた。
自分で思っていたよりもはるかに、私はあの男の前で緊張をしていたらしい。
……まあ、仕方ない。これ以上あの場にいても聞きだせることに限りはあっただろうし。
それよりここから、彼らの帰路を尾行してみようか。奴らが会計を済ませて出てくるまで、そのあたりの物陰に潜んで……。
――じゃりっ。
ふと背後から聞こえた足音に、私は反射的に身構えた。
背後にはやはり、あの男。月光に金髪をなびかせた、例のゴザル男が立っていた。
「女の子に、夜道は危ないでござる。途中まで送るでござるよ」
男はにこやかに言う。当然、ただの親切心ではないだろう。
「それはご親切に。ですが、心配には及びません。私の宿はすぐ近くですから」
「ならばなおさら送りましょう。方向はどちらでござる? 右か左か、前か後ろか……」
私は微笑みだけを返しながら、ゆっくりと後ずさった。
――どうやってこの男を撒こうか。それがとても難しいことだと察していた。
ただものではない。ディルツの王国騎士――ルイフォン様や旦那様よりも強いかもしれない。訓練された軍人とは違う、何か――この男は危険だという警告が、頭の中で鳴りやまない。
戦ってはいけない。
そう思った直後だった。目の前に、なにかきらりと光るものが迫る。私はとっさに後ろに飛んだ。さっきまで私の鼻があった場所を、白い閃光が横切っていた。
いや、閃光じゃない。刃物だ。
月光に煌めく鋭い刃物が、一秒前の私を切り裂いたのだ。
視線を右へ向ける。ゴザル男が剣を抜いていた。いや、あれは剣なのか? 異様に細くて薄い。
男はその剣を手元に戻し、「へえ」と軽い声で呟いた。
「素晴らしい。あれを避けるとは大したものでござる」
「何を……」
言いかける暇もなく、再び光が襲ってくる。私は再び後ろに飛んだ。しかし、男が突っ込んでくる――早い!
マントが裂けた。それが自分の体では無かった幸運に感謝しながら、横へと逃げる。
男は、今度は追ってはこなかった。代わりに剣を薙ぎ払う――先ほどよりもリーチが伸びた⁉
横薙ぎに剣が、私の胸に向かってくる――よけきれない! とっさに私は両腕をあげ、胸の前でクロスした。心臓よりは、両腕を斬られるほうがマシ!
――ガツッと音がした。刃物で切り裂かれた痛みではなく、骨が軋む鋭い痛みが走る。
どうやらあの剣は片刃のもので、今私に当たったのは、刃の無いほうだったらしい。偶然かわざとかは分からないが。男は剣を構え直しながら、きょとんとした顔で首を傾げた。
「……おやまあ。あの勢いだと、普通は骨が折れるでござる。お嬢さん、骨が鉄で出来ておられる?」
「……乳製品は好物で、よく食べるものですから」
私は痛みを押し殺し、男を睨んだ。
――ダメだ。この男、強い。見慣れない武器、この暗がりではリーチも測れない。
せめて一度、立て直すことが出来れば……。
「オラクルの陰謀とか、グラナド城への潜入とか、正直どうでもよくなってきました」
私は腕をぶらつかせながら、わざと軽い調子で言った。
「今は、あなたを倒す方法を考えるので精一杯ですよ」
男は剣を構えたまま、ふふっと軽やかな笑い声を漏らした。
「それよりは逃げる算段を付けた方がいいのでは。全力で逃走すれば、おそらくお嬢さん、拙者よりも速かろう」
「……その剣が無ければ私とあなた、どちらが強いか試してみたくなってきました」
「それは間違いなく貴女でござる。貴女、ひとと握手をした瞬間に手首の関節外せるタイプの人でござろう?」
「……そんな、人を自動殺戮人形みたいに」
否定はしないけれども。
「――だが、この場では拙者が刀を持っている。よって、貴女は逃げるしかない。命が惜しければ」
彼の言葉に、私は驚くほど納得してしまった。
腕の痛みがじんじんと広がるが、彼の冷静な判断とその言葉には不思議と敬意すら覚える。
「……見逃してくれるのですか?」
ゴザル男は頷いた。
「拙者にとって、貴女は敵ではない。それでももし脅威であったなら、放ってはおけないところであったが……刃を持たぬ婦女子を斬れるほど、拙者も鬼畜生では無いでござるよ」
そう言って、彼は剣を鞘に納めた。
私は速やかに退却した。
私から刃物を奪った人に、心の中で感謝をしながら。
もしも今日、私が武器を持っていたら……あの男に一矢報いることは出来たかもしれない。だがその代わりに、私は彼に殺された。
そうしなければ、彼にとっても脅威となるからだ。私たちは死体か人殺しかのどちらかになるしかない宿命。相対してはいけない存在だった。
去り際、姿が見えないほど遠くなってから、男の声が飛んできた。
「大丈夫―、悪いよーにはしないでござるよー!」
やけに呑気で間延びした、謎の慰め。
私は痛む腕を押さえながら、闇夜の中に身を顰めた。




