閑話 侍女は夜の酒場で謳う【前編】
ディルツ王国、北の外れ。
ぎりぎり王都と呼ばれる土地に、うらさびれた安居酒屋があった。普段は近隣に住む貧しい民が、安酒で酔うためだけに来る店なのだろう。厩などという気の利いたものはなく、馬車は剥き出しで店の前に停められていた。
私は馬車に近づいて、車輪を確認した。金属製の車輪に、何か強い弾力のあるものが塗りたくられている。
……やはり、これはゴム。ディルツにはまだ珍しい、最新の化学素材だ。金属部分と同じ色に塗られ隠されているが、走る音で、普通の車輪ではないのは明らかだった。この轍を追ってここまで来るのは、それほど難しくなかった。
私は居酒屋の扉を開けた。
「――おん? いらっしゃいお嬢ちゃん! 飲める年かい?」
愛想のいい店主をとりあえず無視して、店内を一瞥する。
外観から想像した通り、粗野な建物だった。
木製のテーブルと椅子が雑然と並び、客たちの賑わいと、煙草の煙、それに酒の香りで満ちている。
私は、端の方にある目立たない席に腰を下ろした。ウェイターに簡単な料理を注文し、食事に集中しているふりをして、他の客に視線を配る。
数テーブル先――オラクル国の民族衣装らしい、派手な色合いの服を着た連中が、酒瓶を片手に談笑していた。
……全員、ディルツ語で……。
「――で、やっとこさ口説き落としたわけよ、半年がかりで! この日なら両親がいないからって!」
「そりゃあ行かないわけにいかないわな。で?」
「いいところで、旦那が帰ってきやがった! しかも赤ん坊つれてよぉー。なにが両親だ、おまえが両親じゃねえかって話!」
「そいつぁひでえや、ぎゃっははははは」
……彼らがオラクル人だという話は最初から胡散臭かった。ネイディブなディルツ人がわざと片言風に喋っているような違和感があったのだ。そして今、城を離れた彼らのディルツ語は流暢なものに直っている。
やはり彼らはディルツ人――そして話し方や言葉の選び方、それに軍人特有の冷静さ。見た目こそ荒々しいが、訓練された兵士であることは間違いない。
オラクル人のふりをしたディルツ兵?
なぜ。そして一体、誰の命令で――?
私は、じっとテーブルの上のジョッキを見つめていた。
もうしばらく聞き耳を立てていたが、彼らはすっかり酔っ払い、もはや下品な雑談しかする気が無いらしい。このまま盗み聞きしていても、肝心なことは出てこなそうだった。
……情報が欲しい。これ以上を得るためには、もっと大胆に動く必要がありそうだ。
かくなる上は――。
「潜入するしかないか……」
私は立ち上がった。
店主に声をかけ、まず支払いを済ませる。同時に、その数倍ぶんの金貨を握らせた。目を剥く店主に、私は人差し指を当てる。それから私はそっと店主に耳打ちした。
下町の店主は、こういう頼まれごとになれていたらしい。無言であともう一枚の金貨をねだってから、私の指示通り、奴らの前に進んでいった。
「やあみなさん、良い飲みっぷりだね。実は秘蔵の酒と肴があるんだ。感想を聞かせておくれ」
「ん、なんだ? おれ達はもう帰るところだったんだが」
「そうは言わずに。サービスするからさ」
そこまで言うなら……と腰を下ろす輩たち。
私は急いで席を離れ、店の裏口からバックヤードに入った。
人目の届かない隅で手荷物を開き、中の物を引っ張り出す。深紅のチュニック、緑に染め上げられた革のベルト。真鍮の留め具がいちいち光を反射する。マントは孔雀の羽のような青緑色、縁には細かなビーズが連なっている。このセットを羽織ると、すれ違う者が目を剥いて振り返るほど派手になる。潜入捜査だからって、隠れる必要はない——『私』は目立つことで生きる、吟遊詩人なのだから。
リュートを抱え、一度だけ深呼吸。そして私は、顔面に笑みを貼り付けた。
賑わう店内に飛び込んでいく。珍しい酒に夢中になっていた連中は、大胆に近づく私に気付くのが遅れた。私は彼らの側に立ち、いきなりリュートを掻き鳴らした。
「お楽しみ中、失礼します! 今日の良き日、酒の肴に一曲いかがでしょうか御大尽」
「あん? 曲ぅ? なんだおめえ」
酔った男が目を蕩けさせて振り返る。
私はにっこり笑って見せる。じゃらじゃらと弦を鳴らしながら。
「はいどうも、流しの吟遊詩人ってやつでございます。音楽の都スフェインから参りました。一曲いかがですか?」




