ただいまグラナド城!
その日、わたし達は宿を取った。
日が暮れてしまい、夜道を馬車で走るのが危険だからというのと、もう少しだけ二人の時間を取りたかったのと、半分ずつで。
街から少し離れ、あまり人気のない街道の宿。林の中にひっそりと佇むコテージである。
客一組につき一つの建物が貸し切りで、明日の朝食まで、誰の邪魔も入らない。
静かな夜だった。まるで世界から隔絶されているかのよう。
簡素なカウチに並んで座り、窓から差し込む月光を、意味もなく眺めていた。
ディルツの春の、夜は凍てつく。
室内には石造りの、小さな暖炉があった。
キュロス様は時々暖炉を覗き込み、火が絶えないよう調整してくれる。屈んで丸まった背中に、わたしは何か、猛烈な愛おしさを覚えた。
暖炉の火がぼんやりと壁に影を落とし、その光と影が揺れ動く。薪が燃える、パチパチという音だけが室内に響いていた。
いつも賑やかなグラナド城とは違う、静かな空間。ずっと無言でも、気まずさなど少しも感じなかった。彼と二人きり、この素敵な場所で過ごせることに、胸が高鳴るのを感じていた。
遠く、外からは夜に生きる鳥の声がする。風が木々を揺らす音、花が散る音……キュロス様はわたしの隣に戻ってくると、腰を下ろすなり、わたしの肩に手を置いた。浅い口付けをしてから、胸に抱く。
「急だったから、こんな場所にしか宿を取れずすまなかったな」
わたしは首を振った。
「いいえ。とても素敵な部屋だと思うわ。あなたとわたし、ふたりだけの世界のようで……。少しだけ寂しいけれど」
「今度は娘や、侍従達も連れてこよう。お弁当を持って、みんなでいっしょに」
「そうね。とても楽しそう」
キュロス様が、わたしの手をそっと握る。わたし達はもう一度キスをして、無言の会話を楽しんだ。
彼の体温や息遣い、わたしの肌を滑る手、すべてが安らぎを与えてくれる。彼がいかにわたしを大切に想ってくれているか。暖かな灯火と共に、心に深く染み込んでいった。
何度か浅い眠りと緩やかな覚醒を繰り返しているうちに、いつの間にか、窓から明るい光が差し込んでいた。夜が明け始めたのだ。
「マリー、そろそろお腹が空いていないか?」
キュロス様の問いに頷くと、彼はベッドから起き出した。
わたしが服を着ている間に火を熾し、昨夜のうちに宿が用意してくれていた食材を温め、調理していく。
ちょっと固いパンに、溶けたチーズとハムを挟み込む。それと、真っ白な湯気をもくもく立てているコーンスープ。
「あちちっ……」
わたしがパンを持ちあぐねていると、キュロス様が奪って、食べやすいサイズに千切ってくれた。とろけたチーズが橋渡しになっていた。口に入れると、香ばしいハムとチーズの香り、素朴な味わいが広がった。
「美味しいです」
わたしがそう言うと、キュロス様は優しく微笑んだ。
「グラナド城ではこういうの、なかなか食べる機会がないからな。こうして二人きりで過ごす時間も」
わたしは頷いた。本当にどのくらいぶりだったろうか。こうして二人で、まるで初恋が実ったばかりの若い恋人同士のように過ごすのは。
わたしはパンを持ったまま、頭を横に傾けた。そうするだけでキュロス様の肩に耳が付く。この距離がとても嬉しかった。
「……幸せ」
「城に帰りたくない、か?」
そんなことを問われて、わたしは一瞬頷きそうになってから、すぐに首を振った。
「リサが待ってるわ。それにミオやリュー・リュー様、お城のみんなとも、何日も離れるのは寂しいだけ」
「……そうだな。俺もそう思う」
キュロス様は頷いた。
「貿易で、何日も留守にすることがあっても楽しく働いていられるのは、その間、城で家族が楽しく暮らしていると知っているからだ。いつ帰っても君達がいると分かっているから。失うことなど無いと、信じているから……」
「キュロス様?」
なんとなく、彼の声がいつもと違う気配を纏っているように感じた。
彼は目を閉じ、自分に言い聞かせるようにつぶやいていた。
「帰る場所があるから、出かけることができる。そうでなければ何もできないって、俺はそう、実感したよ」
キュロス様がわたしの手をそっと取る。その手は冷たく、血の気が引いていた。
「そばにいてくれ、マリー。俺が強くあるために」
「……それはわたしのセリフだわ」
わたしは苦笑してそう返したが、キュロス様は「いいや」と反論した。
「俺のセリフだ。大切な人から愛されて、色々なものを与えてもらって、強くあれる。……俺のことなんだよ、マリー」
意味がよくわからなかった。だけど彼が本心からそう言っているのだけは伝わる。
わたしはきゅっと締め付けられるような痛みを覚え、胸元を押さえた。いつも優しく凛々しくて、頼り甲斐のある夫の横顔が、幼い迷子のように見えた。縋るような視線が、どうしようもなく愛おしくて……。
わたしは彼を抱きしめた。
「……足りないものは、何でも言ってください。わたしが全部あげるから」
キュロス様はわたしの腕の中で、何か堪えるように、じっとしていた。わたしの肌に頬を摺り寄せ、呟く。
「俺は、どんな環境でも、生活する自信がある。君とリサ、家族と穏やかに過ごせるならば幸福だ。そうでないなら、それは不幸だと思う」
「……はい。わたしも、そう思います」
「家族を守ることが最優先――それは揺るがない大前提。そのうえで、可能性の話を……君には話しておきたい。……ただの可能性、いや、愚痴のようなものだ。聞き流して……忘れてくれていい」
わたしは彼の言葉にじっと耳を傾けた。
キュロス様は、わたしに嘘を吐いたことがない。
だけどすべてを語ってくれたわけではない、隠したままの本音、弱みがある。わたしは今まで、あえてそれを掘り起こそうとはしなかった。彼がそれを望んでいないから。
だからそれを、話してくれるというならば、ただ黙って聞く。彼が言葉を語った時、それはすべて真実――彼の本心なのだから。
「……貿易商の仕事、辞めてしまおうか」
彼は静かにそう言った。
「今回のこと……色々と不可解な点がある。今はまだ解決の糸口は見えず、苦しく面倒な戦いが長く続くだろう。――それはいい。俺はもっと苦しい状況から、同業他社を蹴散らしてきた。むしろ試練が厳しいほど楽しかった。……前のめりに倒れたならば、それまでのこと。何も怖くなかった。俺の家族、背後の城にいる住人は、俺よりも強かったから」
――キュロス様は、十六歳の若さで伯爵位を賜った。
父、アルフレッド公爵が持つ広大な領地と資金、イプサンドロスからの移民である母リュー・リュー様の人脈を用いて、運河を引き、市場を統治し、貿易商として成功した。
姉弟のように育った侍女のミオ、万物に通じた老獪の執事ウォルフガングも、彼の支えであったろう。そう、彼は人に支えられて進んできたのだ。
「背負っているつもりで、ただ背中を押されていただけだった。……本当に無力な赤ん坊を背負って、初めてそのことに気が付いたよ」
「……わたし達が重いですか?」
わたしは尋ねた。彼はすぐに首を振った。
「まさか。むしろ今となっては君たちも俺の支えだ。錨のない船で海に出ることはできない」
わたしには、彼の言っていることがあまりよくわからなかった。
男と女の違いか、家長とその妻という立場のせいか。
……共感できなくても支えることはできる。わたしは黙ってキュロス様の話に聞き入った。
「今回の、ハドウェルとのいざこざがうまく片付いたとしても、きっとこれからも、何度か似たようなことがあると思う。そのたびに、俺は戦う。ディルツ中を駆け、たくさんの人に頭を下げて協力を仰ぐだろう。時には海を渡って、何日も――何年も国に帰れないかもしれない。貿易商とは、そういう仕事だ」
……承知して、嫁いだつもりだった。わたしは。
「君が望むなら――いや、この言い方は卑怯だな……」
キュロス様は慎重に、言葉を紡ぐ。
「俺は――俺が、家族を置いて出かけるのが、怖い。ある日突然、失ってしまう気がして」
キュロス様はそう言って、自身の腕に爪を立てた。
彼には選択肢がある。それは恵みであり、残酷な試練でもあった。
グラナド家は王家の傍系を祖とする、誇り高い公爵家。側室の子でありながら唯一の男児であった彼は、アルフレッド亡きあと、公爵の位と領地を継いだ。
『グラナド公爵邸』は、ディルツの外れ、国境近くにある豪邸だった。彼は幼少のうちに生家を出て、あのグラナド城へと移り住んだ。ディルツ王国最強の城塞は、泰平の世には権威の象徴であり、貿易商には使いやすい倉庫となった。心地のいい館に私室を作り、百人の従者は気の合う者だけを取り集め、楽しく暮らしていた。
仕事で留守にする時は、頼りになる侍従頭に城を任せて。
わたしはハッと息を呑んだ。
「もしかしてキュロス様――ミオが、城を出て行こうとしているの、聞いて……」
キュロス様は頷いた。
……そっか。そうよね。キュロス様が知らないはずが無かったんだわ……。
「ミオの考えは、以前から薄々察していた」
キュロス様は静かに言った。
「あいつはもともと、リュー・リューを慕って、その息子である俺にも仕えていたにすぎない。今までリュー・リューは公爵邸と城とを行き来していたし、頼りない息子を支えてやってくれと命じられていたまでのこと。俺が自立し、リュー・リューの部屋が城になくなれば、ミオは離れる。それで当たり前なんだよ」
「……ミオがいなくなっても、わたしがあなたと、お城の留守を守ります」
正直、その言葉はただの強がりだった。わたしにはまだそれほどの力はないと自覚がある。
キュロス様も、綺麗事に騙されてはくれない。わたしに「ありがとう、そう言ってもらえて嬉しいよ」と言いながらも、表情は晴れなかった。
「俺は、ミオがいなくても生きていける。だが、マリーやリサがいなくなると、生きていけない。……ミオの居なくなった城に、二人を置いていくことは……俺には出来ない」
「……キュロス様……」
「俺には選択肢がある。君達への想いを断ち切って、今の貿易商を続けていく未来。もう一つ、貿易商を辞めて、公爵領の統治に専念し、家族と穏やかに過ごす未来――だ」
キュロス様の声は静かだが、言葉の一つ一つが重かった。
彼は嘘をつかない。そしてただの愚痴、弱音をわたしに聞かせることもない。
だからこれは、尋ねているのだ。わたしの気持ち――わたしは彼にどちらを選んでほしいのか、自分はどうしたいのか、意見を聞いている。どちらの未来が幸せなのか、わたしに選択を委ねている。
「……俺は……もし君が、俺にワガママを言ってくれたなら……俺が持つすべての物をなげうって、自分のそばにいてくれと願ってくれるなら、そうする。グラナド城を出て、リサと三人だけでも、穏やかに、幸福に過ごせるというならば……俺は従う。君達がそばにいてくれるなら、俺はどこで、どんな仕事だって続けることができる」
「…………」
「マリー、君の話が聞きたい……」
わたしは深く息を吸い込み、キュロス様の真摯な眼差しを見つめ返した。
わたしの話――わたしの覚悟――。
気持ちを口にするだけならば簡単だ。だけどその決断は、決定を伴う。
どちらの選択肢も、彼の人生を変えてしまう。
わたしは――わたしが願うのは――。
「……考える時間をください」
わたしは、静かにそう言った。
キュロス様も、わたしの言葉を理解してくれたのか、うなずいて優しい表情を浮かべた。
「わかった。無理に急がせるつもりはないよ、マリー」
わたしは思わずホッと息を吐き出した。
改めて思う。わたしは、わたし達は未熟だ。自由と自立を求めながらも、ひとりでは決断すらできなくて、誰かに決めつけてほしいと思ってしまう。
幸福になりたくて、不幸になりたくなくて、その責任を誰かに取って欲しいと思っているんだ。
……今は、まだ……。
わたし達は朝食を平らげたあと、すぐに宿を出て、城へ帰還した。
二人きりで過ごした一日はとてもとても楽しかった、それなのに、白亜の城壁が見えたとたん、わたしは体が溶けるくらいに安堵した。
正門の前に立つ、トマスの顔が無性に懐かしい。
馬車を留めるなり車室の扉を開くのももどかしく、わたしは飛び出した。
「ただいま、トマス! はいこれお土産!」
「え? おかえりなさ、えっ、うわ!」
羊毛のマントを投げるように渡すと、トマスは頭から布をかぶり、わたわたと大騒ぎ。
あはは、本当に……グラナド城らしい、いつもの和やかな光景という感じ。
わたしはごめんごめんと言いつつ彼をマントから救出した。
後ろから、キュロス様が「なにをやっているんだか」と苦笑しながら降りてくる。そして突然、トマスをぎゅーっと抱きしめた。わたしのハイテンションと城主からの抱擁、謎に熱い愛情表現に面食らうトマス。
「なんなんですかぁ、いったい……っと。あれ?」
トマスは馬車のほうを見て、疑問符を浮かべた。
「ミオ様は? ご一緒に帰ってこなかったのですか?」
「……え?」
わたしとキュロス様、両方の表情が強張る。
トマスは心底不思議そうに、首を傾げていた。
「だってお二人、ミオ様とご一緒されていたんでしょ。護衛として連れて行ったんじゃないんですか」
「……そんな話は聞いていない」
「うん? あれ? でも確かに……それでお忍び用の馬車も出したし……」
トマスに罪はない。時々うっかりしているトマスだけど、これは彼の記憶違いなどではないとすぐ分かった。
キュロス様がトマスの肩を強くつかむ。
「ミオが、どこへ行ったって?」
「ええと、僕もそんなに詳しく聞いてないですけど。旦那様達のすぐ後に、城を出て行かれたんです。『後についていく。帰りはいつになるか分からないけど、心配しないで』って」
「そ――それで、ミオは一晩帰ってきていないと……?」
キュロス様も呆然と呟く。
わたしは膝から力が抜け、その場にへたり込んだ。
帰る場所があっての冒険、おかえりと言ってくれる人がいてこその旅。
たった一日で、わたしはその感覚を理解した。
同時に、キュロス様の苦悩も。
帰って来た時、居るはずのひとがいなくなっている――その恐怖を、わたしもこの日、思い知ったのだった。




