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ずたぼろ令嬢は姉の元婚約者に溺愛される  作者: とびらの
最期まで永遠に

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328/332

ただいまグラナド城!

 

 その日、わたし達は宿を取った。


 日が暮れてしまい、夜道を馬車で走るのが危険だからというのと、もう少しだけ二人の時間を取りたかったのと、半分ずつで。


 街から少し離れ、あまり人気のない街道の宿。林の中にひっそりと佇むコテージである。

 客一組につき一つの建物が貸し切りで、明日の朝食まで、誰の邪魔も入らない。

 静かな夜だった。まるで世界から隔絶されているかのよう。


 簡素なカウチに並んで座り、窓から差し込む月光を、意味もなく眺めていた。

 ディルツの春の、夜は凍てつく。


 室内には石造りの、小さな暖炉があった。

 キュロス様は時々暖炉を覗き込み、火が絶えないよう調整してくれる。屈んで丸まった背中に、わたしは何か、猛烈な愛おしさを覚えた。

 暖炉の火がぼんやりと壁に影を落とし、その光と影が揺れ動く。薪が燃える、パチパチという音だけが室内に響いていた。


 いつも賑やかなグラナド城とは違う、静かな空間。ずっと無言でも、気まずさなど少しも感じなかった。彼と二人きり、この素敵な場所で過ごせることに、胸が高鳴るのを感じていた。

 遠く、外からは夜に生きる鳥の声がする。風が木々を揺らす音、花が散る音……キュロス様はわたしの隣に戻ってくると、腰を下ろすなり、わたしの肩に手を置いた。浅い口付けをしてから、胸に抱く。


「急だったから、こんな場所にしか宿を取れずすまなかったな」


 わたしは首を振った。


「いいえ。とても素敵な部屋だと思うわ。あなたとわたし、ふたりだけの世界のようで……。少しだけ寂しいけれど」

「今度は娘や、侍従達も連れてこよう。お弁当を持って、みんなでいっしょに」

「そうね。とても楽しそう」


 キュロス様が、わたしの手をそっと握る。わたし達はもう一度キスをして、無言の会話を楽しんだ。

 彼の体温や息遣い、わたしの肌を滑る手、すべてが安らぎを与えてくれる。彼がいかにわたしを大切に想ってくれているか。暖かな灯火と共に、心に深く染み込んでいった。


 何度か浅い眠りと緩やかな覚醒を繰り返しているうちに、いつの間にか、窓から明るい光が差し込んでいた。夜が明け始めたのだ。


「マリー、そろそろお腹が空いていないか?」


 キュロス様の問いに頷くと、彼はベッドから起き出した。

 わたしが服を着ている間に火を熾し、昨夜のうちに宿が用意してくれていた食材を温め、調理していく。

 ちょっと固いパンに、溶けたチーズとハムを挟み込む。それと、真っ白な湯気をもくもく立てているコーンスープ。


「あちちっ……」


 わたしがパンを持ちあぐねていると、キュロス様が奪って、食べやすいサイズに千切ってくれた。とろけたチーズが橋渡しになっていた。口に入れると、香ばしいハムとチーズの香り、素朴な味わいが広がった。


「美味しいです」


 わたしがそう言うと、キュロス様は優しく微笑んだ。


「グラナド城ではこういうの、なかなか食べる機会がないからな。こうして二人きりで過ごす時間も」


 わたしは頷いた。本当にどのくらいぶりだったろうか。こうして二人で、まるで初恋が実ったばかりの若い恋人同士のように過ごすのは。


 わたしはパンを持ったまま、頭を横に傾けた。そうするだけでキュロス様の肩に耳が付く。この距離がとても嬉しかった。


「……幸せ」

「城に帰りたくない、か?」


 そんなことを問われて、わたしは一瞬頷きそうになってから、すぐに首を振った。


「リサが待ってるわ。それにミオやリュー・リュー様、お城のみんなとも、何日も離れるのは寂しいだけ」

「……そうだな。俺もそう思う」


 キュロス様は頷いた。


「貿易で、何日も留守にすることがあっても楽しく働いていられるのは、その間、(いえ)で家族が楽しく暮らしていると知っているからだ。いつ帰っても君達がいると分かっているから。失うことなど無いと、信じているから……」


「キュロス様?」


 なんとなく、彼の声がいつもと違う気配を纏っているように感じた。

 彼は目を閉じ、自分に言い聞かせるようにつぶやいていた。


「帰る場所があるから、出かけることができる。そうでなければ何もできないって、俺はそう、実感したよ」


 キュロス様がわたしの手をそっと取る。その手は冷たく、血の気が引いていた。


「そばにいてくれ、マリー。俺が強くあるために」

「……それはわたしのセリフだわ」


 わたしは苦笑してそう返したが、キュロス様は「いいや」と反論した。


「俺のセリフだ。大切な人から愛されて、色々なものを与えてもらって、強くあれる。……俺のことなんだよ、マリー」


 意味がよくわからなかった。だけど彼が本心からそう言っているのだけは伝わる。


 わたしはきゅっと締め付けられるような痛みを覚え、胸元を押さえた。いつも優しく凛々しくて、頼り甲斐のある夫の横顔が、幼い迷子のように見えた。縋るような視線が、どうしようもなく愛おしくて……。


 わたしは彼を抱きしめた。


「……足りないものは、何でも言ってください。わたしが全部あげるから」


 キュロス様はわたしの腕の中で、何か堪えるように、じっとしていた。わたしの肌に頬を摺り寄せ、呟く。


「俺は、どんな環境でも、生活する自信がある。君とリサ、家族と穏やかに過ごせるならば幸福だ。そうでないなら、それは不幸だと思う」

「……はい。わたしも、そう思います」

「家族を守ることが最優先――それは揺るがない大前提。そのうえで、可能性の話を……君には話しておきたい。……ただの可能性、いや、愚痴のようなものだ。聞き流して……忘れてくれていい」


 わたしは彼の言葉にじっと耳を傾けた。


 キュロス様は、わたしに嘘を吐いたことがない。

 だけどすべてを語ってくれたわけではない、隠したままの本音、弱みがある。わたしは今まで、あえてそれを掘り起こそうとはしなかった。彼がそれを望んでいないから。


 だからそれを、話してくれるというならば、ただ黙って聞く。彼が言葉を語った時、それはすべて真実――彼の本心なのだから。


「……貿易商の仕事、辞めてしまおうか」


 彼は静かにそう言った。


「今回のこと……色々と不可解な点がある。今はまだ解決の糸口は見えず、苦しく面倒な戦いが長く続くだろう。――それはいい。俺はもっと苦しい状況から、同業他社を蹴散らしてきた。むしろ試練が厳しいほど楽しかった。……前のめりに倒れたならば、それまでのこと。何も怖くなかった。俺の家族、背後の城にいる住人は、俺よりも強かったから」


 ――キュロス様は、十六歳の若さで伯爵位を賜った。


 父、アルフレッド公爵が持つ広大な領地と資金、イプサンドロスからの移民である母リュー・リュー様の人脈を用いて、運河を引き、市場を統治し、貿易商として成功した。

 姉弟のように育った侍女のミオ、万物に通じた老獪の執事ウォルフガングも、彼の支えであったろう。そう、彼は人に支えられて進んできたのだ。


「背負っているつもりで、ただ背中を押されていただけだった。……本当に無力な赤ん坊を背負って、初めてそのことに気が付いたよ」

「……わたし達が重いですか?」


 わたしは尋ねた。彼はすぐに首を振った。


「まさか。むしろ今となっては君たちも俺の支えだ。(いかり)のない船で海に出ることはできない」


 わたしには、彼の言っていることがあまりよくわからなかった。

 男と女の違いか、家長とその妻という立場のせいか。


 ……共感できなくても支えることはできる。わたしは黙ってキュロス様の話に聞き入った。


「今回の、ハドウェルとのいざこざがうまく片付いたとしても、きっとこれからも、何度か似たようなことがあると思う。そのたびに、俺は戦う。ディルツ中を駆け、たくさんの人に頭を下げて協力を仰ぐだろう。時には海を渡って、何日も――何年も国に帰れないかもしれない。貿易商とは、そういう仕事だ」


 ……承知して、嫁いだつもりだった。わたしは。


「君が望むなら――いや、この言い方は卑怯だな……」


 キュロス様は慎重に、言葉を紡ぐ。


「俺は――俺が、家族を置いて出かけるのが、怖い。ある日突然、失ってしまう気がして」


 キュロス様はそう言って、自身の腕に爪を立てた。



 彼には選択肢がある。それは恵みであり、残酷な試練でもあった。

 グラナド家は王家の傍系を祖とする、誇り高い公爵家。側室の子でありながら唯一の男児であった彼は、アルフレッド亡きあと、公爵の位と領地を継いだ。

 『グラナド公爵邸』は、ディルツの外れ、国境近くにある豪邸だった。彼は幼少のうちに生家を出て、あのグラナド城へと移り住んだ。ディルツ王国最強の城塞は、泰平の世には権威の象徴であり、貿易商には使いやすい倉庫となった。心地のいい館に私室を作り、百人の従者は気の合う者だけを取り集め、楽しく暮らしていた。

 仕事で留守にする時は、頼りになる侍従頭に(いえ)を任せて。


 わたしはハッと息を呑んだ。


「もしかしてキュロス様――ミオが、城を出て行こうとしているの、聞いて……」


 キュロス様は頷いた。


 ……そっか。そうよね。キュロス様が知らないはずが無かったんだわ……。


「ミオの考えは、以前から薄々察していた」


 キュロス様は静かに言った。


「あいつはもともと、リュー・リューを慕って、その息子である俺にも仕えていたにすぎない。今までリュー・リューは公爵邸と城とを行き来していたし、頼りない息子を支えてやってくれと命じられていたまでのこと。俺が自立し、リュー・リューの部屋が城になくなれば、ミオは離れる。それで当たり前なんだよ」

「……ミオがいなくなっても、わたしがあなたと、お城の留守を守ります」


 正直、その言葉はただの強がりだった。わたしにはまだそれほどの力はないと自覚がある。

 キュロス様も、綺麗事に騙されてはくれない。わたしに「ありがとう、そう言ってもらえて嬉しいよ」と言いながらも、表情は晴れなかった。


「俺は、ミオがいなくても生きていける。だが、マリーやリサがいなくなると、生きていけない。……ミオの居なくなった城に、二人を置いていくことは……俺には出来ない」

「……キュロス様……」

「俺には選択肢がある。君達への想いを断ち切って、今の貿易商(しごと)を続けていく未来。もう一つ、貿易商を辞めて、公爵領の統治に専念し、家族と穏やかに過ごす未来――だ」


 キュロス様の声は静かだが、言葉の一つ一つが重かった。


 彼は嘘をつかない。そしてただの愚痴、弱音をわたしに聞かせることもない。

 だからこれは、尋ねているのだ。わたしの気持ち――わたしは彼にどちらを選んでほしいのか、自分はどうしたいのか、意見を聞いている。どちらの未来が幸せなのか、わたしに選択を委ねている。


「……俺は……もし君が、俺にワガママを言ってくれたなら……俺が持つすべての物をなげうって、自分のそばにいてくれと願ってくれるなら、そうする。グラナド城を出て、リサと三人だけでも、穏やかに、幸福に過ごせるというならば……俺は従う。君達がそばにいてくれるなら、俺はどこで、どんな仕事だって続けることができる」

「…………」

「マリー、君の話が聞きたい……」

 

 わたしは深く息を吸い込み、キュロス様の真摯な眼差しを見つめ返した。


 わたしの話――わたしの覚悟――。


 気持ちを口にするだけならば簡単だ。だけどその決断は、決定を伴う。

 どちらの選択肢も、彼の人生を変えてしまう。


 わたしは――わたしが願うのは――。


「……考える時間をください」


 わたしは、静かにそう言った。

 キュロス様も、わたしの言葉を理解してくれたのか、うなずいて優しい表情を浮かべた。


「わかった。無理に急がせるつもりはないよ、マリー」


 わたしは思わずホッと息を吐き出した。


 改めて思う。わたしは、わたし達は未熟だ。自由と自立を求めながらも、ひとりでは決断すらできなくて、誰かに決めつけてほしいと思ってしまう。

 幸福になりたくて、不幸になりたくなくて、その責任を誰かに取って欲しいと思っているんだ。


 ……今は、まだ……。



 わたし達は朝食を平らげたあと、すぐに宿を出て、城へ帰還した。

 二人きりで過ごした一日はとてもとても楽しかった、それなのに、白亜の城壁が見えたとたん、わたしは体が溶けるくらいに安堵した。

 正門の前に立つ、トマスの顔が無性に懐かしい。


 馬車を留めるなり車室の扉を開くのももどかしく、わたしは飛び出した。


「ただいま、トマス! はいこれお土産!」

「え? おかえりなさ、えっ、うわ!」


 羊毛のマントを投げるように渡すと、トマスは頭から布をかぶり、わたわたと大騒ぎ。

 あはは、本当に……グラナド城らしい、いつもの和やかな光景という感じ。

 わたしはごめんごめんと言いつつ彼をマントから救出した。

 後ろから、キュロス様が「なにをやっているんだか」と苦笑しながら降りてくる。そして突然、トマスをぎゅーっと抱きしめた。わたしのハイテンションと城主からの抱擁、謎に熱い愛情表現に面食らうトマス。


「なんなんですかぁ、いったい……っと。あれ?」


 トマスは馬車のほうを見て、疑問符を浮かべた。


「ミオ様は? ご一緒に帰ってこなかったのですか?」

「……え?」


 わたしとキュロス様、両方の表情が強張る。

 トマスは心底不思議そうに、首を傾げていた。


「だってお二人、ミオ様とご一緒されていたんでしょ。護衛として連れて行ったんじゃないんですか」

「……そんな話は聞いていない」

「うん? あれ? でも確かに……それでお忍び用の馬車も出したし……」


 トマスに罪はない。時々うっかりしているトマスだけど、これは彼の記憶違いなどではないとすぐ分かった。

 キュロス様がトマスの肩を強くつかむ。


「ミオが、どこへ行ったって?」

「ええと、僕もそんなに詳しく聞いてないですけど。旦那様達のすぐ後に、城を出て行かれたんです。『後についていく。帰りはいつになるか分からないけど、心配しないで』って」

「そ――それで、ミオは一晩帰ってきていないと……?」


 キュロス様も呆然と呟く。


 わたしは膝から力が抜け、その場にへたり込んだ。


 帰る場所があっての冒険、おかえりと言ってくれる人がいてこその旅。

 たった一日で、わたしはその感覚を理解した。

 同時に、キュロス様の苦悩も。


 帰って来た時、居るはずのひとがいなくなっている――その恐怖を、わたしもこの日、思い知ったのだった。

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