『人喰い魔物』の憂鬱
わたしの声に男が振り返る。
ああやっぱり!
「――ハドウェルだと⁉」
キュロス様が駆け寄ってくる。わたしはコクコク頷いた。
そうだ、キュロス様はハドウェルの特徴を噂で聞いているだけで、面識はないんだったわね。
そういうわたしも彼とは一度会っただけだけど、それでもこの姿は忘れようがない。髪や体型だけでなく、この男は顔立ちも特徴的だった。端的に言って、恐ろしい。黒々とした眉と金色の瞳、いかにも気難し気に結ばれた唇は、猛獣さながら今にも牙を剥いてきそうで……。
ああそんなことよりも、どうして?
オラクルの商人が、この王都中央市場で……それも子供向けのおもちゃ屋で、商品棚を物色しているのだろう?
混乱で声も出ないわたしと、無言のままのハドウェル。キュロス様がその間に入ってくれた。
「おまえがハドウェルか。お初にお目にかかる、俺の名はキュロス・グラナド。貿易商グラナド商会の主だ」
キュロス様もかなりの長身である。二人が並ぶと、まさに猛獣同士一触即発という雰囲気になった。わたしは震えながら後ずさるしかできない。
キュロス様の挨拶に、ハドウェルは応えなかった。無言のまま、ただじっとキュロス様を見つめている。
キュロス様がいらだちをあらわにした。
「なんとか言ったらどうだ? 俺の留守中、マリーに好き放題言ってくれたそうじゃないか。それにトマスにも……。ここで会ったのが偶然か必然か問う気はない。それより、もっと大事なことを聞かせてもらうぞ。締め上げてでも」
静かな、だけど地を這うほどに低い声。握り込んだ拳には太い血管が浮き出ていた。
――怖い。キュロス様が強いのは知っているけれど、ハドウェルの体格を見ると安心はできない。それにこんな場所で乱闘になんかなったら……。
こんな場所――そう、子ども用のオモチャ屋――で、宝石商ハドウェルは一体なにを?
しばしの沈黙――重い空気の中、ハドウェルの唇がわずかに開く。意外なくらい白く綺麗な歯並びをした口から、地獄の門が開くような音が――ハドウェルの声がした。
「…………ワタシ……ことば、わからない」
「えっ」
「……聞くは、わかる。チョトダケシカ。ゆっくり、あなた、良い?」
…………。
あっ、そうか。そういえばこの人、ヤンという通訳を付けていたんだわ。ハドウェルはディルツ語に疎く、聞き取りだけはなんとかできるけど話すのはほとんど無理だって。
キュロス様はまだよく事態を呑み込めなかったようで、シリアスな表情のまま厳しく追及した。
「通訳はどうした。本当にディルツ語が話せないならば、一人でうろつくわけがない」
「ヤン……ちっちゃい。ワタシの目、高い。目の中に入らない。……いなくなった……」
「最初は二人でいたけれど市場の人混みを歩くうちにはぐれてしまったの?」
わたしが聞くと、ハドウェルは無言でうなずいた。その表情は、なんかちょっと嬉しそう。
「宿、遠い。ヤンいないと無理。ワタシどうする?」
な、なるほど?
つまり彼は言葉も分からぬ異国の地で、ひとり迷子で、途方に暮れていると。
どうやら完全に行き詰っていたらしい、敵であるはずのわたしの顔を見て、なんだかホッとしているように見えるもの。
「あなた、オラクルのことば、できる? できたらワタシは嬉しい」
「えっ、あ……っ、す、すみません。文章の読み書きしか……」
「……俺も……チョトダケシカ」
キュロス様も、なんだか申し訳なさそうに言った。
「…………そうかァ……」
ハドウェルは顔を上げ、遠い目をした。
といってもたいへん長身な彼だから、オモチャ屋の天井はすぐ目の前にあるんだけど。
「……どうするワタシ?」
どうしようもない、この状況。何にも話が進まないけれど、ならば解散とはし辛い。商売上の因縁もあるが、個人的に、迷子の大男を放っておくのが忍びなかった。
わたしはとりあえず、オモチャ屋の店主に頼み、紙とペンをお借りした。簡単な筆記ならばわたしも出来る。オラクル語で、筆談が出来るかもしれない。
『あなたはここで何を?』
そう書いたメモを渡すと、ハドウェルは合点がいったらしく、すぐに返事を書いてくれた。
『ヤン待ち』
短い! オラクル語でも結局短い! 全然会話が弾まない!
わたしはさらに追記する。
『ヤンさんとここで待ち合わせしているということ?』
『宿を出る前から、オモチャ屋に行く予定だった。この店とは決めていなかったが、はぐれたと気付けば、いずれは探しに来てくれるだろう』
確かに、下手に動き回るよりはここで待っていた方が賢いかも。
横でメモを覗き込んでいたキュロス様が、自分もペンを取り、空白に書き込んだ。
『オモチャ屋に何しに来た。まさかショッピングに来たってわけじゃないだろう?』
ハドウェルは表情をこわばらせた。やはり何か企んでのことか、とキュロス様も眉を顰める。しかし思いのほかハドウェルからの返事は早かった。またとても短い言葉でシンプルな単語が書きこまれる。
『土産を買いに。息子と、リサちゃんに』
「えっ?」
思わず生身の声が出る。
ハドウェルはわたしの顔を見て、にっこり笑った。鋭い双眸が細められ、猛禽類のような金の瞳が瞼に隠れる。無骨な顔立ちにこれ以上なくやわらかな笑みを浮かべて、ハドウェルは、店のカウンターへ向かった。
先ほど紙とペンを貸してくれた店主は、ハドウェルに「やあ」と気さくな声を掛けた。
「ラッピング、出来てるよ。こっちがダミアン君、こっちがエリーザベト嬢の」
ハドウェルは包みを受け取ると、ジェスチャーで礼を伝え、またこちらへ戻って来た。心なしか足取りが上機嫌。
ピンクの包みに金リボンの箱を手渡される。
「え……ええと? えっリサに?」
ハドウェルはこくこく頷いた。それからまた紙を持ち、ペンを走らせる。
『開けて見てくれ』
「いやラッピングしてもらった意味は」
キュロス様は半眼になりながらも、中身への心配が勝ったのか、恐る恐るリボンを開く。
箱の中には木製のオモチャ、馬車の模型が入っていた。片手より少し大きいくらいだけど、車輪部分がちゃんと回る精巧な作り。これ結構高価なんじゃないかしら。
ハドウェルはちょっと照れくさそうに後ろ頭を掻きながら、自分の息子用だという、もう一つの箱を胸に抱く。
『息子にも同じ物を買った。この模型はよく出来ていて、美しいのに丈夫だ。壁に向かってぶん投げても、踏んでも蹴っても壊れない。リサちゃんにもぜひ』
「うちの娘はそんな乱暴な遊び方はしない」
キュロス様が仏頂面で呟く。オラクル語で筆記はしないあたり、プレゼントに悪意が無いとちゃんとわかって、照れ隠しのようなものである。
「あ……ありがとうございます。娘は細工物が好きなので、喜ぶと思います」
ハドウェルはとても嬉しそうな顔をした。
……なんだか……すごく意外。
うちの娘にプレゼントを選んでくれたこともだけど、お子さんがいること、結構子煩悩っぽいところも、何もかも、不思議な感覚だった。
この人……宝石商ハドウェル・デッケンはグラナド商会のライバルだ。キュロス様の留守を突きわたしに詐欺の契約を持ち掛けてきた。それにまだ証拠はないけれど、トマスを誘拐しようとしたのもおそらくは彼の手の者。
わたし達に害なす者――悪い人――のはずなのに。
どうしてこんなに、優しい笑顔ができるの?
隣を見ると、キュロス様が複雑な表情をしていた。わたしも彼も、この男の真意を測りかねていた。尋問したいのはやまやまだけど、言語の壁がもどかしい。
ハドウェルがまた、紙にペンを走らせる。
『ディルツの技術は世界一だ。オラクルの科学技術も優れているが、こういった繊細な作業は熟練の職人によるものだろう』
その言葉に、わたしも心を動かされた。わたしは嬉しくなって、軽やかにペンを走らせた。
『そう言ってもらえて、誇らしい気持ちです。実はわたしの姉も職人です。釦屋の工房で、宝飾品の製造や、衣服をデザインから起こして仕立てています』
『それは素晴らしい。ぜひ一度商談の機会を設けたい。今回の件が落ち着いたら……』
――その時だった。
突然、店のドアが勢いよく開いた。けたたましい足音とともに、小柄な青年が飛び込んでくる。――ヤン。
「ハドウェル! やっと見つけたぞ!」
彼の顔は怒りに満ちていた。まるで横暴な父親が子を叱るように、大声でまくしたてながら大股で歩み寄ってくる。
オラクル語――だけど語気の荒さがそのまま伝わる。ひどく乱暴に、ヤンはハドウェルを叱責していた。ハドウェルもオラクル語で答える。
「勝手な行動しやがって。一人でうろつくなって言っただろう!」
「……うろついていない。はぐれてしまった後は、ここが一番待ち合わせしやすいかと判断したまで」
「そもそもはぐれるんじゃねえよ、このウスノロが――さっさと行くぞ。ガキへの土産なんざ、宿の備品でも盗って行けばそれで――」
と、話している途中でわたし達に気が付いたらしい。ハッと身を強張らせるヤン。
こちらが声をかけるより早くハドウェルの腕を殴り、ヤンは店を飛び出した。ハドウェルも後を追う。
「あっ! ハドウェルさん、あの――」
わたしは思わず呼び止めた。歩き始めたそのままの姿勢でハドウェルが止まる。
「あっあの……オモチャ、本当にありがとうございました」
彼はまたニッコリ笑って、去って行った。
その笑顔は、やっぱり、人喰魔物なんかには見えなくて……。
キュロス様も苦い表情で立ち尽くしている。複雑な気持ちが胸に渦巻いていた。




