気分転換に行きましょう!
グラナド城の馬車は、頑健かつ美しい物だった。
黒鉄を主にした外装に、金銀と螺鈿をふんだんに使った装飾。車内はわたしとキュロス様の二人だけだともったいないくらいに広い。
馬もまた美しかった。厩番のアダムが精魂込めて世話をしている黒馬は、大きく筋肉質で、それでいて毛並みは艶々で、力強いが、とても穏やかな性格をしている。
抜群の乗り心地にくつろぎながら過ごすこと、小一時間。
到着しましたと御者に導かれ、わたしたちは地面に降り立った。
「……ああ、この街に来るの、本当に久しぶりね……」
わたしが呟くと、キュロス様も目を細めて頷いた。
とても、賑やかなところだった。大きな道路沿いにわたしたちのもの以外にいくつも馬車が停まっている。百貨店や銀行、ホテルや飲食店らしい大きな建物が並んでいて、角ごとに細い横道がある。その小道の先には、庶民向けの市場がある。わたし達の目的はそこだった。
「さて、まずは先に馬車を預けようか」
「それと、着替えもですね?」
わたしが言うと、キュロス様は嬉しそうに笑った。
今、わたし達はいつも通り、グラナド城で過ごすための煌びやかな衣装である。こういう格好で市場を歩くと、高値を吹っ掛けられたりスリに狙われたりとろくなことがない。だからわたしがアナスタジアを訪ねる時は馬車を店先まで着けるのだけど、キュロス様が市場を歩く時は身分を隠し、市民のような服装で、あえて護衛を付けずに行くのだとか。
「実はただの、俺の趣味でもあるけどな。学生時代から、よく息抜きに遊びに来ていた。ずっと『グラナド公爵令息』と扱われるのが息苦しかったから」
以前来た時と同様、馴染みの馬車預り所に顔を出す。受付の男は、キュロス様を見て背筋を伸ばした。
「やあ、グラナド伯爵! いや公爵様ですね、いらっしゃい!」
「ああ、毎度。馬車の預かりと、いつもの衣装を頼むよ」
「はいよ、いますぐ! ではでは奥様も、こちらへどうぞ」
導かれた先には更衣室があった。もちろん、男女で分かれている。二度目なので戸惑うこと無く、わたしは中に用意されていた服をお借りした。着替えて戻ると、待っていてくれた受付人が歓声を上げる。
「おお、これはこれはよくお似合いで! 人妻とは思えない清楚華憐さですなあ!」
「そ、そうかしら? だったら、良いんだけど……」
わたしは赤面しながら鏡の前に立ち、自分の全身を映してみた。
一般的な王都の庶民、町娘の洋服である。素朴なレースのついたブラウスに、たっぷりと布を取ったロングスカート。色もシルエットもシンプルだけど、歩くたび大きく翻るスカートが可愛らしい。毛糸のソックスと柔らかなヤギ革の靴で、肌への当たりがとても柔らかい。。
お城のドレスも素敵だけど、こういう格好も大好きだ。動きやすくて軽やかで、なんだかいっぱい歩きたい気分になるわ。
でもちょっと、可愛すぎるかも? こんな少女のような格好、受付人の言う通り既婚者なのに、はしたないと思われないかしら。
不安で鏡とにらめっこをしていると、不意に後ろから、スッと一つ、髪飾りが差しこまれた。
キュロス様だ。
わたしよりも頭一つぶん長身の、端正な顔がわたしを見下ろしていた。
「よく似合うよマリー、とても可愛い」
「あ――ありがとうございます。……キュロス様も、すごく素敵、です」
わたしが言うと、彼は微笑み、「そうだろう」と言わんばかりに胸を張った。
ふふ。キュロス様ってこういう時、謙遜をしないのよね。する必要もないけど。実際、本当に彼は素敵なひとだもの。
キュロス様は上下とも細身の黒に、牛革のロングブーツ、ゆったりとした白いジャケットを羽織っていた。シンプルなシルエットは、彼の長身とスタイルの良さを際立たせている。艶やかな黒髪をうなじのあたりで軽く結わえ、すっかり軽装、という出で立ちだった。
「さて、お互い動きやすい格好になったところで、さっそく行こう。今回はまず先に用事を済ませ、ショッピングはそれからだな」
「まずはナージ・ルーの服屋さんへ行くのですね?」
「ああ、人混みを突っ切ってまっすぐ歩く。途中ではぐれてはいけないから――」
彼がすべてを言い終えるより早く、わたしは彼の手を取った。大きな手、長い指に自分の指を絡ませて、しっかりと繋ぐ。キュロス様はニヤッと笑った。
それきり二人とも何も言わず、ただクスクス笑いながら、手を繋いで歩き始めた。
――グラナド城にやってきて、もうすぐ三年……あの時と変わらない温度で、彼はわたしの手を握ってくれた。




