揺れてしまいます……
異変はゆっくりと起きた。
「――マリー様? マリー様!」
チュニカの声でハッと覚醒し、目を開ける。すると視界に、口紅が唇を大きく越えて頬まで赤線が描かれた、間抜けな自分の顔があった。
「わ、わわわ……」
慌ててオイルを沁みこませた綿を使い、頬を拭う。
わたしったら、ドレッサーの前でメイク中に居眠りをしていたらしい。
鏡越しに、背後で髪を整えてくれていたチュニカと視線が合う。彼女はわたしのドジを笑っているかと思いきや、何やら真剣な顔をしていた。
「大丈夫ですか、マリー様。ちゃんと寝てらっしゃいます……?」
「え、ええ。……大丈夫よ。たまたま、ぼーっとしちゃっただけ」
ファンデーションを塗り直しながら、わたしは明るく笑って見せた。
それでもチュニカの表情は曇ったままだったけど、声だけはいつもの柔らかな口調で、わたしの耳元に囁いた。
「ここ数日、ずっとそんな感じでらっしゃいますよ。悩み事があったら、このチュニカおねーさんに相談してくださいましぃ」
わたしは無言でうなずいた。
チュニカの言う通り、最近わたしはちょっと、変だった。
なにか気分がせわしなくて、落ち着かない。
睡眠時間は取っているつもりなんだけど、眠りが浅いのだろうか、朝の体が重だるかった。
高いヒールで歩いていると、何も無いところで躓いてしまう。わたしはヒールの無い靴を履くようにした。
――風邪でも引きかけているのだろうか。いつもより一枚多く防寒着を羽織って、わたしは朝食を摂りに食堂へ向かった。
食堂の扉を開くと、珍しく、先客がいた。
「ああマリー、おはよう」
「キュロス様。お帰りになっていたのですね」
わたしが挨拶をすると、キュロス様は軽く片手を上げて、隣の椅子を引いてくれた。
キュロス様はここのところ、あまり城に居ない。リサが三歳になる頃までは、遠出をしないよう心掛けていた彼だけど、そう悠長なことを言っていられなくなっていた。
リサの夜泣きも人見知りもかなり落ち着いたので、父親の子守りが無くても問題はないのだけど、父親大好きなリサはやっぱり寂しくなってしまったみたい。
キュロス様の顔を見ると、「あー!」と大きな声を出し、さっそく抱っこをせがんで両手を上げた。すかさず抱き上げ、膝に乗せるキュロス様。我が子の重さと体温に目を細める。
「一日城を空けて帰ってくるたび大きくなっていくような気がする。子どもの成長は本当に早い……」
「もう離乳食もかなり進んで、色んなものが食べられるようになりましたよ」
わたしが伝えると、キュロス様は嬉しそうにますます目を細くした。
リサの食事は、基本的には厨房で用意をしてもらっている。料理長のトッポに離乳食の調理経験は無かったけど、わたしが本で調べて一緒に作り、リサの好みや成長を確認しながら一緒に少しずつ学習していった。
今はもう、柔らかく、薄味であれば大人とさほど変わらない。今日は豆をトマトとブイヨンスープでよく煮込んで潰したもので、大人の視点でもけっこう美味しそうだった。
「俺が食べさせていいか?」
キュロス様が嬉しそうに言って、リサの食器を手前に寄せる。
ぱくぱく食べる娘が可愛いからっていうのは半分で、半分は、わたしがひとりでユックリ食べられるようにという配慮だろう。わたしは彼に感謝を伝え、手前にあるスープにスプーンを差し入れ……。
ん? あれ? ……どうしたのかしら。このスプーン、全然スープが掬えないわ。穴が開いているのかしら。
わたしがぼんやりしていると、キュロス様が首を傾げながらわたしの手元を覗き込み、悲鳴じみた声を上げた。
「ま、マリー、どうしたんだ。それフォークだぞ」
「えっ? ……あ、ほんとだ……」
わたしは呟いて、フォークを置き、スプーンを手に取った。今度は問題なくスープが掬え、口まで運ぶことができた。うん、おいしい。やっぱりスープはスプーンで食べるべきね。
「……マリー、大丈夫か?」
夫の声が優しく耳に届く。
彼は右手にリサを抱いたまま、左の腕を伸ばしわたしの肩を抱き寄せた。その手の温もりが心地よくて、安心する。けれど、いつものように幸福感で満たされはしなかった。胸の奥に何か闇色のものが張り付いて、彼の温度も声も、うまく奥まで沁み込んでくれなかった。
「……ありがとうございます。平気です……」
「眠れないのか? 少し、目元にクマのようなものが見える」
「やだ、キュロス様までそんなことをおっしゃるの? ちゃんと寝てますよ、本当に」
わたしは笑顔で答えたけれど、キュロス様には何か別の物が見えたらしかった。彼の鋭い目が、わたしの心の奥を見透かしているようで。
「俺は、君の体が大事だ」
「……わかっております。大事にしていただいてます……」
「俺の大事な物を、君も大切にしてほしい。自分で自分を甘やかすように気を付けろ」
甘やかさないようにじゃなく、甘やかすよう気を付けるの?
ややこしい言い回しに一瞬混乱して、理解してからフフッと笑う。
笑顔になったわたしにキュロス様はホッとしたようだ。
またリサのほうへ向き直り、リサの食事を進めていった。
その甲斐甲斐しい姿に、胸が熱くなる。
この人は本当にわたし達、妻子を大切にしてくださる方だ。普通の貴族は子育てなんてしない、それどころか跡継ぎ以外の子は名も憶えないほど興味無しってことが多いのに。
キュロス様ご本人曰く、性分から世話好きなんですって。昔から動物の世話をするのも好きで、特に餌を上げるのが楽しくて、小さい頃は厩に通い、厩番と一緒に厩舎の掃除までしていたという。
「動物の餌やりと子どもの食事を一緒のように語ると、将来リサに怒られるかな」
そんなことを言って、穏やかに笑っている。
わたしはその横顔を眺めていて……なにか急に、切なくなった。
「……キュロス様、今いろいろお忙しい時なのに、お手数をおかけして、ごめんなさい」
独り言みたいにつぶやくと、彼は一瞬だけ無言になった。
「……俺もリサの親だ。その世話をして、君に謝られる理由は無いと思うぞ」
彼の言葉はいつも優しくてわたし達への思いやりに満ちている。本当に……こんな人が童話の世界の外にいたのかと、信じられないくらい。
わたしは頭を横に傾けて、彼の腕にもたれた。袖の布越しにほんの少し、キュロス様の体温が感じられる。少しだけ不安が和らいでいくような気がした。
「マリー、体調が悪いのか? 熱を出しているとか」
キュロス様はわたしの額に手を当て、体温を測った。熱が無いと分かっても、キュロス様はホッと安堵はせず「疲れが出ているのかな。無理をするなよ」ともう一度囁く。
無理は何もしていない、本当に。むしろやることがなくて暇をしているくらいだ。
それがかえって良くないのかもしれない。じっとしていると、悪いことばかり考えてしまうから。
どうしても、嫌な予感がする。あのオラクルの商人達のこと、ミオのこと。グラナド商会の未来も、城の平穏もどうなるのかわからない。キュロス様と一緒にいるだけでは解決できないことが、どれほど多いのかを思い知らされる。
「キュロス様……わたしたち、これからも一緒にいられますよね?」
何の脈絡もなく口に出したその言葉に、キュロス様は心底驚いたようだった。でも、すぐにその優しい目でわたしを見つめ、しっかりと答えてくれた。
「もちろんだ。何があっても俺は、ずっと君と一緒にいる。君とリサ、そしてこの城を、どんなことがあっても守ってみせるぞ」
彼の言葉を確認して、わたしは微笑んだ。
不安が消えたわけではないけれど、キュロス様の言葉が嬉しい。
わたしは目を閉じ、柔らかな幸福感と言いようのない不安と悲しみと、両方をじんわりと感じていた。
しばらくそのまま、穏やかに朝食を進めていった。食後のお茶でくつろぎながら、わたしは今日のキュロス様の予定を聞いてみた。すると彼は申し訳なさそうな表情をして、また丸一日お出かけになると回答した。
「そう……いってらっしゃいませ。どうぞ、お疲れの出ませんように……」
わたしが言うと、彼は少しの時間考えてごとをしてから、ふと面白いことを思いついたように目を細めた。
「なあマリー。今日、君もいっしょに行こうか」
「えっ? わたしがキュロス様のお仕事に、ですか?」
「ああ。リュー・リューが城に滞在してくれているしな。リサを預けて、二人で」
リサを預けて、ふたりで……?
「といっても今日行くのはいつもの納入先、つまり王都の中央市場だ。君も何度か行ったことがある商店だよ」
「ナージ・ルーの服屋とか、ジョバンニのジュエリーショップとか?」
「よく覚えているなあ、そうだよ」
キュロス様が感心したようにうなずいてから、やはり嬉しそうに笑って、立ち上がった。
「商人ギルドや大手の取引先には、もう話はつけたが……最終的に一番ワリを喰うのは個人商店だ。あの市場で輸入品を取り扱っている店は、ほとんどうちが卸している。売り物が無くなれば店をたたむしかなくなる」
「それで……キュロス様自ら事情をお話しに行くのですか?」
「ああ。状況が変わってしまうことへの謝罪と、それでも大丈夫だと安心してもらえるよう、説明にだな」
キュロス様の微笑みに、ほんの少し苦い物が混じっていたのをわたしは見逃さなかった。
……そうね……馴染みのお店とはいえ――いや仲良くして来た人達だからこそ、こんな話したくないわよね。
「……そんな現場にわたしがついていって、お邪魔にならないかしら……」
「大丈夫。むしろ一緒に来てくれたら心強いな。みんな、君の顔を見たがっていたから」
わたしの顔を?
ああそうか、輸入品を卸しているということは『人魚の約束』を取り扱ってくれてるんだ。わたしがその着用モデルでアンバサダーなのだから、なにか新しい商法に繋がると期待をされているのかも。
「それに、仕事の合間に二人で歩き回れる時間も取れると思う」
キュロス様はそう言って、ニッコリ笑った。
「デートをしよう、マリー。久しぶりに、二人きりで」
わたしは目を丸くし、ぽかんとキュロス様を見上げてしまった。
デート……? リサを預けて、二人きりで? キュロス様と?
そんなこと、いったいどのくらいぶりだろう。王都の市場には、その先にアナスタジアお姉様の暮らす釦屋があるので時々訪ねるけれど、そこにキュロス様が付いてくることはまず無い。あのあたりに二人で出かけたのって、もしかして婚約式の前、ルイフォン様に呼ばれて宝石を見に行った時以来じゃない?
少なくともリサを生んで以来、二人きりになれる時間は少なかった。
「……行きます! 久しぶりにキュロス様と二人でお出かけなんて、楽しみです!」
わたしは笑顔で答えた。キュロス様も安心したように微笑むと、そっとわたしの手を取った。
「そう、君には気分転換が必要だ。仕事のあと、何か美味しいものでも食べて、散歩をして……のんびりしよう」
彼の優しい言葉に、わたしの胸の中にあった小さな不安が、じわじわと溶けていくようだった。




