落とすものか、絶対に。
そこに佇む青年は、わたしの夫であり、ここグラナド城の城主、キュロス様に間違いなかった。
キュロス・グラナドは、背が高い。男性の平均並みあるわたしが見上げるほど長身で、肩も胸も分厚く、戦士のような逞しい体躯を持っている。
褐色の肌と艶やかな黒髪、緑の瞳という、ここディルツ王国では異質なカラーリング。端正すぎる顔立ちは、無表情でいると少し、威圧的な雰囲気を放つ。
そんな見た目に反し、心優しく、案外剽軽なひとだと、わたしは知っている……のだけど。
何だか、今日は。
キュロス様は、わたし達の存在に気付いていなかった。ただ回廊に佇み、中庭のほうを向いていた。おそらく花園を見ているのだろうけど……花に見惚れているというよりは、なにか考え事をしているようだった。横顔に陰がある。
どうしよう、そっとしておくべきだろうか……。
わたしは躊躇しながらも、そっと声をかけた。
「キュロス様……お帰りなさいませ」
すると、キュロス様は振り向いた。わたし達の存在に気が付くと、すぐに目を細める。一瞬だけ、寂し気な表情に見えた――が、すぐに満面の笑みになり、両手を広げた。
「ただいまマリー! リサ! 会いたかったぞぉー!」
そのまま大股で駆けてくるなり、大きな体でガバアッ! と抱き着いてくる。さらにスリスリスリスリ、ものすごい勢いで頬ずり。胸にリサを抱えていたので抵抗できないわたしにやりたい放題全力で愛情表現をして、キュロス様は「はあああ」と大きく嘆息した。
「祝、家族! 至福! 幸福! 浄福!」
「え、ええ、それはわたしも……」
「ああ可愛いマリー可愛い奥さん可愛い。娘も可愛い寝顔すごく可愛い。寝ているリサを抱いて立っているマリーはもう可愛いの余剰効果で過剰摂取で幸甚ここに極まれり……」
「ちょっと何を言っているのかわからないです、けど。お帰りなさいキュロス様」
「ただいまぁぁぁあああ」
叫びながら、またもスリスリ。
後ろでルイフォン様が呆れた声を出した。
「何をやっているんだいキュロス君」
「あ、ルイフォンだ。ひさしぶり。元気か?」
わたしを胸に埋めたまま、ひょいと片手を上げるキュロス様。このお二人、一年半ぶりの再会である。いつも飄々としているルイフォン様も眉間を指で押さえて、
「……ああ、元気だよ。気持ちは分からなくはないが、もう少し押さえてくれたまえ。マリーちゃんの前で話しにくいなら」
「ん、おまえ顎にゴミがついてるぞ」
そう言うなり、キュロス様は電光石火でルイフォン様の顎髭を引きちぎった。ブチッ! と盛大な音がして、ルイフォン様は声も無くしゃがみこんだ。
ああっ痛そう!
キュロス様は本気でゴミか何かと思っていたらしい、手の中の柔毛を、ふーッと一息で吹き飛ばす。
「っく……ぐっ、こ、っつ……!」
顎を押さえて悶絶するルイフォン様。その様子で、顎髭という可能性に思い当たったらしい。キュロス様はアッと声を上げた。
「もしかして今の、髭か? すまんすまん、てっきり綿埃か何かかと。痛かっただろう」
キュロス様が言い終えるよりも早く、ルイフォン様が飛びかかり、ふたりは取っ組み合いの喧嘩を始めた。二十代半ばの、やんごとなき身分の男が二人、地面を転がってどったんばったん。仲がよろしくて何よりです。
わたしは目を細めて、ただ黙って鑑賞した。少し前のわたしなら慌てて止めようとしただろうけど、今はもう、友情を確かめ合う儀式の一種と認識しているので。
唐突に始まって、唐突に終わるのがこの二人のじゃれ合いというものである。案の定、土ぼこりを雑に叩き落としながら、二人は普通に会話を始めた。
「――そういうキュロス君こそ、いささか装いが変わったね。初めて見たよ、そんなに髪が少ないの」
「短いと言え、なにか語弊がある。これほど短く切ったのは初めてかもしれないな。別に、それほど意味があって伸ばしていたわけでもないが」
「どういう心境の変化?」
「心境ではなく、状況が変わった。リサはなぜか、俺の髪を引っ張るのが大好きでな……」
キュロス様は困ったように眉を垂れさせた。
そう、娘はなぜか父親の髪の毛にご執心。彼が抱っこをした瞬間、黒髪に向かって手を伸ばす。わたしも体験して驚いたのだけど、赤ん坊の握力って、案外強い。あの小さくて湿った手で髪を掴まれると、振りほどくこともできずに悶絶するしかないのである。
キュロス様も涙目になりつつ耐えていたけど、さすがにわたしが見かねて、抱っこはわたしが全担当しようかと提案した。
すると翌日早朝、彼の髪は指で摘まめないほど短く刈り込まれていた。今はそれが伸びて、やっと襟足に届くくらい。リサも、「痛い」の語意が分かるようになったのか、最近は引っ張ることも少なくなった。それでもまだやるので、彼が髪を伸ばせるのは、もう少し先になるだろうな……。
事情を聞いて、ルイフォン様は破願した。
「君らしいね」
その声は、どこか懐かしそうだった。
キュロス様とルイフォン様は、親友であり、幼馴染だった。十年以上かけて積み重ねた二人には、わたしも間に入ることができないものがある。久しぶりの再会のせいか、キュロス様はいつになく上機嫌だった。満面の笑み、大きな笑い声、ジョーク交じりの明るい口調……朗らかな空気に、わたしが微笑みを浮かべた直後。
「穏やかな最期だったよ」
雑談の続きのように、キュロス様はぽつりと言った。ルイフォン様も、淡々と頷く。
「ん。そうか……良かったな」
「最期は、母と俺の手を握っていた。羨ましいくらい、良い終わり方だった。父は幸せな男だった」
「……うん」
「埋葬の儀式は身内のみ、公爵邸で執り行う。明日にはあちらへとんぼ返りだ。国民への発表は後日。国葬の日取りは王宮へ任せられるか」
「わかった。王にも話しておく」
「よろしく頼む」
口調はずっと穏やかなまま、変わらない。ルイフォン様に頷くと、顔だけでミオを振り向いて、
「ミオも、葬儀には出席してくれ。おまえが花を手向ければ、父は喜ぶだろう」
「はい」
「それと、しばらくはリュー・リューのそばに」
「承知いたしました。お任せくださいませ」
深々と一礼するミオ。それを見届け、今度はわたしのほうを向く。
…………あ……っ……。
わたしの胸がズキンと痛む。キュロス様は微笑んでいた。これ以上ないほど優しく。
「マリーは国葬の時だけでいい。公爵邸はやはり、赤ん坊にも産後の体にも心地が悪い。このグラナド城で穏やかに過ごしていて欲しい」
「……は、はい。……でも……」
わたしにも何か手伝わせて、という言葉を呑みこむ。わたしがアルフレッド公爵と言葉を交わしたのは、数えるほどだけ。親族で故人を懐かしみながら悼む場において、部外者のわたしは邪魔でしかないだろう。せめて何か事務仕事でもと思っても、グラナド城ならばともかく勝手を知らぬ公爵邸。それこそ、部外者のわたしに何ができるというのか。
来るな、と、キュロス様はハッキリおっしゃった。ならばきっと本当に、来てほしくないんだわ。
わたしは素直に引くことにした。
「お気遣いありがとうございます。ではお言葉に甘えて、来る日に向けて準備だけしておきます。……あの……」
何と言葉を掛ければいいのだろう。息苦しい、胸の上で手を握って、わたしは逡巡した。何度か口を開いては閉じ、言葉を模索する。やっと出てきたのは、ただのわたしの願望だった。
「キュロス様も……お疲れでしょう。どうかご自愛くださいませ」
そう言うと、彼はフフッと、声を漏らして笑った。今度こそ、心から嬉しそうな笑顔で。
「そういう言葉を、本心から言ってくれるのだからたまらないな」
「え――あ、きゃあっ!?」
わたしは悲鳴を上げた。キュロス様ったら、いきなり身を屈めると、わたしをひょいと抱き上げたのだ。わたしの全体重が、抱いていた娘ごとキュロス様に持ち上げられる。
「なっ、なにするの? 高い、高いっ!」
「マリー、男の体がなぜこれほど太く逞しく、頑丈に出来ていると思う?」
「え、ええと。獲物を捕るため……敵を倒すため、でしょうか?」
思いついたまま答えたが、彼は首を振った。
「どんな時でも、愛する女と子どもを抱き上げて、まとめて笑わせるためだ! わははははは」
高笑いをするキュロス様。い、いや、高くて怖くて笑えないですけどっ!
わたしがきゃあきゃあ騒いだせいか、腕の中の娘も目を覚ました。状況が分かっているのかいないのか、とりあえず視点が高いのが嬉しかったらしい。きゃっきゃっと楽しそうに笑いだす。
キュロス様も笑いながら、さらにその場でくるくる舞った。
「きゃあああ高い高い怖いっ、お、落ちるぅってえっ」
「落とすものか、絶対に」
「でも、でもリサが、きゃああ」
「大丈夫ですマリー様。もし旦那様とマリー様が、リサ様を取り落としたとしても、私が必ず掬いますから」
見下ろすと、すぐそばでミオが両手を広げて「いつでも来い!」状態になっていた。そういう問題じゃないーっ。
ぐるぐる回る視界の隅に、苦笑いで肩をすくめるアナスタジアと、腹を抱えて大笑いするルイフォン様の姿が映る。
「……なにやってんだか」
「あははははは、仲良し家族だねえ」
それから、四人と赤ん坊ひとり、館で賑やかな談笑に興じた。わたしは少しぎこちなくしてしまったけれど、天寿を全うした老人の死は、嘆き悲しむよりもこうして穏やかに悼むものなのかな、とふんわり思った。そしてそれは、結構いい最期のような気がした。
男二人は酔いつぶれ、二人ともミオに首根っこを掴まれながら退場。アナスタジアはその隣室、わたしの部屋に泊めることにした。以前使っていた客室ではなく、わたし用に改装をしたわたしだけの部屋である。
「へえ、面白い家具を入れてるね。マリーの背丈に合わせたんだ?」
さすが職人、アナスタジアは部屋をきょろきょろ見回す。
そう、ほとんどの家具はわたしのためだけに作った特注品。わたしの身長は女性としては規格外なので、ドレッサーやキャビネットなどは、普通より足を高くしてもらっていた。家具だけじゃない、カーテンも絨毯も、わたし好みに新設されたものばかり。壁を一周するように付けられたウォールシェルフには、色んな小物がずらりと並んでいる。キュロス様からのお土産や、いろんな方からの贈り物、わたしが外国の市場で選び、購入した物だ。少し雑多な印象になってしまうけど、できる限り、わたしはココに飾っている。眠る前にそれらを見ると、贈り主の顔を思い出せるから。
アナスタジアは、ちょっと呆れたようにクスッと笑った。
「豪華絢爛、というよりは、使用者のこだわりと出資者の愛情が詰まった部屋ってかんじ。……マリー、この城で愛されてるのね」
「……お姉様?」
わたしは眉をひそめた。姉の言葉は、一見ただの雑談だけど、なにか含むものを感じたのだ。……そう言えばさっきも、なにか変なことを……キュロス様がまだ優しいのか、って。
「お姉様、なにかわたしに言いたいこと、聞きたいことがあるの?」
わたしが促すと、姉は長い時間、真顔で沈黙していた。わたしをじっと見つめてから、やがてぼそりと吐き捨てた。
「世の中にはね、不幸な女が好きって男がいるの」
自身の、細い手首を握りながら、アナスタジアはそう言った。
「男のフリをやめてから、釦屋で働いているとね、ほとんどの客があたしがノーマンの実娘か、借金のカタにきつい仕事をしている奉公人と誤解した。そして同情だかなんだかで、高価な商品を買って、チップをはずんでいった」
「……ああ、そういうことはあるでしょうね。それが何か……」
「うん、それはいいの。でもそのうちの何割かが、ものすごい勢いでアプローチしてきた。でもあたしは望んでここに居るって弁解すると、急に冷めた目になった。王子の妻だなんて言っていないのに、興味を失くしたようだった」
……たしかに、姉は華奢で全く職人らしくない体型だし、何より美しい。そんな彼女が、好んで働いているとは思いづらいだろう。だけどそれが誤解と分かったとたんに興味を失くす? 活き活きと働いているというなら良いことじゃないの? わたしには理解できなかった。
「思い返せばシャデラン家で『お人形』をやっていた頃から、何度かそんなことがあった……か弱くて、傷だらけの女が好きな男。それを優しいって言うのかはわからない。だけどもし、伯爵様もそうだとしたら。マリーがもう、ずたぼろでなくなったら――って」
と、言葉の途中でアナスタジアは口をつぐみ、慌てて首を振った。
「ごめん! 伯爵様のこと疑ったわけじゃないの、ふと思い出して怖くなっただけ。あなた達が愛し合ってるのなんて見てたらわかるし!」
「……え、ええ」
「ほんとごめん、忘れてちょうだい!」
アナスタジアは明るく笑ってそう言った。
――こうして、とても悲しいことがあったその日は、誰も涙を零すこともなく、穏やかに過ごした。
鈍い罅割れ音を聞くのは、もう少しあとのことだった。




