序章 イプスのコーヒーを飲みながら。
お待たせしました、連載再開です!
イプサンドロス港ホテル、オープンテラスにて。
【緊急速報! 歴史上もっとも美しいロイヤルカップルの誕生】
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『海を越えて届いた、極めて荘重なニュースである。ディルツ王の第三子であり騎士団の長を務める王子、ルイフォン・サンダルキア・ディルツが、今般、淑女との婚姻を発表した。
新たなロイヤルファミリーとなった女性の名はアナスタジア・ノーマン伯爵令嬢。アナスタジア嬢の父ノーマン伯爵は王家御用達の服飾デザイナーで、騎士団の制服のみならず王国秘蔵の財宝も手掛けたという輝かしい実績により、伯爵位を受けた職人とのこと。両者は高貴な出自と人格を兼ね備え、ディルツ国にとってますます輝かしい未来を切り拓くであろう。
なお後日、彼らは王宮を開放し大々的な結婚披露宴を執り行うとのこと。国内外から多数の賓客が招かれ、歴史に残る華々しい儀式となる予定である。我がイプサンドロス国民も、若い夫婦の誕生を心より祝福するとともに、両国間のますますの繁栄を祈念する次第である。
余談。新婦は祝福の言葉を持参した記者全員が一目見て言葉を失うほど絶世の美女であった。もとより「世界一美しい王子」の二つ名を持つルイフォン氏と合わせ「歴史上もっとも美しいロイヤルカップル」に認定するべきと、国際会議で真剣に議論されているという。』
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――と。そんな風に書かれた新聞記事を、一字一句逃すまいと、わたしはじっくり読みこんで。
「…………ふふっ」
と、思わず声が出た。
笑ってしまった口元を隠すため、コーヒーカップを持ち上げる。真っ黒な水面を傾けると、ふわっと芳醇な香りが立ち上る。イプサンドロスのコーヒーは、思いのほか濃い。
「ようお嬢さん、観光客?」
突然声をかけられて、わたしは顔を上げた。オープンカフェのテーブルすぐそばに、いつの間に近づいたのか、巨大なミルクタンクを背負った男が立っていた。
どうやらまだ少年らしい。イプスの民族衣装も、伝統的な帽子も大きめで、目元が半分隠れている。
「お嬢さん、その白い肌に赤い髪……どう見ても西洋大陸のひとだよね? イプスの新聞なんか読めないだろ、オイラが訳してやろうか」
そう言う彼の言葉は流暢なフラリア語。もちろん、ただ親切な人というわけではない。彼は飲み物の行商人だ。イプサンドロスの港町では、こうして商品を抱えて売り歩く商人が多くいた。
……ここは港のそば、貴族御用達の高級ホテルのテラスカフェ。厄介な詐欺や犯罪まがいの押し売りはそうそう現れないというけど……。わたしは警戒心を失くさないまま、つとめて平静に答えた。彼のフラリア語よりも流暢な、イプサンドロスの言葉で。
「ええ、ディルツ人よ。今朝やっとこのホテルに荷物を下ろしたばかり。だけど寝室がまだ用意できてないそうで、時間を潰しているところなの」
「おっ? ――なんだイプス語できるのか。残念、通訳の仕事は食いっぱぐれたな」
と言いながらも、彼はその場を去らなかった。斜めがけにしたカバンから、なにやらごそごそと箱を取り出して、
「じゃあこれ、コーヒーと一緒にどうだい? イプサンドロス名物のお菓子だよ」
勝手にテーブルにおいて、箱を開く。わたしは中を覗き込んだ。
指でつまめるほど小さな、パイのようなお菓子だった。口に入れなくても見てわかるほど、たっぷりのシロップに漬けこまれている。甘い砂糖とパイの香り、さらにナッツの香ばしい香り。
「これってもしかして、バクラヴァ?」
「ほほう、お嬢さん本当にイプス通だね。その通りだよ。イプサンドロスに来たからには、これを食べなきゃ何しに来たのって話さ」
「実物を見たのは初めてよ。これがバクラヴァ……本当に……ものすっごく甘そうね」
少年はフフンと笑った。
「イプスの菓子だぞ、くっそ甘ェにきまってらぁ」
「なるほど」
わたしは思わず笑って、納得してしまった。
イプサンドロスの代表的な伝統菓子、バクラヴァ。一言でいえば『シロップ漬けのナッツパイ』。薄いパイ生地を幾層にも重ね、香ばしく焼き上げたのち、シロップにまるごと漬け込んだ甘~いお菓子だ。中にはクルミとピスタチオナッツがたっぷり、粗いペースト状の餡になって入っている。
すごく贅沢で手が込んでいるように思えるけれど、起源は一千年以上前、イプスでは庶民的なお菓子。子どものころ読んだ本、『ずたぼろ赤猫ものがたり』にもこのお菓子は登場していた。わたしにとって憧れの味だった。
「イプスのコーヒーがどうしてそんなに苦いか知ってるかい? バクラヴァを美味しく食べるためさ――ってんで、コーヒーだけ飲んでるのは馬鹿のすることだよお嬢さん、さっさと買いな」
「ふふっ、酷い売り文句ね。いいわ、いただきます」
「毎度! いくつ食べる?」
「わたしは初めてだから、一個だけにしておこうかな。キュロス様は――」
……と。
わたしは言葉を詰まらせて、旅の連れ――同じテーブルに座る婚約者に目をやった。
……カフェテーブルに突っ伏し、微動だにしないキュロス様。手前に置かれたコーヒーは、全く減っていない。
「あのうキュロス様、お菓子……食べますか?」
「…………ぁー……」
キュロス様はそんな唸り声を漏らす。やっと片手を少し上げたけど、すぐに力尽きてしまう。いつも艶やかな黒髪も心なしか力なく、地面に向かって垂れている。その様子に、行商人は怪訝な声で言った。
「なんだいお連れさん、病気か?」
「そ、そういうわけではないんだけど」
「じゃあ食あたりか。でもこの兄さん、見た目からしてコッチのひとだろ? イプスの水が合わないなんてあるのかね」
「いえ……彼がこうなったのはイプスのせいじゃなくて、船にいた時からで……」
わたしは言葉を濁し、視線を隣のテーブルへ移した。そこには二人の男女が、キュロス様とそっくり同じ姿勢で突っ伏している。行商人はいよいよ大げさな声を上げた。
「なんだなんだお嬢さん、あんたの連れ、揃いも揃ってブッ倒れてんのか。逆に何であんたひとり無事なんだ?」
「そっそれはそのなんというか、わたしが思いのほか頑丈で、むしろそのせいでみんなに被害が出たというかその」
「何?」
「と、とにかくみんな病気ではないの、寝室の支度が出来次第、ホテルマンが介助してくれるって言うし、大丈夫。気にしないで」
わたしは慌ててフォローしながら、一応バクラヴァを四人分、箱ごと頂いた。今日食べられなくてもわりと日持ちするらしいし。回復してから食べればいい。
そう、彼らは病気ではない。ただ深刻な体調不良には違いなかった。
……本当に困ってしまったわ。どうしてこんなことになったのか――
思い起こしてみると、たぶん、わたしのせいなのだけど。




