第15章 帝国動乱 守護神誕生篇
海軍掌握から2月後、帝国本土西海域、オラニア海峡
「左回頭の合図を出せ!」
「左回頭旗揚げ!」
「左回頭っ!」
ユリアヌスの号令が滞りなく復唱され、帝国海軍で左回頭を意味する旗信号が振られると同時に、戦艦の船首がゆっくりと左方向へ向きを変え始めた。
ユリアヌスの座乗する戦艦を先頭に後方に続く戦艦達も左へ回頭を始め、ユリアヌスの艦隊はたちまち左方向へと進路を変え終える。
「よしいいぞ!訓練の成果が出てる!!」
嬉しそうなユリアヌスの言葉に戦艦の艦長や周囲にいた海軍兵士達も嬉しそうに口もとを綻ばせた。
海軍の訓練は至極順調に重ねられ、かつての精強な帝国海軍が戻ってきたのである。
セトリア内海で使用される戦艦は多段式の櫂船が主流で、帝国ではその内でも3段式の櫂船が最も多く配備されている。
櫂船は人力に頼るものであるため長距離や外洋の航海には向かないが、熟練してくれば舵と同時に櫂を片方だけ漕ぐ事で回頭を早めることも出来る。
また逆に風が無くとも進行することが出来るので、波が穏やかで海流風共にそれ程強くないセトリア内海では主要な船舶として交易船にも使われていた。
ユリアヌスは分散配置されていた艦隊を大きく東艦隊、西艦隊、帝都艦隊、遊撃艦隊の4つに編制し直し、それぞれの担当海域を守備させることで密貿易船や海賊船の取り締まりを積極的に推し進めることにした。
元々基礎的な訓練が既に施されていた海軍兵士や漕ぎ手達を再び叩き直すまでそう時間は掛からず、徐々にではあるが勘を取り戻した海軍兵士達の手によって成果が上がり始めているのだ。
ついこの前まで幅を利かせていたやる気の無い将官や兵士はほぼ全てがユリアヌスの手によって排除され、代わって真面目でやる気がありながら干されていた兵士達がどんどん上級職へと抜擢され、海軍は無頼集団から瞬く間に戦う集団へと生まれ変わる。
ユリアヌスは編制し直した艦隊の内、遊撃艦隊を率いて各艦隊からの応援要請や各都市の救援要請に応じセトリア内海を東奔西走中。
今日は西艦隊の担当区域である、アルテア付近に出没する南方大陸系の海賊団を西艦隊と共に退治することになっている。
間もなく西艦隊が掴んだ西方海域最大の海賊達の本拠地である。
遠目に敵の海賊らしき船影が見えると同時に、その海賊と戦っている西艦隊の戦艦達も視界に入ってきた。
その様子を遠目に見つめるユリアヌスの眉間に深い縦皺が入る。
「うん?予定より早く戦闘が始まってるな…、全速前進!!投射兵器を使っている暇は無い!このまま突撃!!」
「了解!!」
各地で追い散らした海賊達が集結した千載一遇の好機。
ここで勝利すればセトリア内海の海賊掃討にも弾みがつく。
再び旗信号が振られ、ユリアヌス率いる遊撃艦隊は一気に船足を上げて戦場へと突っ込んでゆくのだった。
同時期、シレンティウム市、薬事院
薬師達が集まる薬事院はただならぬ緊張に包まれていた。
その処置室に横たわっているのは、大神官であり、辺境護民官の妻であるエルレイシアで、普段の彼女からは想像もつかない程苦しそうなうめき声を上げている。
「ううう、叔母さま…こ、こんな…あう」
「エル、大丈夫よ、しっかり、ゆっくり呼吸をするの、焦ることは無いわ」
アルスハレアの指揮で数名の薬師がつきっきりであれこれと世話をする一方、鈴春茗達が薬湯や産湯の用意をてきぱきとこなしてゆく。
そして、その隣の太陽神殿大聖堂では、夫であるハルがアルトリウスと共に落ち着かない様子で腰掛けていた。
早朝、にわかに産気付いたエルレイシアを、大慌てでハルが抱きかかえて薬事院へと連れてきたのである。
やがて、元気な産声が太陽神殿にまで聞こえてきた。
はっと顔を上げるハルにアルトリウスが満面の笑顔で言う。
『どうやら生まれたようであるな』
「は、はい!」
がたりと椅子から立ち上がって部屋の方へふらふらと行こうとするハルをアルトリウスが制止した。
『まあ待て、しばらくは産湯を使ったり、後始末をしたりで忙しかろう。薬師が呼びに来るまで大人しくしているのである』
「は、はい」
再び椅子へ座り直すハルだったが、そわそわと落ち着かない様子で薬事院の方をずっとうかがっている。
苦笑しつつそのハルの様子を見るアルトリウス。
しばらくすると、薬事院からアルスハレアが笑顔でハルを呼びに来た。
「ハルくん、エルが呼んでるわよ」
「は、はいっ」
アルトリウスが驚くほどの敏捷さで薬事院へ向かうハルに、アルスハレアが苦笑を漏らす。
「心配なのは分かるのだけれども…」
『うむ、しかしよくぞ無事に生まれたのであるな。ご苦労だったのである』
「当然ね」
胸を張るアルスハレアにアルトリウスが催促の声を上げた。
『で?』
アルトリウスが聞きたい事柄は百も承知であったアルスハレアだが、白々しくハルが消えた薬事院への通路を見つつ素っ気なく答える。
「…なにかしら」
『…勿体ぶるのでは無いわ、分かっておるのだろう?男か女かを聞いているのである』
「さて、どちらかしらね?」
空とぼけるアルスハレアに、アルトリウスは焦れて悔しそうに歯がみする。
『…うぬ、教えぬつもりであるか?』
「見てくれば良いじゃないの」
アルスハレアの言葉に少し怯んだアルトリウスは、ため息をつきつつ答えた。
『……我は死霊ぞ、生まれ出でた子に祝福など授けてはやれん。せいぜい子に呪いが降りかかるのが関の山である、故に聞いておるのである。さあ、早く教えるのである!』
「…よくよく心配性ね。見たぐらいで呪いがかかるわけ無いじゃないの、大丈夫よ、見てきなさい」
『ううむ……』
「もし、アルトリウス殿……」
アルトリウスがうなり声を上げて悩んでいると、鈴春茗がアルトリウスを呼びにやってきた。
鈴春茗も最初アルトリウスと会った時は腰を抜かしたが、今はこういう存在だと納得をして付き合いをしているせいか、口調は相変わらずであるものの接し方は他の人々と変わらなくなっている。
『……おう、なんであるか?』
鷹揚に答えるアルトリウスへ鈴春茗が言葉を継ぐ。
「秋留殿と奥方殿が、是非に来て頂きたいと申しておりますが…?」
「ほら、ね、意地を張らず行ってらっしゃい」
しばらく考えていたアルトリウス。
しかし鈴春茗の視線を受け、更にはアルスハレアの言葉に後押しされ、アルトリウスははにかみながら徐に言った。
『……ハルヨシもエルレイシアも物好きであるな…では、失礼するのである』
薬事院の処置室に設置された寝台では、上半身を起こしたエルレイシアが生まれたばかりの我が子を抱いてハルに見せていた。
子供は2人、しかも男の子と女の子である。
「かわいい…」
赤ん坊を見て絶句するハルに、エルレイシアが微笑みを向けた。
「……頑張ってくれて有り難う、身体は大丈夫?」
「ええ、大丈夫です…」
ハルから労いの言葉を掛けられたエルレイシアは幸せそうな笑顔で答える。
『心配なさそうであるな』
鈴春茗に案内され、アルトリウスが部屋へ入ってくるとハルはエルレイシアと一旦顔を見合わせてから、一緒に頷く。
そして、2人の行動に疑問符を浮かべているアルトリウスに向かってハルが言葉を発した。
「先任、この子達に名前を授けて貰えませんか?」
「お願いします」
続いたエルレイシアの言葉に、アルトリウスが唖然とした顔で答える。
『…正気であるか?我はこの都市の残滓、死者達の司令官アルトリウスであるぞ?』
黙って頷くハルとエルレイシア。
アルトリウスはエルレイシアが差し出すように抱く2人の赤ん坊を見て、泣き笑いの顔になる。
『我にその様な…事を…』
言葉が途切れ、アルトリウスが天を仰ぐ。
涙は流れない。
泣声も無い。
しかし、アルトリウスは確かに泣いていた。
それは悔しさを表すものでは無い。
悲しみを表すものでも無かった。
ましてや恨みを、表すものでも無いのだ。
そして静かに顔を戻すとアルトリウスは古の武人が名を授けた儀式次第に則り、腰から白の聖剣を鞘ごと引き抜くと目の前にかざした。
かつては子供だけでは無く、降伏させた異民族や奴隷達を解放する際に名を与える儀式でもある武人の氏名授与。
平和な時代となり、神殿で氏名授与が行われるようになるにつれて廃れていった古式であるが、アルトリウスはこの古式で名付けられた世代である。
アルトリウスの厳かな声が部屋に響いた。
『…群島嶼の勇敢なヤマト剣士、アキル・ハルヨシ。クリフォナムはフリード族の王女にして太陽神大神官、エルレイシア。2人の子のそなたらに、我、古の軍司令官ガイウス・アルトリウスが白の聖剣と共に太陽神の陽光の下、真名を授ける』
一旦そう言い終えると、アルトリウスは男の子に白の聖剣の柄を握らせた。
『子よ、我が名を与えん、アルトリウス』
そして名を授けると、今度は女の子に剣の鞘を触れさせる。
『子よ、我が名を継承せよ、アルトリア』
そしてアルトリウスは白の聖剣を鞘からゆっくり抜いた。
『我の名授けしこの子らに太陽神の祝福と加護のあらんことを!』
アルトリウスの祝詞が終わると同時に不思議な声が部屋に響く。
『我が神官の子に名を与えし者よ、奪う者から与える者へと変わった、そなたの願いと思いを聞き届けましょう…貴方の願いは皆の願い、貴方にこそ幸あれかし』
その瞬間、温かい陽光が部屋を包む。
『ぬおっ!?』
2人の子にハル、エルレイシアと共に聖なる太陽神の陽光に包まれてしまったアルトリウスが驚きの声を上げて逃れようとするが、陽光の力は絶大でアルトリウスを縛り、果たせない。
『ぐわあっ!』
「先任?」
苦しげに叫ぶアルトリウスに驚いたハルが近寄ろうとするが、その場にいた全員が一層強い光に包まれて周囲が見えなくなってしまう。
そうしてしばらく5人を包んでいた陽光が、収まり始めた。
目をわずかに開き、そこに未だあるアルトリウスの姿を見て一旦は安堵したハルだったが、その様相に目を見開く。
「せ、先任、その姿は……」
『…ううむ、これはどうしたことか…』
驚きの声を上げるハルに、戸惑うアルトリウス。
光が完全に収まると、アルトリウスの姿が一変していたのだ。
アルトリウスが身に着けているのはそれまでの帝国製の古い鎧兜では無く、帝国の元老院議員が着用するような古式ゆかしい純白の貫頭衣に水色の楕円長衣。
楕円長衣には縦に濃い青色の筋が一本入っている。
白の聖剣は手に収まってはいるが、今の姿には何とも似付かわしくない。
『ふむ…』
アルトリウスは驚いて立ちすくんでいた鈴春茗の脇に置いてある、花瓶の花に触れた。
しかし、いつもであればたちまちの内に枯れ果てて砂と散るはずが、その白い花は全く様子が変わらない。
暫時そうして花に触れていたアルトリウスであったが、花に変化が無い事を見て取り、あちこちの木製の壁や仕切り布に触れていく。
しかし、壁や布は崩れ落ちること無く、僅かに布が揺れただけが変化らしい変化であった。
『これは……もしや』
「…太陽神様の御声がしました、おそらく、アルトリウスさんは死霊から神かそれに準ずるものに格上げされたのだと思います」
吸精作用の消えてしまった自分の手を見てつぶやくアルトリウスにエルレイシアが声を掛ける。
「そうですか、先任が神に…」
確かに格は変わったのだろうが、ハルにとっては今まで通り神に等しい先任である事に変わりは無い。
しかし、これで自分を卑下するアルトリウスを見なくて済むともなれば思いも違うというもの。
感慨深そうに言うハルであったが、次の瞬間にはぽんと手を打って言葉を継ぐ。
「あっそうだ、名前!ありがとうございます!」
「アルトリウスにアルトリア、良い名を授かりました。これからも宜しくお願いしますね、アルトリウスさん」
2人から感謝の言葉を掛けられたアルトリウスは、照れくさそうに微笑むと腕を組み、力強く答えた。
『うむ、まぁ任せるが良いのである!』




