第10章 シレンティウムの一年 夏・農業篇(その1)
監察から2週間後、シレンティウム東農場
春に蒔いた麦の種は芽吹き、順調に育っている。
今は青々とした瑞々しい葉を天に向け、伸びている最中。
帝国本土より寒冷である北方辺境にも夏が来ているのだ。
ハルがシッティウスとルルスの2人を伴って視察に出た先で見たのは、一面に広がる麦畑の青々とした景色であった。
ざざあっ
熱気と麦の葉の青臭さをたっぷり含んだ一陣の風が3人の立つ場所を駆け抜けていく。
ハルが後ろ振り返ると、風が麦の葉で出来た海の上を三角の波を作りながら遙か遠く北の台地へと向かって行くのが望見できた。
その見渡す限り緑色の大地をぼうっと眺めていると、後方から声が掛る。
「寒冷地であることを考慮しまして、今回は大麦、黒麦、燕麦を中心に植えています。圃場整備に時間が掛かってしまって冬蒔きが出来なかった事もありますが、小麦は栽培していません。おまけに大神官様の祝詞のおかげで病虫害の心配がないとなれば、今年の豊作は決まったようなものです。」
ルルスは近くの麦の葉をいじりながら説明を続けた。
「南西の湿地帯であった場所と北の台地に近い場所には黒麦を、その他の場所は大麦を植えました。牧草と燕麦は東と西の一部で栽培を開始していますが・・・私はシレンティウムでは大規模な畜産は不要と考えています。」
「それはどうしてですか?」
ルルスの言葉にハルが質問する。
アルマールやシオネウスの族民達はそれぞれ1、2頭の牛や山羊を飼っている者が多い。
また、帝国からの移住者達は鶏を連れてきた者が多く居り、シレンティウムにおいて畜産は既に行われているのだ。
「小規模で個別に行う畜産はそのまま続けて貰って構いませんが、行政府が手がけて大規模な畜産を行う事は不要と考えているんです。理由は畜産による生産品や食肉の供給が周辺地域からの移入で十分賄えている事、それらの地域に貨幣経済や販売網というものを認識させる事、それに伴う生産効率や生産手法を向上させる事、シレンティウムで本格的に始まった農業生産によって受ける打撃を補完する事などなど・・・まあ、たくさんありますが、分かり易く言うと周辺のクリフォナム人の農民達に“良い物をたくさん作れば良い値でたくさん売れるよ”という事を知って貰いたいんです。」
帝国式の最新式農法を導入しているシレンティウムに、他地域の農業が特に作物栽培で太刀打ちでき無い事は自明の理であるが、それだけでは村々に暮すクリフォナム人農民の為にならない。
それどころか廉価な食糧が入ってくれば、農民達が生産意欲や労働意欲を失い村が荒廃してしまうかもしれない。
幸い、シレンティウムは移住者が多く大型の家畜はそれ程持ち込まれていないので、畜産業については少し発展が遅れている。
クリフォナム製のチーズやバター等の乳製品は帝国内でも人気があるが、シレンティウムでも当のクリフォナム人が好きな食べ物なので飛ぶように売れていた。
ルルスはこの点に注目し、食糧自体はシレンティウムが主体となって生産をし、消費分や備蓄分以外の余剰を出来るだけ東照や帝国へ輸出してクリフォナム農村の受ける打撃を減らそうと考えていた。
そうは言っても、巨大な生産力を持つものが突然直近に現われたことで受ける打撃は小さくは無い。
価格は平準化する物であるから、シレンティウムで廉価な麦や作物が出回れば、それに引き摺られてクリフォナムの他地域でもそれらの価値が下がってしまう。
ルルスはそうして受ける打撃を補完する意味でも、周辺地域へは畜産物の生産とシレンティウムでの販売を奨励しようとしていたのである。
クリフォナムの民は畜産については意を注いでおり、豚や山羊、牛などについては古くから家畜として利用してきた。
アヒルや鶏の飼育も盛んではあるが、冬場の飼料不足から今までは最低限度の数を残して絞め、保存食料にしているのが実情である。
しかし、ルルスはシレンティウムの農業生産でこの点を改善しようと考えたのである。
「牧草や飼料となる穀物の生産は行政府主導で行い、これを周辺のクリフォナム人へ廉価で販売します。そうなれば家畜の数は増えて畜産物の生産量が上がり、安い飼料を入手できる事によって畜産物自体の価格も安くなります。」
ルルスはそう締めくくると、感心したように頷くハルに近づき、ぎゅっとその手を握った。
「このように私の知識を存分に行かせる場所を用意して頂いたアキルシウス殿には感謝の言葉もありません!有り難うございますっ!シッティウスさんも、提案を聞き届けて頂いて有り難うございます!」
「いえいえ・・・ルルスさんの知識のおかげですから。」
「礼には及びませんな、すべき事をしたまでです。」
ルルスはシッティウスからの招聘を受けた際に直ぐさま返事の手紙を送り、シレンティウムの栽培作物について自分の所見を述べていたのだ。
ルルスの知識と能力を知るシッティウスは、ルルスの手紙による提案を元に栽培する麦の播種を農民達に指示している。
小麦栽培を行わない事に難色を示した農民達も、今年限りの措置である事を説明して納得させたのはシッティウスとハルの2人である。
最初に握手した時にも感じたが、ルルスの手は年齢の割に節くれ立っており、がさがさしている上に、爪はすっかりすり減って丸々としているのだ。
おそらく熱心に土を触り、作物を撫で、鍬を握っているからだろう。
ごほん
その手にもう一度感心したハルがルルスの手をまじまじと見ていると、シッティウスがあからさまな咳払いをした。
ハルが顔を上げると、間近にルルスの潤んだ瞳があり、ハルは思わずのけぞる。
ルルスも慌ててハルから離れるが心なしかその顔が赤い。
ハルが怖いものを見るような様子でルルスを眺めているのを尻目に、シッティウスが資料を繰りながら発言した。
「籠城戦時の備蓄もありますから当分は食糧に困る事はないでしょうが、収穫の時が待ち遠しいですな。サックス農業長官の計画通り運べば、秋には誰もが驚く程の麦を確保できるでしょう・・・それから余談ですが、農業長官は余りアキルシウス殿に近づかないように、文字通りあなたが新妻から“焼かれる”ことになりますぞ。」
「は、はあ・・・すいません、つい」
「・・・」
赤い顔のまま頭を掻くルルスに、ハルはやっぱりかと言った表情で距離を置くのだった。
シレンティウム郊外、フィクトル蜜蜂牧場
陽射しも随分厳しくなってきた昼下がり。
農場の視察を一通り終えたハルはシッティウスとルルスを連れてそのままシレンティウム郊外の林へと向かう。
その林は以前ハルが指示して残したものの一つであるが、少し小高い丘になっている事から自然と残される形となった場所でもあった。
強い陽射しにハルとルルスは額から汗をにじませているが、シッティウスは手に資料を持ったまま汗一つかかずに平然と歩き続けている。
「・・・シッティウスさん、暑くないですか?」
「暑いですな。」
ハルの質問に対して全く暑くなさそうな口調で答えるシッティウスに、ハルとルルスの2人はげんなりした表情で顔を見合わせた。
その後話の接ぎ穂がなく、無言のまま歩き続ける3人。
しばらくしてようやく丘の麓に着くと、いつの間にか先頭を歩いていたシッティウスが後ろのハルとルルスに声をかける。
「ふむ、アキルシウス殿、着きましたぞ。」
シッティウスの視線の先には、手書きでフィクトル蜜蜂牧場の文字看板。
ハル達は新進気鋭の蜜蜂職人フィクトルの新たなる牙城に到着したのだ。
「おや、これはこれは、皆さんおそろいで・・・丁度良かった、これから採蜜ですのでどうぞご覧になって下さい。」
大きな麦わら帽子をかぶり、首筋には白い手布をかけ、大汗を掻きながら現われたフィクトルは訪問したハル達3人を見て相好を崩す。
フィクトルはシレンティウム郊外に蜜蜂牧場を構え、春からせっせと蜜蜂の世話を続けているのだ。
近くに建ててある作業小屋へ一旦戻ったフィクトルは、3人分の網が付いた麦わら帽子を持ってきてそれぞれに手渡す。
「私の蜜蜂たちは大人しいですが、それでも万が一と言う事もありますのでね、どうぞそれを被って下さい。」
奇妙な帽子を被った3人は、お互いの姿を見て何とも言えない表情になるが、フィクトルは全く頓着せずそのまま3人を蜜蜂の巣箱を設置してある場所まで案内を始めた。
作業小屋からほど近い所にある林の中の広場に、フィクトルの選りすぐったハチ達の住まう巣箱が幾つも置かれていた。
蜜蜂たちは盛んに巣箱から出入りし、たくさんの花粉や蜜をせっせと巣へと持ち込んでいる。
フィクトルはその様子を一通り愛おしそうに眺めた後、3人を誘って一番奥手にある箱へと向かった。
フィクトルの蜜蜂は可動式の巣板が幾つも巣箱に入れられている方式のもので、このおかげで採蜜や内部の検査に非常に便利である上に、巣やハチを傷つけずにそれらを行う事が出来る。
フィクトルは巣箱のふたを取ると、ふいごの付いた燻煙機へ木っ端を入れて火種を落として煙を立てると、ふいごを使用して煙を巣箱の中に送り込みハチ達を鎮める。
そしてハチ達が大人しくなったところを見計らって巣箱から巣板を一つ取り出した。
優しく巣板から鳥の羽を使用してハチを除けるフィクトル。
最後に薄い刃物を使って巣の上に張ってあるふたを切り落とすと、その中にはきらきらと琥珀色に光る蜂蜜がみっちりと詰まっていた。
ふたを落とされた事によってたちまち甘やかな匂いが周囲に立ちこめる。
手際の良いその一連の作業を見たハル達は感嘆の声を上げた。
「すごいですね~」
「腕は衰えていないようですな。」
「養蜂は素晴らしい・・・」
フィクトルはハル達の歓声ににっこりしながら取り出した巣板を円筒形の容器に入れ、付属している取っ手をゆっくりと回転させて蜂蜜を巣板から分離させつつ話し始める。
「ここは今までハチがそれ程いなかったようで、採蜜量がすごいですよ、いや、まだこんな所が残っていたとは!」
フィクトルの満面の笑顔にハル達も釣られて笑顔になる。
しばらくそうして取っ手を回し続けたフィクトル。
分離が終わった巣板を元に戻すと、ぶんぶんと飛び交うハチ達を避け、分離した蜜をもって3人を作業小屋へと誘った。
「ここではハチ達に蜜を取り戻されてしまいますからな、こちらで宝物を頂きましょう。」
フィクトルの案内で作業小屋へ入ると見た目よりも遙かに快適である事が分かった。
ハチが入り込まないように随所に工夫が為されているが、基本的に風通しが良く、作業に使う道具類などもきちんと整理されて置かれている。
簡素ながら寝台や生活用品も置かれている事から、フィクトルはどうやらここで寝起きしているらしい。
「夏の時期は分蜂と言いましてな、ハチが家族を分けてしまう事が度々あるので気が抜けません。こうなるとハチの数が半分になってしまうので、採蜜量は減ってしまうわ、新たな子供をたくさん育てるのでハチ達自身が蜜をたくさん使うわで大変厄介なのですよ。」
寝台を見ていたハルに気付き、フィクトルは笑いながら言うと、3人の前に取れたての蜂蜜を入れた小鉢を差し出した。
もちろん匙が付いている。
「とは言いましても、ハチの群れを増やすには分蜂させなければいけませんから、まあ、今年はそれ程たくさんは採蜜出来ませんでしょうなあ。」
どうぞどうぞとフィクトルから進められるままに蜂蜜を口にするハル。
「美味い・・・!」
匙でとろみの強い蜂蜜を少しすくい、口に入れた瞬間濃厚で芳醇な甘味が口いっぱいに広がる。
ルルスもうっとりした表情で匙を口に入れている。
その様子を見ながらフィクトルは再び相好を崩した。
「そうでしょう、そうでしょう・・・おや、シッティウス様はお代りですか?」
「えっ?」
フィクトルの言葉に驚きハルがシッティウスの方を見ると、シッティウスは無言で小鉢をフィクトルに差し出そうとしていた。
「・・・昔から甘いものには目がありませんでしてな、殊にフィクトル氏の蜂蜜は濃厚芳醇、とろみと舌触りが最高なのです。」
極々平然とした顔でフィクトルの蜂蜜をそう激賞し、ハルとルルスの驚愕を押しきるシッティウスにフィクトルがさも当然と言った顔で質問を重ねた。
「お褒め頂き恐縮です、今日はどのくらいお持ちになりますか?」
「そうですな・・・久しぶりでもあることですし、とりあえず一缶貰えますかな。支払いは銀貨で?」
「ようございますとも、早速用意致しましょう。」
にこにこ顔のフィクトルと、仏頂面のままではあるが心なしか楽しそうなシッティウスを唖然と眺めるハルとルルスであった。




