第8章 都市始動 辺境護民官の1日篇(その3)
その日の夜、シレンティウム南の城門
最近人が増えてきたシレンティウムではあるが、未だ手つかずの街区も多く、特に南街区は未だ人の住まない場所も多い。
これは東と西に開発の容易な土地が存在している一方で、南街区に近いのはかつて湿地だった土地で、まだ十分圃場整備や用水路が整っていないこともある。
しかし、南の城門は帝国からやってくる人たちが最初に目にするシレンティウムである。
このため、アルトリウスが作らせたハルモニウム時代の城門は最も華麗で威風堂々としたたたずまいをしていた。
ハルが赴任した後に装飾や補修が加えられ、大理石は夜目にも鮮やかな白色を浮き上がらせて威を新たにしている。
周囲を流れる清らかな水道水の音と相まって、周囲はまるで幻想郷のようであった。
その南の城門へ登る人影が2つ。
見張りの兵は夜間塔に登らず、城門付近を哨戒しているため、今は無人の城門。
その頂上へたどり着いたのはハルとエルレイシアの2人。
公衆浴場から一緒に帰り、夕食を共にした後、ハルはエルレイシアを散策へと誘ったのだ。
今までも時折、こういう散歩はすることがあったので、エルレイシアは特に思う所無くハルの誘いに応じた。
「うん、思った通り良い景色だ。」
「ええ、本当に、また今夜は良い月が出ていますから、一層周囲が奇麗ですね・・・」
天には満月が輝き、それを彩るように様々な色の星々が隙間無く夜空を埋めていた。
それを見上げる2人の周囲を、緩やかな暖かさを含んだそよ風がするりと抜けてゆく。
春の季節を思わせる、土と草花の匂いが混じる風が2人の気持ちを小さくざわめかせた。
シレンティウムは都市成立後初めての春をこれから迎える。
農民達は今や遅しと圃場整備に勤しみ、播種の準備をぬかりなく進めている。
市民は、これからの未来に大いなる希望を抱き、日々生活に、仕事に努めていた。
そんな思いを抱いたハルがふと後ろを見れば、そこには小さくも煌々と輝く家々の灯火。
かすかに聞こえる楽しげな音楽は、繁華街にある居酒屋だろうか。
耳を澄ませば、小さな子供のむずかる声や、赤ん坊の泣き声も聞こえるようだ。
それを窘める両親の困った声もする。
自然とほころぶ口元をそのままに、ハルはエルレイシアへ静かに語りかけた。
「聞こえる?・・・この声。」
「ええ、しっかりと。」
「見える?この街の静かな幸せが?」
「もちろんです。」
ハルが視線を戻すと、そこにはにっこりと微笑むエルレイシアの顔があった。
「おつかれさま、ハル。あなたはここで為すべき事を為しました。」
エルレイシアの言葉に、ハルは首を左右に振ると口を開く。
「今まで有り難う、ここまでこれたのはエルレイシア、君のおかげだ。」
「いいえ、私は何もしていません。私は最初に少し族民との橋渡しをしただけ、後はハル、あなたが人を集め、街を作り、戦いを経てこのシレンティウムにこんな平和と日常をもたらしたんです。」
「それでも、あの日あの時に君との出会いが無ければ、今の自分は無かったから。」
ハルはそう言いながらエルレイシアの両手を正面からゆっくりと包み込むように取り、そして自分の手で温めるように握りしめる。
「今日は、感謝とそれから・・・お願いがあって・・・」
「・・・お願い、ですか?」
嬉しさいっぱいで自分の手をハルに任せつつも、エルレイシアは少し驚いていた。
今まで彼からこういう行動を取ったことは無いからである。
目の回るような高揚感に囚われ、エルレイシアが軽く混乱していると、ハルは徐にエルレイシアの左手を開き、その中へ金色の指輪を入れた。
「ハル!これは・・・」
手の中の金色に輝く指輪を見て驚き喜ぶエルレイシアを正面から真剣な眼差しで見つめ、ハルは深呼吸してからゆっくりとその言葉を紡いだ。
ハルの言葉を、エルレイシアは胸元でぎゅっと指輪を握りしめたまま身じろぎせず聞く。
「エルレイシア、君が必要だ、今までも、これからも、一緒にきて欲しい。」
風が吹く。
春の風が、ゆっくりと吹き、街路樹の梢を揺らし、葉擦れの音を立てた。
そして戻る静寂。
「まだまだ、為すべき事はあるんだ・・・その、上手く言えないけど、エルと一緒に、為し遂げたいことがある。街のことも、2人のことも・・・そのほかのことも・・・」
「ハル!」
ハルの言葉を途中で遮るように、エルレイシアは指輪を握ったままハルに身を預けた。
そしてそのまま何も言わず顔をハルの胸に埋めると、エルレイシアは小さな声で話し始めた。
「・・・ずっと待っていました、ハル、ずっと待っていたんです。不安だったんです。」
衣服を通じて温かい湿り気を肌に感じ、ハルはそっとエルレイシアの背中に手を回した。
「ごめん、やっぱり、なかなか覚悟が決まらなくて。」
捨てられなかった故郷へ帰るという選択肢。
一度は諦めたが、楓の来訪がその選択肢に現実味を与えてしまっていたのだ。
迷いはあったが、覚悟も決めた。
「エル、不安に思わせて悪かった、でも、覚悟を決めた。一緒になってここに残るよ、例え辺境護民官をクビになってもね。」
「大丈夫です、父から授かったフリードの王位が残っています。それに、私はハルが辺境護民官だから好きになった訳ではありません。」
ハルがきっぱりそう言うと、エルレイシアは涙に少し濡れた顔をハルから離して答える。
その答えに苦笑しながらハルはエルレイシアが握りしめていた指輪をやさしく取り、その左手の薬指へそっと嵌めた。
「これは、帝国の風習、それからこっちは、故郷の風習。」
ハルは、エルレイシアの薬指に嵌まった指輪を満足そうに見て、そう言いながら背中に差していた短い守り刀を外し、エルレイシアに手渡す。
エルレイシアの普段身に付ける長衣の色に合わせ、鞘と柄は白色で揃えられている。
「これは?」
「守り刀っていうんだ。剣士の妻は必ず持つ護身剣のこと。はい、後ろ向いて。」
長衣の帯の上から剣帯で守り刀をハルに結わえられながら、エルレイシアはうっとりと月明かりに光る指輪を見つめ、ぽつりとつぶやいた。
「妻・・・」
しばらくしてハルが声をかける。
「はい、出来た。」
ハルの言葉でくるりと振り向いたエルレイシアは満面の笑顔。
「ハル、もう離しませんよ?私は何があってもあなたに付いていきます。」
「こちらこそ、待たせてごめん、これから宜しく。」
笑顔でそう言いあった2人は、しばらく見つめ合った後、そっと唇を重ねる。
ハルが、静かにエルレイシアの腰に手を回した。
暖かさを増した風が2人の周囲を舞う。
「あ・・・ハル・・・」
「・・・」
1度離れた2人は熱に浮かされたような熱い吐息を同時に吐いた。
そしてもう一度。
月明かりの下で2人は何時までも重なり合ったまま時を過ごしたのだった。
南城門、弓射設備
術で気配を消し、息を殺して遠目に2人を見守る別の2人がいる。
ぼんやりと光る方が小さな声で言った。
『ふむ、今日あたり決めると思うたわ、我の見立てに間違いなかろうが。』
「エル、よかったわね・・・」
片方はどうやら年配の女性のようで、少し涙声。
それを揶揄する男の声が飛んだ。
『何じゃ?お主泣いておるのか・・・良い歳をして。』
「・・・歳は関係ありませんでしょう、よくよく失礼な亡霊ね。」
ぐすぐすと鼻を小さく鳴らしてから抗議する女性を余所に、安堵感を出して男が言う。
『ふん、何はともあれ、ハルヨシはこれでシレンティウムに一生涯残ることを選択した。族民達も安心するであろう。』
「あなたも不安だったのでしょう?」
『・・・まあな、本音を謂わばそうである。』
女性に問いただされ、男は少し不本意そうに答えた。
「私は姪っ子の幸せだけが望みよ、ま、ハル君なら大丈夫でしょ。」
『それは心配なかろうよ。あやつ程誠実な者はそうはおらん。』
女性の声に再び男が鼻高々な様子で応えると、女性は不満そうに言葉を継ぐ。
「そうじゃないわよ、鈍いじいさん亡霊ね!子供よ子供っ」
『・・・お主・・・』
「あ~早く見たいわ~2人の赤ちゃん・・・」
男を無視し、そう言いながら重なる2人を覗く女性。
『全く、ハルヨシめに妙な薬を盛られぬよう注意しておかなくてはな・・・』
その様子に男は呆れてそう独語するのだった。




