さようならの時-09
ニルファルの言葉に、マディの表情が固まった。ニルファルが初めてマディに従わなかったからだ。
周囲の家々からは住民が出てきて、冷たい目でマディを見ている。
「お、おい……何をやってるんだ。そいつを……と、止めねえかこのグズ!」
「こ、こんな事態になって、やっと目が覚めた! どうして今まで服従していたんだろう」
「おまえ、また殴られてえのか……ぐふっ!?」
この期に及んでもまだマディは改心しない。それどころか、ニルファルだけは支配できると思って凄んでいる。レオンはその頬を躊躇いなくつま先で蹴った。
「これ、どうしたらいい?」
「好きにして下さい。もちろん、報酬も支払います」
「ニルファルのひとが払うんやないよ。こいつからもらうと」
「えっ?」
レオンはマディの頭を踏みつけたまま、慰謝料はどれくらい欲しいのかと尋ねた。タシュとローラはニルファルにしがみつき、マディを許してしまわないだろうかと不安げだ。
「ちいさいひと、こいつどうする。ごはんとかおもちゃとか、全然くれんかったんよね」
「う、うん」
「おさけに使っちゃうから、夜はいつも食べないの」
幼いローラがそう告白した時、ニルファルは情けなさと不甲斐なさで唇を噛んだ。
早くマディを見限り、逃げていれば。
いくら両親が揃っていても、母親は泣くばかりで自身は殴られ続ける。それと引き換えに得るものは、パンを1つ買うだけの金もないような極貧生活。
「本当に、ごめんね。お母さんが弱くて情けないせいで……」
「分かったなら弱いことに理由ばっか言わんで、強くなり。えっと……そのぶんのおかね、貰わんといけんね。えっと……」
1日幾らで、それが何年分。ドワイトはそんな計算をしていたが、レオンが真似をしようとしてもさっぱり計算できない。2桁程度の足し算は習っても、掛け算や割り算など習っていないのだ。
「ねえ、いくらになる? どれくらい欲しいと?」
「私とタシュとローラで生活する基盤を作るのに、10金貨くらい……必要かも」
「分かった」
レオンは頷き、鞄から躊躇いなく金貨紙幣を10枚取り出し、ニルファルに渡した。高額をいとも簡単に出すレオンに、ニルファルは「え?」と動揺を隠せない。
「じゃあ、おれがこいつ貰うけん」
「ど、どうするんですか?」
「んー。酒ばっか飲んどるけん、ないぞーあんまり健康やないみたい。でもね、研究とかするやつ、さばいてかいぼーする。研究のざいりょうにできる」
レオンが何でもないように語った内容は、要するに「殺して使える内臓は取り出して売り、後は処分する」というもの。周囲の者はゾッとするも、誰一人として止めない。
「わ、悪かった! もう殴らない、優しくなる! もう怒らないし、酒も賭け事もやめる! 真面目に働いて困らせないから」
「自分が助かりたいけんっち、自分のために謝るやつは謝罪っち言わん」
この場にいるのが以前のニルファルと子供達だけなら、うわべだけの謝罪で済んだだろう。実際に改心するかは分からないが、おそらくそれだけで許された。
しかし、ここには「夫として、父親として」ではなく、人として悪者を許さないレオンがいる。
「今まで殴っておかね渡さんで怖がらせた分、どう償うと」
「じゃ、じゃあ俺を気が済むまで殴ればいい!」
「それは殴られた分の怨返しだけ。怖がらせた分と、生きるおかね渡さんかった分はどうするん」
「そ、それは……こ、これからはきちんとした父親として、夫として……」
「最初からきちんとしとるのが当たり前やろ。当たり前のことやりますとか償いにならん」
「……」
「今から普通になっても、最初からきちんとしとる父親には負けとる、人として。今まで殴られておかねもごはんももらえんかった分はどうするん」
レオンはマディの誓いを表情1つ変えずに払いのけた。
言っている事は、殆どがドワイトの受け売りだ。それでもレオンなりに理解はしている。マディが穴埋めとして、今までの分をどうやって償うのかを聞き出したいのだ。
だが、マディは何も言わない。
「ニルファルのひとと小さいひとの奴隷になって、何でも言うこと聞くくらいせんとね。今まで暴力ならずものやった分、償いにならん」
「ど、奴隷」
案は出さないくせにまだプライドが邪魔しているのか、妻と子供の言いなりになる事には快諾しない。
「このままえっと、しお、えっと」
『しおらしく、だ』
「そう! お利口なジェイソンなって、すごい助かる! えっと、しよらしくしとったら終わるっち思っとるんやろ」
『ここまで無様な姿を晒してなお、妻子供に手を上げる事はないだろう。それに、3人共このヒトデナシは要らぬと言っておる』
今更ながら大変な事になってしまい、マディの唇は震えていた。ニルファルの心はもう離れており、再び暴力で支配する事は叶わない。
子供を人質にしようにも、今まで子供を可愛がる事もなく、殴りつけてきたため手懐ける事も叶わない。
「レオンさん、ジェイソンさん」
「ん?」
「私、奴隷でもいらないです、こんな男。お譲りします」
「そ、そんな! お、おいタシュ、お父さんがいなくなって大丈夫なのか!?」
「うん、お母さんがいればいいもん」
息子にキッパリと言われ、マディは娘のローラにも視線を向ける。初めて見せる不安そうな視線も、ローラには効かなかった。
「いらなーい、ばいばい」
暴力と恫喝で支配し、確かに家族はそれに従っていた。
しかしそれは偉大な父親だと思わせるためで、マディは実際に子供達もそう思っていると信じていた。そうではなかったと知り、愕然としている。
怖いから、殴るから、だから嫌いという単純な話ではなく、子供達は尊敬できない父親は要らないと言っている。それは男の最後に残っていたプライドを砕ききった。
「じゃあ、ちょっとこいつ売ってくるね。買ってくれる人がおるか知らんけど」
「求人屋なら向こうの角だよ」
「南部の鉱山から毎週男が来てるよ! 人手が足りないんだって」
「ありがと! 売れんかったら、ないぞーだけにして治療院に持っていけばいいね」
周囲の者達が親切に売却先のあてを教えてくれる。レオンはニコニコ顔で男を引きずり始めた。
「こ、こんな事が許されるわけない! お前も暴力を……」
「おれ狐人族やけん、人族がどうしようが関係ない。ヒトデナシは人やないけん、おれなんも悪くない」
「そ、そんな……た、助けてくれ、ニルファル、タシュ、ローラ……頼む、もう酷いことは」
「ばいばーい」
事態を分かっているのかいないのか、幼いローラは笑顔でマディに手を振る。
「もう痛い思いはさせないわ、タシュ、ローラ。今までごめんなさい、私も今まで以上に愛情を注いで、しっかり働くわ。慰謝料が入ったら全部あなた達のために使う」
「ほんと? 魚も食べられるの?」
「あたし猫ちゃんかいたーい!」
「さあ、お父さんにさよならしましょ。もう二度と会う事はないから」
「ばいばーい! お父さんなんか大嫌い!」
「だいきらーい! どっかいけー!」
「さようなら! あなたのことは出来るだけ早く忘れるわ!」
恐怖から解放され、家族にも笑顔が戻った。レオンは満足そうだ。
「おれ、いいことした。ならずもの退治してちゃんと立派なれた」
『ああ。あとはこのクズが幾らで売れるか』
「あっ」
『どうしたレオン』
「服、血ぃ付いとる……ご主人が買ってくれた服なのに。おれ悲しい……」
脱力したマディを引きずりながら、レオンは1軒の建物の扉を叩く。求人屋だ。
「おれ、いらっしゃった! こいつ、しゃっきんのかた、売りとばしに来た!」
商人は突然現れた子供に驚くも、狐人族と知ってすぐに納得した。ドワイトのような始末屋がそこそこいるのだろう。
「ボコボコじゃねえか。ちょっと査定が下がっちまうが……まあ、鉱山にぶち込めばなんとかなるか」
レオンは11金分の給金を前払いしたとする証書にサインをし、金を受け取った後でマディを引き渡した。




