薬房探訪
「トーちゃぁぁああん!」
小広間に響き渡るほどの笑い声を張り上げていたのは、姿が見えないと思っていたムーであった。
トールの名前を呼びながら、階段の踊り場で手を振っている。
そしていきなり脇の手すりに飛びついた。
後ろ向きで手すりに乗った子どもは、そのまま勢いよく滑り落ちてくる。
おかげでスカートがめくれ上がり、かぼちゃパンツが丸出しである。
下まで滑ってきたムーは、終着点の丸く出っ張った飾りにお尻をぶつけて止まった。
振り向いた子どもは、満面の笑みで手を振ってみせる。
「見たか、ムーのかれいなすべりを!」
「ふむ、なかなかだな。ところで勝手に知らない場所で遊んじゃダメだって、トーちゃん言ってなかったか」
「う、言ってたかもしれない。でも、これおもしろすぎるぞ!」
全く悪びれないムーの返事に、トールは苦笑いを漏らす。
その横でいきなり吹き出したのは、意外にもユーリルであった。
珍しく声を上げて笑ってみせた銀髪の美女は、手すりにまたがったままのムーへ近づきスカートを戻してやる。
それから抱きかかえて床に下ろすと、その頭をゆっくりと撫でた。
「懐かしいですね。私がここに勤めていた頃も、こうやって遊んでは叱られる子が大勢いましたよ」
「ユーばあちゃんも、これやったのか?」
「実はやってみたかったのですが、教える身でしたのでそうもいかなくて」
「こんな、みりょくてきなのにか?」
うっとりした顔で、手すりを撫でるムー。
出会った頃と比べると、ずいぶんと表情が豊かになったものだ。
「ええ、すごく魅力的ですね。…………よし、やってみましょうか」
いきなり宣言をしたユーリルは、リズムよく階段を駆け上がる。
そして踊り場までたどり着くと、軽やかに跳び上がって手すりにお尻を乗せた。
横向きに腰掛けたせいで、タイトなスカートが引っ張られ太ももが半ばまで露わになる。
しかし気にする風もなく、女性は手すりを一息に滑り下りた。
一番下の飾りにぶつかりそうになる直前、ヒラリと着地してみせる。
その様子にムーは、目を輝かせてパチパチと手を叩いた。
小さく息を弾ませながら戻ってきたユーリルは、得意げにトールへ頷いてみせる。
その表情は、今まで見たことがないほど晴れ晴れとしていた。
「行きましょうか、トールさん、ソラさん」
「はい、お供しますよ。ムー、行くぞ」
「もうひとすべりしちゃダメか?」
「また今度にしとけ」
「むぅー!」
神殿長の部屋とは反対側の廊下を進むと、突き当りは外に通じる扉になっていた。
渡り廊下の向こうに、布張りの屋根を持つ奇妙な家が見える。
建物から出たとたん、今まで黙り込んでいたソラが深々と息を吐いた。
それから、さも残念そうに声を上げる。
「あー、わたしもすべりたかったなー」
「なー、あれはいいものだぞ! ソラねーちゃん」
「えらく手すりを押してくるな。ところで、なんでずっと黙ってたんだ?」
「もう、神さまのおそばじゃ、おしゃべり厳禁なんだよ!」
言われてみれば、ソラは時神様と空神様を祀る社の一人娘であった。
司祭である祖父に、神域での作法をみっちり仕込まれたのだろう。
歩きながら大きく伸びをした少女は、瞳をキラキラさせて話し出す。
「ふー、やっとしゃべれるよー。もう聞きたいことが山ほどあって、だまってるのたいへんだったよー。梢とか幹の階位とか、毛皮のしっぽだけ納めろとか。あ、それにその首飾り、よくお似合いですね、ユーリルさん」
「あら、ありがとうございます」
「それ、祭具っておっしゃってましたけど、うちにあったのとぜんぜん違いますね」
「そうなのですか? その辺りも含めて、色々とお教えしたいのは山々なのですが……」
そこで足をスッと止めたユーリルは、残念そうに肩をすくめてみせた。
「もう着いてしまいました。ここがオードルの薬房ですよ」
「ええー!」
すぐそこに見えていた場所なので、これは仕方がない。
その建物は平屋で、よく見ると普通の家に半円形の部屋がくっついた奇妙な形をしていた。
突き出した感じのその部分は、上部が白く透き通るような布で覆われている。
「白いパンみたいなおうちだな、トーちゃん」
「あれって雨が降ったら、雨漏りしませんか?」
「あの布は水に強い沼地蜘蛛の糸で編んでますから、意外と大丈夫だって聞いてますね」
説明しながらユーリルは軽く扉を叩くと、中から返事らしき声が返ってくる。
招待を受けて入ると、屋内は意外と広くスッキリとしていた。
部屋の中央には椅子に囲まれた丸いテーブルがあり、奥には腰の高さほどのカウンターが見える。
右手の壁は天井まで棚で埋められ、大小様々な壺やカゴが並んでいた。
左手には竈が二つ。
その近くには作業用の小さなテーブルがあり、取っ手がついた円盤を乗せた台や小さな鉢などが置かれてあった。
さっそく飛びつこうとしたムーの首根っこを掴んだトールは、部屋の奥へ視線を移す。
カウンターの向こうには、小さな引き出しだらけの棚が隙間なく並んでおり、端の方にこじんまりとした扉があった。
そこが急に開いて、奥から髪の短い灰耳族の女性が姿を現す。
「いらっしゃい。適当に座ってくれる。……あら?」
湯気の立つカップが乗ったお盆を手にしていた女性は、ちたぱたともがくムーを見て片方の眉をちょっぴり持ち上げた。
「さっき階段で遊んでいた子かな。知り合いだったのかい?」
「はい、大切な仲間ですよ」
「へー。どう、あの手すり、なかなかだろ?」
テーブルにカップを並べながら、女性は楽しそうに尋ねる。
トールの膝の上に座らされたムーは、すかさず手を叩いて賛同してみせた。
「うん! あれはいいものだな。なー、ユーばあ――」
余計な同意を求めかけた子どもの口を、トールはさり気なく手で押さえる。
しかし間に合わなかったようで、またも片眉を持ち上げた女性はユーリルへ顔を向けた。
「おや、君も楽しんだのかい?」
「ええ、意外と良いものでしたね」
その返答を聞いた女性は、今度は唇の端を大きく持ち上げて、カラリとした笑い声を上げた。
そして笑顔のまま椅子に座ると、トールたちに甘い香りがするお茶を勧める。
「冷めないうちにどうぞ。そうそう、名乗ってなかったね。ここで薬合師をしているオーリンドールだ」
「トールといいます。この子はムムメメ。ムーと呼んでますね」
「よろしくな、オーばあちゃん!」
「改めてましてユーリルと申します。祖母がたいへんお世話になったようで」
「ソラです。ステキですねー、このお部屋」
田舎育ちの無遠慮さで、少女は室内をジロジロと見回した。
「なんか不思議なものがいっぱい。あ、あれなんに使うんですか?」
「乾燥させた薬草を粉にする道具だね。そっちは固めて丸薬にする用だよ」
「へー! あ、あの扉はなんですか?」
感心したように頷いたソラは、竈から少し離れたところにある扉を指さした。
先ほどオーリンドールが出てきた扉とは別で、上部の小窓から光が漏れている。
「そっちは温室だね。入れてあげるのは無理だけど、そこの窓から中は見えるよ。覗いてみる?」
「ぜひぜひ!」
許可をもらったソラは、いそいそと席を立って扉へ駆け寄る。
扉に張り付くように小窓から中を覗き込んだ少女は、無邪気な歓声を上げてみせた。
楽しそうな声に反応してムーがもぞもぞと動き出したので、トールも子どもを抱き上げて扉へ近づく。
間近で見ると小窓にはまっていたのは、この辺りでは珍しい透明なガラス板だった。
もっとも珍しいのはガラス窓だけではなく、その向こうに広がる眺めも思わず息を呑むほどであった。
白く薄い布で覆われた天蓋は、陽の光をあまねく通してしまうようだ。
温室の内部は、真昼のように明るい。
部屋の中央には、青々とした緑の葉に覆われた見上げるほどに背が高い木が生えていた。
枝のあちこちには、黄金色の丸みを帯びた果実がぶら下がっている。
その木をぐるりと取り囲むように、奇妙な形の葉を持つ低い木々が生い茂る。
壁際に置かれたツルが絡みつく棚には、ひしめくように鉢植えが並べられ、鮮やかな彩りの花々が咲き誇っていた。
さらにトールたちの目を強く引いたのは、部屋の中を飛び回る宝石のような輝きであった。
色とりどりの翅を広げる蝶たちが、ひらひらと視界を横切っていく。
それはまるで草花の楽園と呼べるような光景であった。
「ほわー。チョウチョだらけだよ、トールちゃん!」
「なー、トーちゃん、あのなってるの、食べられるのか?」
「どうだろう。しかし、これは見事だな」
夢中になる三人の背後では、薬房の主とユーリルが差し向かいでゆっくりと香草茶を嗜んでいた。
二人とも何も語らず、たまに互いの視線をわずかに合わせるだけである。
やがて意を決したように、カップを飲み干したユーリルが口を開いた。
「何からお話ししましょうか? オーリンドールさん」
「ふふ、それまだ続けるの? いつも通り、オードルでいいよ」
押し黙ってしまったユーリルに、オーリンドールは悪戯っ子のような笑みを浮かべて言葉を続ける。
「察するに、その姿はそこの彼が原因だと思うが、合ってるかな?」




