受け継いだもの
こちらの時系列は<復元>の征戦から約二十年後のお話となります。
「……そんな、そんな簡単に諦めきれるかよ!」
尖った耳先をピンと立たせながら、アークリーシャは居並ぶ面々を睨みつけた。
大陸の北に位置する氷と雪の国ストラ。
そのさらに北限にあるトーリン開拓村の宿屋と酒場と寄り合い所を兼ねた一室で、一悶着が起こっていた。
外では轟々と雪混じりの猛風が渦巻いているが、室内は大きな暖炉でパチパチと薪が爆ぜる心地よい音に満たされている。
その炎に各々、好きなつまみを長い串に刺して炙りながら、火精酒をチビチビ流し込むのがここの冬夜の最適な過ごし方である。
ただし、その中で一人、不協和音を奏でる女性が居た。
年の頃は、二十代もやや半ば過ぎたところか。
無造作に切られた銀色の髪は荒れ地茨の茂みのごとく絡み合い、そこから枝のように灰色の耳が飛び出している。
縁無し眼鏡の奥から覗く切れ長の瞳は鋭い眼光を放っており、くっきりとした眉に高い鼻梁、薄い唇と、非常に整った顔立ちだが、その一つ一つの部位からも気の強さが見て取れた。
白いふわふわの毛皮のコートを身に纏っているが、その抜群のスタイルは服の上からでもはっきりと分かってしまうほどだ。
その女性、アークリーシャは腰に手を当てながら、部屋の中に集っていた面々を見回した。
しかしながら、その問い詰める視線に誰一人応えようとはしない。
顔を伏せ沈黙を保つ老人たちを前に、眼鏡の女性はもう一度問いかける。
「この村が終わっちまうんだぞ。本当にいいのか!?」
だが、答えはなかった。
腹立たしさが頂点に達したのか、アークリーシャは床板を派手に蹴りつけた。
そのまま踵を返し長靴の音を露骨に響かせながら、空いていた窓際の席へ向かう。
乱暴に椅子に腰を下ろした女性は、大きな舌打ちとともに悪態を吐いた。
「ちっ、どいつもこいつも!」
長々と息を吐いたアークリーシャは、テーブルの向かいに座っていた人物へ視線を向けた。
静まり返ってしまった部屋の中の雰囲気を気にも留めず、その見慣れぬ女性は夢中で赤蕪のシチューを口へ運んでいた。
おそらく他所からの訪問客であろう。
「悪い。飯時に騒がせちまったな」
「平気、うるさいのは気にならない質なのよ」
「そっか」
スプーンを小さく持ち上げた女性は、屈託のない笑みを浮かべてみせた。
こちらは目元の薄い笑い皺からして、三十歳以上だろうか。
この辺りでは珍しい黒髪をひっつめにして、使い込んだ革鎧やケープなどの旅装束を纏っている。
はっと目を引く美人な上に一人旅のようだが、武具の類は携えていないようだ。
もっともその代わり、その首からは目立つお守りがぶら下がっていた。
「お、珍しいな、あんた。元冒険者なのか?」
女性の胸元で揺れる冒険者札を見つけたアークリーシャは、驚きながら問いを発した。
"昏き大穴"が消滅して二十年。
すでに境界街という括りはなくなり、それぞれの街にあった冒険者局も消え去って久しい。
なので冒険者札も形骸化し、ただの装身具に成り下がったと問われればそうでもない。
それまで積み重ねた信用があるからだ。
長き年月の間、命懸けでモンスターと対峙し瘴穴を封じてきた仕事はそう軽んじられるものではない。
その鍛え上げられた肉体や技は十数年を経ても、いまだ畏敬の念を払われる対象となっていた。
もっとも後ろ盾となる組織がなくなった状態だと、そういった声名を利用しようとする輩が出てきてもおかしくはないはずだ。
しかしその点は、冒険者の印象の悪化を恐れた央国政府による苛烈な取り締まりもあり、詐称する命知らずはほぼいない状況であった。
そういった訳で冒険者札を身につけた人間は、どこへ行っても一目置かれ比較的、安全快適に過ごせるというわけである。
けれども、そうなると疑問が湧くのも当然だ。
「元冒険者様が、なんでこんな辺鄙な場所に来たんだ? なんにもない北の果てだぜ」
「いいえ、目新しい物事ばっかりで、すっごく楽しめているわ。雪山の景色は大迫力だし、それにこんな絶品のシチュー、なかなかありつけないわよ」
「クーリャ婆さんの特製だからな。それと挽き肉入りの揚げパンもおすすめだぜ。ライラール爺さんご自慢の一品だ」
「ふふ、それは楽しみ。あと、これも楽しみにきたの」
そう言いながら黒髪の女性がポンと叩いてみせたのは、窓の下に立て掛けてあった荷運び用のソリであった。
元は高価な魔石具のようだが、ずいぶんと使い込まれたのか少々くたびれている。
「うん? まさかソリってことは雪滑りか? って、わざわざ山奥くんだりまで、それのために来たのかよ!」
「ええ、この辺りの雪は柔らかくて最高だって聞いてね。いい斜面もあるんでしょ?」
「ああ、あるっちゃあるが……」
雪滑りとはその呼び名の通り、山の斜面に積もった雪の上をソリや滑雪板を使って滑り下りる遊びである。
粉雪を舞い上げながら斜面を一気に下る爽快感は何事にも代えがたい楽しさがあるのだが、その代償として歩きにくい雪山をせっせと登る必要があったりする。
そのせいで好き好んで雪滑りを楽しもうという物好きはそうそう居ない。
信じられないといった表情を浮かべるアークリーシャに、女性は得意げな顔で答えてみせた。
「このおはな丸なら、どんな雪でも華麗に滑ってみせるわよ」
「そ、そうか。うん……? なら、ちょうどいいぜ! 手を貸してくれ」
何かを閃いたのか、アークリーシャは息せき切って立ち上がった。
「来てくれ。詳しく説明する!」
「うーん、ちょっと待ってくれる?」
「む、駄目か?」
「いいえ、まだおすすめの揚げパンを食べてないから、その後ならどう?」
§§§
揚げパンを四つも平らげた女性が、アークリーシャに連れてこられたのは村の中央にある温室であった。
二重扉をくぐった二人を、真冬とは思えない熱気の中で蝶が舞う幻想的な光景が出迎えてくれる。
咲き乱れる花々に囲まれた中心。
そこには青々と豊かに枝を張り巡らす一本の樹がぽつんと立っていた。
幹に駆け寄ったアークリーシャは、得意げな顔で振り向いてみせる。
「あんた、珍しいものが見たいんだろ。ほら、こいつが――」
「あら、綺麗な黄金樹じゃない。こんな寒いところでも元気なのね」
「なんだ、知ってやがったのか」
残念そうにぼやきながらも、樹が褒められたのが嬉しかったのかアークリーシャは口の端を持ち上げた。
そしてまたも憂いを秘めた表情に戻る。
「な、ちゃんと育ってるだろ。ここまでにするのに二十年だぜ」
「頑張ったのね」
「ああ……」
地の底から熱を吸い上げ周囲を快暖に保つ黄金樹は、厳寒のストラでの辺境開拓には欠かせない存在である。
この樹の黄金の輝きがあればこそ、年の大半が氷点下となるこの地でも黒麦や大麦が栽培できるのだ。
「だけど、二十年もかけたのにまだこの程度だ」
黄金樹の梢の位置は、大人が両手を上に伸ばした高さを辛うじて上回るほどである。
とうてい二十年間も生育された樹とは思えない。
「なにか理由が?」
「あるぜ。あの御大層な聖樹様のせいで、とんだとばっちりだ」
「ええっ! ユーリルさん関係あり?」
うっかり親しい呼び方をしてしまった女性だが、アークリーシャは気に留めなかったようだ。
ぽつりぽつりと詳しい事情を話してくれた。
あまり知られていないが、ストラや央国各地に植樹された黄金樹たちは、実は根っこが繋がりあった巨大な群体生物である。
地中に広げられた根を通じ、互いの情報や栄養などをやり取りしているのだ。
けれども、新たに植えられた若い黄金樹は、最初からその恩恵に授かれるわけではない。
まずは自力でしっかりと根を張って己の生息圏を確立することから始め、その後、先達の樹が近くまで伸ばしてくれた根にたどり着くことで、ようやく群への加入が認められるのだ。
「問題はその時期ってやつだ」
このトーリンの地に黄金樹の若木が植樹されたのは約二十年前。
その一ヶ月後、"昏き大穴"が封じられ、彼の地に大黄金樹が突如として誕生する。
「当ったり前だが、そりゃそっちへ向くよ、関心は」
黄金樹たちはこの超特大の新入りに少しでも速く繋がろうと、こぞって根を伸ばしだす。
非常に残念なことに、その方角はここトーリンとは正反対であった。
その結果、一番近いお仲間の根に、いまだ到れていない有り様だというわけだ。
「後、もうちょっとなんだけどな」
さらに問題は根っこばかりではない。
黄金樹の成長には生き物の生命時間、いわゆる寿命が少なからず必要となるのだが、それを供給する若者の多くがこの開拓村には居ない。
なぜなら聖樹の誕生とともに、誰にも脅かされない温暖で広大な土地が現れたからだ。
「当然と言っちゃなんだが、そりゃそっちへ行くよ、若人は」
この若年層の流出に関しては、トーリン開拓村だけでなくストラ全体の問題となっているのだがそれはまた別のお話。
話を戻すと、先ほどの食堂での騒動の際に若者の姿が皆無だったのは、これが主な理由だったりする。
「なるほど。大変だったのは分かったわ」
「いや、話はまだ終わっちゃいねーよ」
「えっ、まだ続くの?」
「本題はこっからだ。一週間前に出入りの行商人のおっさんが教えてくれたんだが……」
西と南の村が二つ、消えたらしい。
いや、正確には消えたのは村人だけだとか。
現場には争った痕跡があったものの流血や死体は見当たらず、人の気配だけが完全に消え失せていたと。
「それはまた奇妙なお話ね」
「種明かしすると、原因はもう分かってるんだ……、死霊の王の仕業さ」
死霊の王。
大陸北部に出現する不死系のモンスターの中でも、特に厄介な一体だ。
骸骨に取り憑いた死霊が他者を襲いその死骸を取り込むことで、じょじょに大きな群れと化していき、犠牲者の数が一定数に達すると王と呼ばれる個体となる。
このモンスターが通り過ぎた箇所は、あらゆる生命が吸い尽くされてしまうと言われている。
「骨の集まりだから、ちょっとくらい欠けてもすぐに補充されちまうし、うっかり近寄るだけでカラッカラに吸われておしまいってわけだ」
「それはまた面倒な相手ね」
「ああ、オレの得意な氷系魔技にも耐性がありやがるし、うざったいたらありゃしねぇよ」
「ふむふむ、それで私に声をかけたというわけ?」
問いかける女性の言葉に、アークリーシャは唐突にその場に身を伏せた。
そして額を地面に擦り付けながら、懸命な声を上げる。
「頼む! 手を貸してくれ。なんとか出来そうな策はあるんだ! ただ……」
「この村は御老人ばかりで、協力は期待できないと」
「う、うん」
「そこへ都合よく頭の緩そうな元冒険者がのこのこやってきたと」
「……うん」
「でも高額な報酬は無理だし、一芝居打って情に訴えてみたと」
「……うん。って気づいていたのかよ!」
「そりゃ、あんな見図ったみたいに声張り上げてたらね」
わざわざ皆で口裏を合わせて、追い詰められた雰囲気を出してみたが無駄であったようだ。
がっくりと項垂れるアークリーシャに、女性は顎に人差し指を当てながら尋ねる。
「この村が大事なのね」
「当たり前だ!」
再び顔を上げたアークリーシャは、色が失せるほど強く唇を噛んだ。
「たしかにここは何もねぇ辺鄙な村だ。でも、何もねぇなりに二十年、歯を食いしばって守ってきた村だ。おいそれと見捨てるわけにはいかねーんだよ」
「でも、命あってこそでしょ。どこかに逃げるという選択は?」
「みんな、もう歳を取りすぎて他所でやり直す気力も体力も残ってねぇよ。それにな……」
力を込めすぎたのか、アークリーシャの爪が地面に深く突き立てられる。
「肝心のこいつが根を頑張って張りすぎて、ここから動かせねーんだ」
「そうなんだ」
「……二十年、オレ達がこいつにすべてつぎ込んできた二十年だ。そいつは簡単に捨てられるもんじゃねえし、軽々しく扱われるもんでもねえよ。あんたに分かるか?」
「ええ、分かるわ」
「へ?」
「いいわ、手伝ってあげる。本当ならちょっとした危険だって絶対に避けたいんだけど、そこまで言われちゃったら仕方ない。そうね、報酬はシチューと揚げパン食べ放題でどう?」
返事もできず間抜けに口を開けたままのアークリーシャに、女性は柔らかな笑みを見せる。
「それに帰れる場所ってのは、いつだって大切にしないとね」
§§§
死霊の王が村近くの山上に姿を表したのは、女性が丸二日間、雪滑りをたっぷり楽しんだ後であった。
氷尖山脈と呼ばれる高山の連なりは、村の北部を東西に横切る形でそびえている。
その稜線沿いに、こっちへ向かってくる大きな影が見えたという。
村人の一報を受けた二人は急いで斜面を駆け上がり、あらかじめ決めてあった尾根の上で身を潜めた。
一時間後、アークリーシャの視界が捉えたのは、異形の存在であった。
雪に膝近くまで足を埋もれさせながら、それはこちらへじわじわと近付いてきていた。
距離にしてまだ三百歩ほどあるはずなのに、なぜかモンスターの造形ははっきりと分かる。
さもありなん。
雪を掻き分けながら山稜をのっそりと歩いていたのは、巨大な一体の骸骨であった。
さらに距離が縮まると、その奇怪な姿の正体が判明する。
死霊の王の体を構成してのは、無数の骸骨だった。
死人たちの骨がそれぞれ組み合わさって、巨人のような骨格を造り上げていたのだ。
それら骨のあちこちは、黒い霧のような何かに覆われていた。
「はっ、趣味が悪すぎるだろ」
「王様ってのは、だいたい趣味が悪いものなのよ」
「でかけりゃ良いってか」
目を合わせた二人は、唇の端をわずかに持ち上げ頷きあった。
「そろそろ始めるか」
「見せ場は任せたわよ」
立ち上がった女性は、ソリの上に横向きに両足を乗せる。
そして長い木の棒を、棹のように雪に突き刺してぐいっと漕ぎ出した。
器用にソリの上に直立したまま、傾斜を滑り下りていく女性。
ただし、その雪面はいつもの村へ向かう南の斜面ではなく、決して立ち入るなと忠告されてきた北の斜面だ。
日がまともに当たらない北側は雪が重く、その上、凹凸だらけである。
だが、巧みに棹を操る女性は、鮮やかに雪の上を進んでいく。
不安定なはずのソリを事もなげに乗りこなすその姿に、アークリーシャは内心で舌を巻いた。
「地形を把握する力が桁違いだな。これが元冒険者か。……お、喰い付きやがった!」
派手に雪を巻き上げる女性に、モンスターも気づいたようだ。
バカでかい頭蓋骨がぐるりと動き、斜面を下りていくソリの方へ向く。
死霊の王の下顎骨が数度、上下し、その体が北の方角へ動き出す。
骨だけとはいえ、数十人分の重量だ。
安定した足取りで、女性の後を追うモンスター。
対して女性の操るソリは左右に蛇行しながら、曲がる度に雪を跳ね上げて注意を引き付ける。
「よし、いいぞ。そのまま、犬っころみたく追いかけろ!」
アークリーシャのつぶやき通り、巨大な骨は斜面を臆することなく下っていく。
派手に動き回る女性に、完全に釘付けのようだ。
「もうすぐ……、あと少し……、そこだ!」
モンスターの巨躯が斜面の中間辺りに達したその時、アークリーシャは勢いよく尾根から立ち上がった。
そして無数の骨が集まった胸糞悪いその姿を見下ろしながら、魔力を一気に絞り出す。
「くたばりやがれ! <凍柱華葬>!!」
その言葉と同時に、骸骨の頭上で雪の華が凄まじい勢いで渦を巻き始める。
瞬く間に集まった冷気が回転しながら空中に造り上げたのは、巨大な氷の柱であった。
丸太を数本、束ねたほどの直径と長さを誇るその凶器は、陽光を内側に吸い込んで一瞬の輝きを放つ。
次の瞬間、膨大な質量は重力に引かれ音もなく落下した。
鋭利な巨大氷柱の先端が、死霊の王の頭蓋骨へ迫り――。
衝突する寸前、なぜかモンスターの巨体がバラバラに砕け散る。
その直後、氷の柱が地面へ突き刺さった。
間を置かず、凄まじい轟音が響き渡る。
さらに押し退けられた雪と氷が、噴水のように宙に吹き上がった。
その雪煙に混じって斜面にぼとぼとと落ちたのは、なんと普通のサイズに戻った骸骨たちである。
そこへ黒い霧が広がり大量の死人の骨を包み込んだかと思うと、あっという間に一箇所に集めてしまった。
「ちぃ! 当たる瞬間、ばらけて逃げやがったのか。でかい図体のくせに器用な真似しやがって」
数秒足らずで元の巨大な骸骨の姿に戻ってしまった死霊の王に、悔しそうに悪態を吐くアークリーシャ。
しかしその顔色は悪く、額には脂汗が滲んでいる。
「やっぱり一発が限界か。情けねえな、ったく」
魔力の枯渇に耐えきれず片膝をついたアークリーシャに、死霊の王は虚ろな眼窩を向ける。
どうやら面倒そうな相手を、先に片付けることにしたようだ。
ゆっくりと斜面に手をかけて登りながら、モンスターは下顎骨をガチガチと噛み合わせてみせた。
その挑発じみた行為に、アークリーシャは小さく笑う。
そして突き出した親指をぐいっと下へ向けながら言い放った。
「躱したから勝った気になってやがんのか。こっちは元から当てる気なんてねーんだよ!」
その言葉と同時に、ころころと数個の雪玉が斜面を転がり骸骨の足にぶつかる。
そちらにモンスターの注意が向いた瞬間、巨大氷柱を中心にして斜面全体に亀裂が走った。
間髪容れず地面がくぼんだかと思うと、あちこちがいっせいに盛り上がり雪煙が吹き上がる。
そして斜面を覆っていた雪は、いきなり波のようにうねりながら下方へ動き出した。
すべてを圧し流し圧し潰す大自然の猛威。
それは死人であろうとも、一切の容赦はない。
白い雪の濁流に抗おうとした死霊の王だが、一秒も保たずその体勢が崩れてしまう。
膝下が呑み込まれ、傾いた体を支えようと突いた手も呑み込まれる。
背骨が空中で分解し、大量の骸骨が投げ出され次々と雪の中へ消えていく。
胴体を失い、為すすべもなく斜面を転げ落ちる頭蓋骨へ、アークリーシャは意気揚々と別れの言葉を送った。
「これなら、どう足掻いても逃げようがねーだろ。はっ、今度こそくたばりやがれ!」
無論、雪の下に埋もれさせた程度では安心できない。
角度が急過ぎる。
日が当たらないから雪が固い。
等々、北側の斜面が雪滑りに向いていない理由はいくつかある。
だがしかし、そんなことが些末と言えるほどの欠点がこの斜面には存在した。
激しく波打つ白銀は加速しながら、すべてを巻き込み下へ下へ流れていく。
そしてその勢いのまま、空中へ飛び出した。
そう。
斜面の一番下で待ち構えていたのは、底知れぬ大きな裂け目であった。
村人が凍り谷と呼ぶその場所は、一説によると氷尖山脈が産まれた際に出来たらしく、その深さは山頂と同じ距離であるという。
真っ暗な奈落へ吸い込まれていく真っ白な雪たち。
きらきらと雪の破片が舞い踊る幻想的な光景を、アークリーシャは呼吸を忘れて見つめた。
数秒後、雪煙が完全に静まったのを確認し、留めていた息を吐き出しながらつぶやく。
「ふぅ、終わったか?」
その安堵に満ちた表情が、斜面のとある変化に気づいた途端、凍りついたように固まった。
「なっ!」
アークリーシャの目に飛び込んできたのは、巨大な氷の柱にぐるりと巻き付いた骸骨たちの姿だった。
互いに体のどこかを掴み鎖のように繋がった骨たちは、谷の方向へ一直線に伸びている。
固唾を呑むアークリーシャの眼前で、湧き出した黒い霧が骨の鎖に絡みついた。
すると骸骨たちがぎゅっと縮み、雪が擦れる耳障りな音が鳴り響く。
その音が数回、続いた後、崖の縁から巨大な頭蓋骨が現れた。
ギチギチと骨たちを軋ませ奈落から這い上がってきたモンスターの姿に、アークリーシャは声を失った。
呆然としたまま俯きかけたその時、呑気な声がその耳朶を打つ。
「おーい、こっちこっち!」
大声の主は、とっくに避難したはずの女性であった。
なぜか崖の際の大きく盛り上がった雪山の上で、手にした棹をぐるぐると振り回している。
「なっ、何してんだ! 今すぐ離れろ!」
目をまんまるに見開いたアークリーシャは、慌てて女性を制止した。
死霊の王との距離が近いのも論外だが、その立っている場所はさらに論外である。
しかし女性は気にする素振りもなく、むしろアークリーシャへ余裕たっぷりに片目を閉じてみせた。
「大丈夫、まっかせてー」
「何が大丈夫なんだよ! そこは絶対乗るなって教えたろ! あっ、逃げろ!」
大声で会話していたのが不味かったようだ。
巨大な頭蓋骨がぐるんと動き、空っぽの眼窩に女性の姿を捉える。
その体はよく見ると、腰から下が失せてしまっていた。
どうやら半分は、雪崩が谷底まで持っていってくれたようだ。
残った上半身で這いずりながら片腕を伸ばす死霊の王。
その指先から吹き出した黒い霧が、雪山に立ち尽くす女性の体に触れようとしたその時――。
「あれ?!」
黒霧は何事もなかったように消え失せた。
もう一度、試す死霊の王。
だが、霧は女性に触れる寸前にまたも消えてしまう。
「どうなってんだ?」
死霊の王も、アークリーシャと同じ疑問を抱いたようだ。
しつこく三度目に挑戦してみる王。
けれども、結果は同じであった。
ガチガチと悔しそうに下顎骨を噛み合わせたモンスターは、四度目は確実に決まる方法を選んだようだ。
両腕で雪をかき分けながら、女性を目指して進み始める。
しかしながら、女性ものんびりと死を待つ気はないようだ。
死霊の王が近づくと、すいっとソリごと奥へ行ってしまう。
ずりずりっと距離が詰まると、すいっと。
また、ずりずりっと、すいっと。
「あー、クソ、言わんこっちゃねぇ」
気がつくと女性は雪山の端に追い詰められてしまっていた。
背後に広がるのは、まったく底が見えない深い谷間だ。
勝利を確信したのか、死霊の王は下顎骨を素早く打ち合わせる。
そして、おもむろに女性へ手を伸ばした。
歯を食いしばり、体を起こそうとするアークリーシャ。
対して女性は全く臆する様子もなく、持ち上げた棹をトンと足元に打ち付けた。
そこからは驚きの連続であった。
息吐く間もなく、盛り上がった雪山全体が唐突に落下する。
「へ?」
足元がすべて消えてしまったのだ。
当然、上に居た死霊の王も、谷底へと落ちていく。
しかし、なぜか女性の乗ったソリだけは空中に留まって落ちない。
「は?」
突如、真下から伸びきた二本の骸骨の腕がソリを捕まえようする。
が、見えない何かに弾き返され、奈落の方角へと戻っていく。
「い?」
続けざまに起こった出来事に理解が追いつかないアークリーシャは、眼鏡を外し丁寧に拭いてからまたかけ直した。
そして何もない空間に棹をさしながら戻って来る女性の姿に、顎が外れそうなほど口を開けた。
「な、何が……」
アークリーシャに分かったことは、女性が雪庇と呼ばれる強風で造られた雪の屋根に死霊の王を誘い込んで谷底に落としてみせたという事実だけであった。
真剣な顔で冒険者札を確認していた女性だが、不意に顔を上げ満面の笑みを浮かべる。
どうやら無事にモンスターを退治できたようだ。
上機嫌で尾根の上に戻ってきた女性は、南側の斜面を見下ろし弾んだ声を上げた。
「みんな、心配してくれたのね」
「あいつら。……ったく」
斜面の下に集まっていた村人たちは、アークリーシャたちが手を振ると口々に歓声を上げた。
平和な光景にため息を吐くアークリーシャに、女性は淡々とした声で話しかけてきた。
「帰れる場所、無事に守れて良かったわね」
「それ、前にも言ってたな」
「ええ、私のとっても大切な人の心構えなの」
「そっか」
今日は珍しく風が穏やかだ。
眩しく輝く雪の斜面を眺めながら、アークリーシャはぽつんと尋ねた。
「なあ、あんたにもあるのか? その心構えってやつ」
「私のは……」
冬晴れの空を遠い眼差しで見上げた女性は、さらっと教えてくれた。
「簡単には諦めないってことかな」
ついにコミックスが二桁の大台です!
確かコミカライズの連載が始まった当時は、すでに書籍版は1~2巻の売上が低く
打ち切り濃厚の時期でした。
そこから10巻も続くなんて、ほんとびっくり仰天です!
これも描き続けてくださったガンテツ先生、支えてくださった編集の方々、
そして買い支えていただいた読者の皆様のおかげです。
本当にありがとうございます。
二十巻、三十巻と続くよう引き続きよろしくお願いいたします。




