重なる指先
「あれ?」
現状を理解できないまま、ソラは周りを見回した。
先に逃げ込んだ木こりの数人が、地面に座り込んで息を整えている。
その中に幼い子どもの姿はない。
広場に顔を向けると、立ち並ぶ屋台からは一切の人影が消えていた。
その奥、冒険者局の入り口付近には、武器を構えた黒い制服がずらりと立ち並んでいる。
通りのあちこちには、荷物を抱えた人たちが内街の方角へ小走りに急ぐ姿が見えた。
視線を戻したソラは、空っぽのソリを眺める。
「……ムー……ちゃん?」
返事は返ってこない。
そこでようやく少女は、ムーがいない現実を理解した。
声にならない悲鳴を上げて扉に飛びつく。
夢中でカンヌキを外そうとしたところを、誰かの手に邪魔された。
「なにやってんだ? 死ぬ気か!」
「いないんです、ムーちゃんが!」
払いのけようとしたソラを、革鎧姿の門衛が強引に押さえつける。
そのまま年嵩の門衛は、カンヌキに鎖を回して鍵をかけてしまった。
「お前が死ぬのは勝手だが、俺たちを巻き込むのは勘弁してくれ!」
大きな門扉の向こうからは荒々しい獣の息遣いと、石壁に牙をぶつける硬い音が聞こえてくる。
数人の男たちが慌てて、飛び退くように扉から離れた。
「でも、ムーちゃんが! 子どもが外に置いてかれて……」
「だから開けろってか? 無茶言うな。今、ここを開けたらどうなるかくらい、馬鹿でも想像つくだろ」
先ほどの逃げ惑う人々の姿を思い出し、ソラは思わず立ちすくんだ。
それを見た門衛の男はさらに言いつのる。
「それにもう無理だよ。とっくに死んで――」
「おい、お前、言葉くらい選べ!」
「そうだぞ。それに俺たちがいたのに扉を閉めようとしやがって!」
「らい!」
「お、俺は街を守るためにだな……」
「怪物と戦うのがお前の仕事だろ! この嬢ちゃんは、俺たちを立派に守ってくれたぞ」
「ちゃんと高い給料もらってんなら、まともに働いてみせろよ! お前ら、毎日ダラダラしてるだけじゃねえか!」
「元でも冒険者様なら、猪一匹くらい余裕で片付くんじゃねえの?」
「い、いや、俺は盾士だから一人じゃ……」
言い争いを始めた門衛と木こりたちの会話に、聞き慣れた幼い声が混じっていたことをソラは聞き逃さなかった。
大慌てで扉に耳をつける。
さいわいにも猪は少し離れてくれたようだ。
猛々しい気配はいつの間にか消え失せている。
「ムーちゃん、そこにいるの?」
返事はなかったがかすかに聞こえてくる息遣いに、ソラは腰の力が抜けてその場にへたり込んだ。
そして湧き上がる自分への怒りに、扉へ強く手を打ちつける。
「すぐに助けてあげるからね!」
最初は急ぐあまり、振り落としたのかと思ったのだ。
でもそれなら、落とされたムーがすぐに声を上げるはずだ。
きっとムーはあえて自分から飛び下りたのだ。ソリを軽くするために。
その理由もソラには分かっていた。
トールに言われたからだ。
ソラをよろしく頼むと。
あの時、ムーをのせたままであったら、きっとソラは間に合わなかっただろう。
言いつけ通り、さっさと街の中に入っていればよかったのだ。
そうしなかったのは、もしかしたら自分でも役に立つかもと思ってしまったせいだ。
いいところを見せられるかもしれないと。
ムーに認めてほしいと願ってやったことが、ムーの命を奪おうとしている。
己のあまりの愚かさに込み上げてきた涙を、少女は強引に拭い取った。
今やるべきは泣くことじゃない。
この開かない扉のこちら側から、幼い少女の命を救うことだ。
誰しもが不可能と諦めかねない状況の中、そのたった一つの方法をソラは瞬時に導き出す。
「ムーちゃん、おねがいがあるの。聞いてくれる?」
答えは返ってこないが、聞こえていると確信してソラは続ける。
「ほんのすこし、今だけでいいの。今だけわたしもムーちゃんの一緒に入れてほしい」
扉に耳を押し当てていたソラの顔が引きつる。
地響きが近づいていた。
やはり猪は去ったのではなかったのだ。
轟音と振動。
先ほどよりも近い石壁から、体の芯まで響く音と揺れが発せられた。
痺れるような焦りに襲われながら、ソラは扉に爪を立てた。
「おねがい! そのままだと死んじゃうんだよ、ムーちゃん!」
魔技を使ってみせた以上、ムーはまだ生き延びることを諦めていないはずだ。
ゆっくりと扉の向こうの獣の気配が遠ざかる。
また距離をとって、向かってくるつもりなのだろう。
だんだんと猪の狙いが扉に近づいている事実が、少女をいっそう追い立てる。
扉を通してムーの震えが伝わってくる気がして、ソラはかすれそうな声を精一杯張り上げた。
「そんなのダメだよ! まだまだ楽しいこといっぱいのこってるよ。ごはんだってまだ屋台のメニューぜんぶ食べきれてないし、ムーちゃんとまたお風呂でキレイキレイしたいし、頭のつむじ探しもできなくなるよ!」
勝手に溢れ出そうとする涙に、少女はまたも怒りを覚える。
今は本当にそんな場合じゃない。
「…………グリグリのやつ?」
呟くような声に、少女は弾かれたように顔を上げた。
「うん、そうだよ。おねーちゃんが思うぞんぶん、グリグリしてあげるよ!」
「……一緒しても、ムーのことキライにならない?」
「なんで? ムーちゃんのこと嫌う理由なんてこれっぽっちもないよ!」
「……ムーのこと、きもちわるいから出ていけってぶったりしない?」
その言葉にソラは呼吸を止めた。
一瞬で頭の中を色々な考えが駆け巡る。
トールが少し前に話していた。
常識はところどころ抜け落ちてはいるが、ムーの言葉遣いはそれなりにまともである。
だから、どれくらいの期間かは分からないが、これまで誰かに育てられていた可能性は高いだろうと。
そしてそこから追い出された原因が、痛みさえ分かち合ってしまうムーの<感覚共有>にあったのではないかとも。
それともう一つ。
トールのような成人男性やユーリルのような老婆を受け入れても、ソラのような若い女性を無意識に輪から外しているのは、似たような年頃で幼子とも一番関わりが深い人物、おそらく母親からひどく拒絶されたせいではないかと。
愛しい存在を恐怖によって手放してしまったその女性に、ソラはちょっぴりの腹立たしさと強いやるせなさを覚えた。
深く息を吸ったソラは、心の底の感情を言葉に変えて絞り出していく。
「聞いて、ムーちゃん。わたしはぜったいに、ムーちゃんをぶったり出ていけなんていわないよ。ううん、いえないよ。わたし、ずっとトールちゃんに迷惑かけてきたんだ。でもトールちゃんは、そんなわたしをずっとずっと助けてくれた。だから今度はわたしの番。わたし、ムーちゃんのこと大好きだから、なにがあってもぜんぶ受けとめてみせるよ! だからぜったいに出ていけなんていわないし、もしムーちゃんが出ていくなら、うん、わたしもずっとついていくよ! ……トールちゃんも連れていくけど」
扉の向こうからは大猪が地面を蹴りつけて、今にも動き出そうとする響きが伝わってくる。
心臓が痛いほど高鳴るが、少女は奥歯を噛みしめて我慢した。
返事はなかった。
代わりにあったのは、引っかくような小さな音だった。
扉の下、ムーが身を潜める辺りから聞こえてくる。
こっちへ手を伸ばそうとしている。
直感的にそう悟ったソラは、地面と扉のわずかな隙間に思いっきり指を差し込んだ。
引っ掛かった手の甲の皮が剥け血がにじむが、お構いなしにねじ込む。
地響きが近づいてくる。
あとほんの少し。
力一杯伸ばした指先に、柔らかい何かがふれた瞬間。
――眼の前がいきなり開けた。
視界が低いせいで、猪の体がありえないほど大きく見える。
六本の脚が大地を蹴り飛ばす音も、ダイナミックに伝わってくる。
迫りくる恐怖につばを飲み込みながら、ソラは小さく呟いた。
「……見える相手なら、もうこわくないよ。あとはおねーちゃんにまかせてね、ムーちゃん」
<雷針>のおかげなのか、ムーの感覚を通して普段以上の情報が流れ込んでくる。
そのせいで、猪が何度も壁にぶち当たっていた理由があっさり判明した。
走ってくるモンスターの首は、奇妙な角度に曲がっていた。
だから軌道が斜めになり、壁に衝突していたというわけだ。
どうやら逃げる前に首をひねって横転させたのが、結果的に良かったらしい。
しかしその曲がりも、少しずつ治りつつある。
次はまっすぐに突っ込んでくるだろう。
ソラは扉に額をくっつけたまま、右手の指先はムーと重ね、左手で杖を握りしめた。
さっきのようにタイミングを測る時間はもうない。
半分しか返せないとしても、二連続なら全部。
四連続なら倍返しだ!
――<反転>!
間近に迫る巨大な猪の顔が、いきなり何かにぶつかったように歪んだ。
だが速度は落ちない。
――<反転>!
歪みがさらに酷くなり、頭部全体が半回転する。
首がねじ切れそうになりながらも、獣は憎悪に満ちた雄叫びを上げた。
同時に急激に魔力を失ったソラの心を、喪失感が覆い尽くす。
だが少女はなんでもないように、魔力を注ぎ続けた。
もっと酷い喪失感なら、すでに一週間ほど前に経験済みだ。
――<反転>!
突進の勢いをそのまま返された猪の顔が、鈍い音とともに一回転する。
――<反転>!
ほぼ足が止まりかけていた猪の首が、皮や肉が裂ける音とともに千切れてぶら下がる。
息の根が完全に止まったモンスターは、数歩よろめいたあと崩れるように倒れ伏した。
それと同時にソラも扉に額をくっつけたまま、ずるずると地面にかがみ込む。
完全な魔力切れで意識を手放す直前、少女の耳は壁の向こうのつぶやきを拾い上げた。
「ふぅ またかってしまった。ムーはやっぱりつよすぎるな」
「えええ、今のはわたしがやったんだよー……」




