夏林檎の約束
ザザムの足元には青い雷が纏わりつき、宙にたなびく紫電からは焦げくさい臭いが漂う。
誰にも悟られない動きで、老人はムーを手中に収めていた。
子どもを守っていたはずの双子が、驚きで目を見張るほどの早業だ。
しかしどれほどの速さであろうとも、トールの視界に留まる限りその魔技からは逃れ得ない。
隠し持っていたもう一つの天威の雷環を、ムーの頭上に掲げるザザム。
そうはさせまいと、トールが魔力を振り絞る。
――<遡行>。
これで何事もなかったように、ムーはネネミミの腕の中に戻る。
――はずであった。
子どもの頭部を照らすように回り始めた聖痕具を、トールは信じ難い目で見つめる。
あらゆる行動を取り消すはずの<遡行>は、その効果を発動することなく立ち消えていた。
すかさずトールは<予知>を使い、ムーへの距離を詰める最短の行動へ<加速>する。
いや、しようとした。
だが何一つ未来が映らない視界に、トールは強く奥歯を噛みしめる。
魔技は完全に封じられていた。
原因を探るべく素早く視線を動かしたトールは、すぐにその理由らしきものに思い当たる。
罪喰らいの獣が目覚めていた。
部屋の中央で丸まっていた巨大な獣は頭部を持ち上げ、その見開いた紫の瞳孔はまっすぐにムーへと向けられている。
トールの脳裏に、かつて聖遺物たる"欲喰の灯明"に自らを投じた親友の姿がかすめる。
あの時も神の力の依代である聖遺物に、トールの魔技は干渉できなかった。
ならばせめて前に出ようとしたトールだが、その足は地面に吸い付いたように止まってしまう。
「くそ!」
足元にまとわりつく紫色の<電滞陣>の輝きに、そこで初めて気付いたトールは悪態を吐く。
老練なザザムのほうが、一枚上手であったようだ。
「さあ罪を喰らう獣よ、この新たな巫女に分け身を授けたまえ!」
ムーを持ち上げた老人は、高々と力強い叫びを発する。
その呼びかけに応じるように、獣の巨体がわずかに揺らいだ。
同時にムーの頭の上の光る輪っかが、ひとりでにくるくると回り始める。
そのまま明滅する環は、次第に外側へ広がっていく。
またたく間に二倍以上の大きさになった天威の雷環を、トールたちは言葉も出せずに見つめた。
興奮で顔を朱に染めたザザムが、両手に抱えたムーをさらに持ち上げたその時――。
誰しもが予想だにしなかった出来事が起こった。
獣がのっそりと立ち上がったのだ。
「な、なんじゃと!」
巨躯をしなやかに震わせた罪喰らいの獣は、ムーに視線を注いだまま一歩前に踏み出す。
そのとたん、その体の下に隠されていた大きな黒い穴があらわになる。
聖遺物が大瘴穴の守りをあっさり放棄したことに、ザザムは激しく狼狽した声を漏らす。
「ば、馬鹿な。なぜ、本身が動く……。まさか、この子どもにそれほどの共感の力が……」
環の回転がさらに勢いを増し、低く唸るような音が部屋中に響き渡った。
子どもは顔を上げたまま、不思議そうな面持ちで巨大な獣を眺めている。
そして獣もまた魅入られたように、ムーをじっと覗き込んだ。
「伯父上、止めさせろ! この街が滅ぶぞ!」
「お、お鎮まりください、罪喰らいの獣よ! ど、どうか分け身だけを、分け身だけをお与えください。だめじゃ止まらん!」
獣がまた一歩足を踏み出し、ムーとの距離が縮まる。
間をおかずして黒い穴から、おぞましい空気が澱のようにじわりと溢れ出た。
唖然としたまま身じろぎもできぬトールたちの前で獣はさらに足を一歩動かし、地面の黒い穴はほぼ完全に姿を現す。
声にならない悲鳴を放つザザムと、青ざめた顔でそれを見つめるダダン。
誰しもが襲い来る危険を覚悟したその時、不意にすすり泣くような声が響いた。
「…………お願い、やめて。この子との間に入ってこないで」
それはいつの間にか立ち上がっていたココララが発したものであった。
懸命に獣にすがりつきながら、なんとかその歩みを留めようと足掻いている。
「この子を……。アルルドを取り上げないで。お願いだから、許してちょうだい」
その嘆願の声にムーは小さくまばたきした後、獣から視線を外して老婆へと移す。
まじまじとココララを見つめた子どもは、なぜか嬉しそうに声を弾ませた。
「そっかー。こいつは、ココばーちゃんのだいじかー。ムーのトーちゃんといっしょだな!」
「もう私にはこの子しか居ないの。アルルドまで居なくなったら……」
「うんうん、ムーもそれすごくわかるぞ。よーし、ムーにまかせろー!」
そう元気よく言い放った子どもは、ギュッと目を閉じてみせる。
次の瞬間、輪っかが一段と回転数を上げた。
上下にぶれながらも、もはや目では追えない速さで空気を断ち切って回り始める。
それと同時に、大きさもいっそう増していく。
すでに環の直径は、最初の時の数倍以上に膨れ上がっていた。
そして固唾を呑んで全員が見守る中、天威の雷環は不意に限界を迎える。
パリンっとあっけない音。
同時に四散する環。
ピカピカの破片が四方に飛び散っていく様を、この街を束ねる老人たちは口をあんぐり開けて見つめた。
「な、な、な……」
「ど、どうなっとるんじゃ……」
「ぎゅーってやると、バーンってなるんだぞ、おはなのじいちゃん!」
「そ、そうなのか。なんとも凄いことをやってのけたのう」
得意げに鼻息を吐くムーに対し、罪喰らいの獣は急に興味が失せたのか紫の目を閉じてしまう。
そのままゆったりとした動きで体の向きを変えたかと思うと、元の位置で同じ姿勢を取る。
寝そべった獣の体に、老婆は嗚咽しながらしがみついた。
そして大瘴穴が完全に見えなくなったことに、見守っていたトールたちは深々と息を吐いた。
「おひげのじいちゃん、おろして!」
「あ、ああ。う、うむ」
祖父に対するようなムーのお願いに、ザザムはようやく子どもをまだ掲げたままだと気付いたようだ。
動揺する表情を隠す余裕もなく、素直にムーを地面へ下ろす。
楽しげに笑った子どもは、トールへ飛び跳ねるように駆け寄る。
さっきまでの騒動がまるで何もなかったかのような幼子の顔に、トールの口元も思わず緩んでいた。
「トーちゃん、はらへった!」
「よし、帰るか。いいですよね? 師匠」
「ああ、伯父上、よろしいですな」
「…………好きにしろ」
「あ、ちょっとまって。トーちゃん」
いきなり踵を返した子どもは、そのまま罪喰らいの獣まで恐れる素振りもなく近寄る。
そして戸惑った顔で成り行きを見つめる大人たちの視線の中、ムーはずっと抱きしめていた包みをココララへ差し出した。
「これおいしいぞ、ココばーちゃん」
「え?」
黒い毛皮にすがりついていた老婆は、子どもの無邪気な呼びかけに当惑した声を返した。
そこへムーはリンゴジャムのパイを、もう一度ぐいっと差し出す。
「たべるとげんきでるからなー!」
「…………いいの?」
「うん。ムーおねだりじょうずだから、ユーばあちゃんにもっとつくってもらうし!」
「そうなの。ふふ、あなたも困った子ね」
一転して柔らかな笑みを浮かべたココララは、ムーから包みを素直に受け取る。
そして慈しむようにその胸の中へ、夏リンゴの香りを抱え込んだ。
「じゃあまたなー、ココばーちゃん」
「ええ、またね」
その約束とも呼べぬ軽々しい別れの言葉に、老婆は安堵したような笑みをいつまでも浮かべていた。




