大事の前の一休み その二
「今日はまたずいぶんと良い天気ですな」
いつもはせわしない口調の上司の物静かな一言に、ラッゼルは黙って頭を振った。
バルッコニアは駆け引きが必要のない相手では、いつもこんな感じである。
本人曰く、多くを喋ることで相手の思考を集中させないよう煙に巻く癖は、長らく"灼炎の担い手"で交渉役を務めてきた賜物らしい。
ポツリと喋った後、またも黙ってしまったバルッコニアの横を、ラフな格好の剣士は何も言わずに歩く。
そしてさらにもう一匹、二人に静かに寄り添う存在が居た。
ラッゼルの愛犬バウだ。
銀色の毛並みを持つこの大きな犬は、今年で十歳になる老犬である。
見た目は凶悪な狼にそっくりだが、気性も穏やかで無駄吠えなどしたこともない。
休みの日課であるこの犬の散歩に、なぜかラッゼルが金剛級に上がった辺りから、いつの間にかバルッコニアもついてくるようになっていた。
かといって、特に話がある様子でもない。
ただ横に並んで歩いて、たまにふと気付いたことを呟くといった感じだ。
たったそれだけであるが、気休めにはそれで十分でもあった。
新たな狩場である廃棄された地下の監獄へ通うようになったラッゼルだが、早々に行き詰まっていた。
これまでとは違い、炎を纏わせた武器がほぼ通用しない相手ばかりだ。
面倒な攻撃も多いため、倒される前に最大の一撃を叩き込むやり方も、消耗が大きすぎて後衛に負担をかけてしまう。
加えて前任者のストラッチアが優秀すぎたというプレッシャーもある。
しかし最初は思うように動けず苛立ちを募らせたラッゼルであったが、今はそうでもない。
気持ちの方は、ずいぶんと落ち着いていた。
以前にトールへ難癖をつけ一方的に叩きのめされた際も、周りに陰口を叩かれる中、バルッコニアはただ一人かばってくれた。
依頼の内容をきちんと確認せず、情報の収集を怠った自分のミスだと。
今回も炎系魔技がほぼ通じないバルッコニアの方が、大変であったはずである。
だが口ひげを伸ばした炎使いは、愚痴一つ漏らさず自分がやれるべきことをただひたすらやってのけた。
その姿勢にラッゼルも考えを改める。
まずは剣士としての本分を尽くそうと。
同時にそれとなく気遣ってくれたバルッコニアへ、感謝の気持ちを抱く。
そんな風に周囲に対し細やかに心を配る上司を、ラッゼルは密かに尊敬していた。
不意にバルッコニアが、視線をとある店先へ向けた。
大広場に近いこの辺りは食品を扱う店が軒を連ねている。
ちょび髭の男性が興味を示したのは、その内の一つである精肉店であった。
「すみません、ちょっと寄ってもいいでしょうか?」
「ええ、どうぞ」
金剛級であるラッゼルなら、犬を同伴してても咎められることはない。
しかし他の客の迷惑になると考えた剣士は、引き綱を手にしたまま外で飼い犬と一緒に上司を待つことにした。
しばらくすると、大きめの包みを手にしたバルッコニアが嬉しそうな顔で出てくる。
「少しばかり頼まれごとがありましてな。いや、良いものが見つかりましたよ。ああ、お一つどうぞ」
そう言いながら手渡してきたのは、枯木のように硬いハムの切れ端であった。
さらにバウには大きめの骨を差し出す。
「ありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ。いつも散歩のお邪魔をしているお詫びですよ」
そう言った後、歩き出したバルッコニアはまたも空を見上げて呟いた。
「ふう、青い空は見てるだけで本当に気持ちがいいですな」
ラッゼルは何も答えず、ただ顎をわずかに引いてみせた。
施療神殿の一室。
若い女性の住まいとは思えない乱雑な部屋の隅で、モルダモは椅子に腰掛け目の前の女性の仕草をじっと眺めていた。
寝台の上、脱ぎ散らかした衣服に交じって腰掛けるリコリの手元にあるのは、分解された笛の部品たちだ。
丁寧に一つ一つを磨き上げ、時折その光沢を確かめるように窓辺へ向ける。
なんとも地味な作業である。
だがその光景を、モルダモは押し黙ったまま見入っている。
退屈はしない。むしろ、いつまでも眺めていられる。
海女である母親も、あのように黙々と採ってきたばかりの貝を掃除していたものだ。
モルダモの生まれた島は、トリアラ群島連邦の中でもとりわけ東の外れにあった。
岩が多く荒れやすい海は、船での漁にはあまり適していない。
しかし黒縞貝などが豊富なため、素潜りが活発だった。
モルダモも子どもの頃から、よく海に入って探したものだ。
故郷を思い出す際に心に浮かぶのは、いつもその時の水底からの群青色の眺めである。
その景色はもうない。
今年の頭に、瘴波に呑まれて島ごと消えたそうだ。
小さく息を吐いた蒼鱗族の男は、ゆっくりと目を瞑った。
その瞼の裏に浮かぶ両親や、友人知人の顔を一人一人確かめていく。
彼らを助けるためには、やらねばならないことがある。
「大丈夫かい?」
目を開けると、いつの間にかリコリが側に立って心配そうに覗き込んでいた。
「ああ、大丈夫だ」
「そうか。ならいい」
少しだけためらうような表情を浮かべた奏士だが、意を決したように手を差し出す。
その手のひらに載っていたのは、左右に波打つような刃を持つ一振りのナイフであった。
「ムーちゃん、またお話きかせてねー」
「うん、まかせろー」
「じゃあ、また今度、遊ぼうね」
「さようなら、ムーちゃん」
「みんな、またなー」
大勢の友人に別れの言葉を告げられながら、ムーはご機嫌な顔で大きく手を振った。
半年前までは路地裏で野良猫たちと暮らしていた少女だが、トールたちの心配をよそにすっかり探求神殿の学校に馴染んでいた。
いや、馴染むどころか、今や学校一の人気者である。
数々の偉業に貢献した英雄でありながらも、本人にはそんな自覚はほとんどないせいか偉ぶる態度は全くない。
いや、むしろ素直過ぎて、周りが心配するほどである。
それでいて尋ねてみると、その口からは大人でも知らないような瘴地の奥の話がバンバン飛び出してくるのだ。
さらに頼めば気軽に魔技を披露してくれたり、面白そうな遊びを次々と思いついたりと。
これで人気が出ないほうがおかしい。
境界街ゆえに冒険者に憧れる子も多く、今ではムーが登校するたびにその周囲に大きな人の輪ができるほどであった。
たっぷりと学校生活を満喫し終えたムーは、勢いよく探求神殿の扉を押し開け外に飛び出す。
すでにその両足は青い雷の光に包まれ、縞模様の靴も地面からわずかに持ち上がっている。
「ジャムー、ジャムー、あまいぞむー」
今日のおやつは、ムーの大好きなリンゴをたっぷり使った一品らしい。
急いで帰らねばならない。
ぴょんと元気いっぱいに飛び跳ねた子どもが走り出そうとしたその時、待ち構えていたように声がかかった。
「ムムメメ様、お待ちしておりました」
「む!」
挨拶してきたのは、よく見知った人物だった。
法廷神殿でムーの教育係を務める女性だ。
「なにかごよう?」
「はい、お迎えに上がりました」
いきなりの女性の言葉に、子どもは大きく首を傾げる。
今日は法廷神殿に通う日ではなかったはずだ。
「ムー、はやくかえっておやつたべないと。そのあとでいい?」
「これは失礼しました。実はトール様が神殿でお待ちなので、私がお呼びに出向いた次第なのです」
「トーちゃんが?」
「ええ、急いで来てほしいとのご伝言を承っております」
「ほんと?!」
そう聞き返しながら、ムーは<雷眼看破>を発動させる。
予定もなく法廷神殿に呼ばれた時は、この特性で相手を見てからだとトールに何度も言われていたからだ。
頷いてみせる目の前の女性からは、嘘をついているような気配はみじんもない。
どうやら本当に、トールに何かあったようだ。
心配で胸がはち切れそうになった子どもは、大慌てで再び跳び上がる。
「トーちゃん、ムーがいまいくぞ!」




